自由化を前にした第11回東京モーターショー


日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)

1.4 自由化を前にした第11回東京モーターショー


(In Working)

1964 TMS 0

第11回東京モーターショー
 この年から「見せるショー」から「売るショー」に変化した評価されたように、日野自動車初め、各社、マーケティング戦略を本格的に感じさせる工夫を凝らした展示方法になった。(日野社報 39-10・11 No.58より) 

 1964年度(昭和39年)の第11回モーターショーは東京オリンピック開催のため、例年よりは早い時期の9月26日(土)より東京晴海の貿易センターで開催された。国際的に見てもその規模は世界的なものになり、東京オリンピックの開催直前と言うこともあり、一日早い9月25日(金)の報道関係招待日には外国人記者も大挙押し寄せた。

 乗用車館には過去最大の156台の展示が各社からあった。日野自動車は旧型となったコンテッサ900の1台を含む8台の国内向けモデルを華々しく以下のように展示した。

  • ターンテーブル展示
    • クーペ(クラレッドレッド)
    • セダン・デラックス(シェルホワイト)
  • フロア展示
    • クーペ
    • セダン・デラックス、フロアシフト4速
    • セダン・デラックス(2台)、コラムシフト3速
    • セダン・スタンダード、コラムシフト3速
    • コンテッサ900

 ここでコンテッサ1300のボデーカラーに関し触れておこう。日野自動車は当時、国産車としては珍しかったメタリック・カラーやツートン・カラーを多用した。メタリック・カラーだけでも7種類(ストーングレー、ワインレッド、ミスティブルー、モスグリーン、バイキングブルー、ミンクゴールド、クラレッドレッド)の中から選択出来たのである。因にノン・メタリックはブラック、オパールクリーム、マーブルグレー、ベネチャンレッド、スモークブラウン、ダブグレー、シェルホワイト、オランドブルー、ネイビーブルー、セイジグリーン、マリーナブルー、アイシーホワイトなどの数多くのバリエーションがあった。特にメタリック・カラーに関しては、専用の塗装ラインを用意していた。当時の技術ではメタリック・カラーはまだ難しかったのではないかと想像出来る。ボデーのカラーリングのセンスと選択の広さを購入者に与えた新しい試みは当時として評価出来るもである。しかし、日本だけの現象であろうが結果的に後々、 “白の伯爵夫人” と言うイメージが何故か定着したようで、特にクーペにはアイシーホワイトが巷を数多く走り回っていた。

 自由化を前にし、日本のメーカー各社は自社の製品に絶対の自信をもってこのモーターショーに挑んだのであり、日野自動車も例外ではなかった。しかし、新しい車を製造すると言うことはそれなりの設備投資が必要だと言うことだ。この時代、現代の製造技術と違って多品種少量生産、すなわち部品の共通化によるバリエーションなどは到底望むべくものではなかった。単一車種に相当大きな生産量が求められる時代であったのだ。コンテッサ1300発表時期の1964年(昭和39年)1〜9月における実質的な1モデルあたりの平均生産量はトヨタ及び日産の4500台/月に比較して日野自動車はおよそ1600台/月であった。当時、月産5000台と2000台のメーカーのコスト差は8%と言われていた。これは言い替えれば、5000台のメーカーが売り上げ利益率が8%としたら、2000台のメーカーを利益がゼロと言うことになる。勿論、これには販売価格などを考慮を必要とするが。

 この辺の問題は当時の企業のスタミナとも言うべきのを見ると明白に理解できる。1963年度(昭和38年度)の下期における売上高利益率はトヨタ自動車14.2%に対し、日野自動車7.6%、総資本利益率は同様に20.8%に対し、5.4%、利益余剰金対総資本比率は同様に18.8%に対し7.6%、自己資本比率は同様に50%に対し、25%等などであった。トヨタ自動車は抜群に良い数字であったが日産自動車も同様な数字であった。また、いすゞ自動車やプリンス自動車については、ほぼ日野自動車と同じ様な数字であったことを付け加えておこう。(『プレジデント』1965年1月号)トヨタ及び日産自動車は日野やプリンス自動車の倍以上のスタミナを持っていた訳である。車を開発・造る・売ると言った企業の体力を数字でかいま見ることが出来る。

 いずれにせよ、当時、トヨタ・日産が市場を独占する体制が出来ていた中での日野自動車の社運を賭けた本格的な海外進出及び1シフト2000台が見込める小型車専用の羽村工場への設備投資を前提としたコンテッサ1300の発表であった。

 コンテッサ1300は取締役社長松方正信以下、開発担当者、製造担当者、全ての人々から厚いまなざしに包まれながら世に出て行ったのであった。これらの関係者は当時のホンダ技研、古くは米国のタッカー自動車の様な少量生産メーカーにおける独自性を持ったチャレンジ精神や起業家精神と言う面では共通するものはあったものの、車造りと言う面では非常に異なった面を持っていたのではないだろうか?日野自動車はデザインを担当したミケロッティに代表されるように世の中に広く受け入れられる優れた自動車(=工業製品)を造ることであった。日野の技術陣もそれは全く同様であった。エンジンやシャシーの設計からみても革新的なものを狙ったものではなかった。コンテッサ1300はあくまで高いレベルでの世界市場向けの乗用車を狙ったものであっのだ。

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第11回東京モーターショーで圧巻の美しさをはなった “トリネーゼスタイル”
ターンテーブル展示のクーペ(クラレッドレッド)とセダン・デラックス(シェルホワイト)

(Newed 2014.8.11)


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