なぜルノー4CVを選択したか - ライセンス生産


日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)

2.2 なぜルノー4CVを選択したか - ライセンス生産


(In Working)

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1945年,日本は敗戦国となり、日野自動車本社も米軍の接収で立入り禁止となった。賠償保全指定が解除後、“OFF LIMITS” の看板をはずした。そこにはコンテッサを推し進めることになった大久保/松方/家本の各氏の姿があった。 (日野40年史より)

 何故、日野の選択がルノー4CVだったのか?この問いを明らかにしてみよう。

 第二次世界大戦中の軍事工場としての役目を果たした日野重工業は当然のことながらGHQ (連合国軍最高司令官総司令部) の賠償保全指定となり工場は封鎖されたが、当時、専務の大久保正二等の努力により1948年(昭和23年)1月8日に解除され事業再開となる。

 総合自動車メーカーを目指すためには大型自動車の開発・製造・販売を手がけ、それは出来るだけ大きく、例えば110人乗りトレーラーバスを造ったことに見られるように、それは終戦直後の混乱期の交通手段として極めて明確な回答であった。この考え方、戦略の背景には、小型車は近い将来をみれば家族が段々と小さくなり4人程度が乗れれば十分、且つ経済的なものであると云う考え方を見ることができる。単純明快な理論だ。星子イズムが脈々と生きづいていたのだ。

 1962年(昭和27年)、通産省は「乗用車関係提携及び組立契約に関する取扱方針」を10月3日に打ち出し,また業界への指導だった。これは販売のための外国資本は認めないが生産のための資本投下は考慮しよう云うもので、それは完全ノックダウン(CKD - Complete knock down)の形で一定量を輸入し、提携契約で供与される技術図面によって、部品の分解研究をしながら組み立てを行うことで、技術習得習得を短時間に行い、最終的に外国車を国産化をする目的が込められていた。

 更に重要なことはその許可が2社ないし3社となっていたことだ。これに対し、日野の事情は日産がオースチンいすゞがヒルマンと云う具合に競争関係にあり遅れは許されない状況にあった。

 これと前後し、1952年(昭和27年)4月、フランスのルノー公団が世界各国でCKD生産をすすめていたルノー4CVの日本での展開の交渉に日野やその他数社へやって来たのだ。

From Renault 4CV de mon pere

 ルノー公団の日野への提案は種々の難問があったものの「ルノー4CV」そのものは星子イズムを背にした起業家・大久保正二(当時、社長)にとって奮いたたせるに十分な製品であった。「どうだね、この車造れるか?」と大久保に尋ねられた家本(当時、工場長)は「一番取りつき易いと云う印象がありました。要するに国産化するに一番手っとり早い。つまり構造が簡単。それで車の性能は良い。簡単で思いきった設計ですから極めて軽い。それは小さいエンジンで少ない燃費で良く走る」と評価しており、更に「リヤ・エンジンであのサイズは非常にあっていた様です。軽い車で後輪荷重が軽かったらロードグリップが非常に貧弱になる。後で家族で日光に行ったがイロハ坂でスリップしたことがあったが普通の車だったらもっとひどかったろうと思います。そのことはコンテッサになってからも雪の降り初めなんかは他車を尻目に何時も悠々と....つまり、後輪荷重がちょっと多めと云うメリットが出ました」と長所を語る。( “戦後の日野の乗用車のお手本” を参照)

 当時、簡単に造れる、すなわちメーカー側のメリット、簡単に乗れる、すなわち商品価値=ユーザー側のメリットと云うことで起業家にとっての条件は十分なものだった。

 参考までに若干時間がずれるが表-1の1957年(昭和32年)当時の700ccクラスの世界に乗用車のエンジン・レイアウトを見て見よう。如何にこのクラスでリヤ・エンジン方式が有利であったかを証明するものである。当時、小さなサイズで大きな車内スペースを確保出来ること、プロペラ・シャフトが必要無いこと等簡素な構造がとれることや操縦性が優れていることで、このクラスは世界的にリヤ・エンジン方式だったのだ。

 翌年の1953年(昭和28年)2月26日にはルノー公団と「ルノー4CV乗用車の組立並びに国産化」の契約がなされた。組立工場自体は前年から着工されており、契約と同時に早々と生産の運びとなった。「ルノー日野」の誕生である。( “ルノー日野KD生産:日本のモノづくりの再復興の原点” を参照)

 その後、5年後の完全国産化を目指しての交渉は設計・生産に関するノウハウ公開など困難を究めたが大久保等の努力により進展した。この国産化に至る過程でルノー公団との交渉にあたった家本は当時を次の様に懐かしむ。「折衝は昭和32年ぐらいまで続きましたね。そして何回もルノー公団に行って、担当者とハードディスカッションをやりましたよ。ですけれどフランス人は気持ちの良いもので議論はすごく厳しいのですよね。理屈ぽくて。ところが ”ウイ、ボン” と言ってしまうと後は結構いいかげんですね」

 次第に図面ばかりでなく、技術標準書、製造工程表なども入手出来るようになり、後々の日野の生産技術の向上に大いに貢献することになった。それはルノー公団の当時より取り入れていたIE(Industrial engineering - インダストリアル・エンジニアリング)の考え方であり精密巧緻を究めたものばかりであった。

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当時のルノー公団による4CVの日本市場向け&日本バージョンのイラスト (1954年と推測) 。おそらく東京の丸の内あたりをイメージしたようだ。ルノーらしく女性中心なのも好感。また2枚目のイラストは日本の法規制を考慮したバンパーを拡大して全長を伸ばしたイラストも誠に貴重なものである。本国の4CVにはフランス&パリをイメージした同様なイラストがあり、おそらく同じ戦略によって日本での展開を進めたものと分析する。まさにその当時から世界レベルのグローバル企業&戦略だった。

【表-1:700ccクラスの世界に乗用車のエンジン・レイアウト】

駆動 車名 排気量 馬力 SAE 自重 最高速度 ホイールベース
方式     (cc) (hp) (kg) (km/h) (cm)
RR Renault 4CV フランス 747 21 560 100 210
RR Renault Douphino フランス 845 30 635 117 227
RR Alpine A106 フランス 747 57.5 500 153 210
RR Autoblue フランス 845 30 630 120 210
FF Citroen 2CV フランス 425 12.5 490 78 240
RR Abarth 750 (Fiat 600) イタリア 747 41.3 585 135 200
RR Fiat 600 イタリア 633 21.5 560 101 200
RR Fiat 600 MULTOLA イタリア 633 21.5 700 90 200
RR Moretti イタリア 748 30 750 115 215
RR Siata Amica イタリア 633 21.5 585 100 200
FF DKW ドイツ 896 45 860 125 235
FF Saab 93 スウェーデン 748 38 787 117 248.8
(Katalogo-Nummer der Automobil Revue 1957より抜粋)

(Newed 2014.8.11)


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