トリノのバーにて - ミケロッティとの出会い


日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)

3.1 トリノのバーにて - ミケロッティとの出会い


(In Working)

 1960年(昭和35年)、当時、生産管理の研究にためにパリのルノー公団に駐在していた日野自動車工業(以下、日野)の山内常範は東京の家本潔(当時、専務取締役工場長)からの電話による業務命令を受け取った。それはイタリアのトリノに出向いて次期新型乗用車のために有能なデザイナーを探すことであった。

 家本達はパリの自動車技術会の会長であったムッシュ・エッフェルから、トリノのデザイナーに関し情報を得て、山内はその年の9月にトリノを訪問した。そこで多くのカロッツェリアを訪問し、当時、新進気鋭のミケロッティが第一の候補に上がって来た。山内はこの最初のトリノへの旅でミケロッティとの接触を計るもののイギリス出張中のため失敗に終わった。

 二度目の訪問では予定より大分早くトリノに到着し、山内は街のとあるバーに入り時間を過ごした。カウンターに身を落ち着けると、隣の客からいきなり話しかけられ「お前さんは日本人か?」と聞かれ、何とサントリーのダルマを棚から出してきた。そしてのその客は「ウイスキーはこれが最高なんだ」と言いながら山内に語りかけ一緒に飲み始めた。

 話がはずみ、「トリノの何処に行くんだ?」と問われ、山内は「ミケロッティ氏の事務所に」と答えると、その客は「ミケロッティは私だ!」と相成った。その後のその場での話は当然のことながら盛り上がったに違いない。

 偶然ともいえるこの旅でのトリノのバーの出会いである。ミケロッティはプリンスとの契約があり、2000cc以上は出来ないが、それ以下のものは可能ということで、日野との契約の内容や費用などを山内に詳細に語った。そして、ミケロッティは山内を前にしてその場でウイスキー片手にスケッチを書いたのである。これそのものが日野がミケロッティにスタイリングを依頼するきっかけの大きな材料となったのである。

 山内にトリノ行きを指示した家本は「何時決めたかということについては、そのスケッチを見て決めた。それで無しにその後の契約には至らない」と語る。

 日野はコンテッサ900のデザインに関し、その手法は全くゼロからの出発であり、暗中模索であった。同時に発表した同じエンジンを持つ小型トラック、ブリスカは社外の工業デザイナーを起用した。しかし、デザイン上、走る道具としての機能美ともいうべきものが十分ではなかった。また、コンテッサ900については、社内の大きな努力の成果はあったもののデザインの一貫性に関し反省が残った。

 一方、プリンス自動車はスカイライン・スポーツでミケロッティ、日産自動車はブルーバードでピニンファリーナといった様にイタリアのカロッツェリアを利用する方向にあった。

 この様な状況にあった日野は、極く自然な成り行きとして次期乗用車のデザインはイタリアでいったことで、まず山内が契約打診のためトリノ行きとなり、ミケロッティと偶然の出会いとなったのある。

謙虚なトリノ人 - ジョバンニ・ミケロッティ

 ミケロッティは1921年10月、世界の自動車デザインの地、北イタリアのトリノ市に生まれた。トリノ市はその1/16がフィアットの労働者といわれる様に当時、ヨーロッパの自動車工業都市の一つであった。祖父は馬車職人、父はフィアットの鋳物技師と生来の自動車人である。6、7歳の子供の頃からから自動車に興味を持ち、1937年、16歳の時、見習いデザイナーとしてピニン・ファリーナの兄のジョバンニ・ファリーナの経営するファリーナ社に入社した。

 そこでまず、カー・デザインの基礎を学ぶとともに、ハンマーの叩き出しからボディー製作の基礎を見につけた。このことは後々、車をどう造るかとということに関し、学問で学ぶ以上に役に立つことになる。

 その後、ミケロッティは1年間でその経験と才能が認められと共に社長のアルフレッド・ピニヤーレの信頼を得、チーフ・デザイナー代理という要職を得た。そして、ファリーナ社のイタリヤ内外の裕福な顧客の要望に応じて数々のカスタム・カーのデザインを進めた。結果的にそれはトリノ市のみならず広くミケロッティの名前が知れわたることになった。

 1949年、ミケロッティは独立し、ボデー・デザインに関しフリー・ランスで手がける”ステューディオ・テクニコ・カロッツェリア・ジョッバンニ・ミケロッティ”を設立すた。ミケロッティは自動車専門のボデー・デザインの最初のフリー・ランサーでもある。仕事はアルマーノ、ビニヤーレ、ギア、ベルトーネ、その他多くのデザインを手がけた。

 当時までの代表的な作品として、アルピーヌ・ルノー、BMW700、BMW1500、アバルト850、アバルト1600、トライアンフ・スピットファイア、マセラティ5000など量産車を含め数限りない。デザインの特徴はスタイリッシュな細身の長身とでも言うべきか、低い車高でウエスト・ラインを下げ、そして細いピラーにある。

 ミケロッティは他のカロッツェリアが進めた様な自動車及びそのボデーの生産を行うことを望まず、デザインないし、そのプロトタイプを製作することのみにとどまっている。それは、自分自身が納得した仕事をするためのもので、常に純粋にカー・デザインを高いレベルで行うことを守り続けた最後のデザイナーである。

 多くのカー・デザイナーはミケロッティの動向/観察したといわれ、それは結果的に多くの影響を与えている。しかし、ミケロッティ自身はこのことを含め、自分の1500とも2000ともいわれるボデー・デザインの業績について多くを語ろうとせず、それは多くの自動車デザイナーの例にあらず非常に謙虚な姿勢であった。

 当時の世界的ともいえるこのデザイナーが ”謙虚なトリノ人 - ミケロッティ” といわれた由縁がここにある。ミケロッティの選択とその起用に成功した日野は、コンテッサ900で得た純国産乗用車企画・開発・製造及び販売の経験をバックにコンテッサ1300の開発を進めることになる。時は1961年(昭和36年)4月であった。

(Newed 2014.8.11)


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