レースはクルマを売る! - 日野への提案書


日野の夢(ロマン):コンテッサに託して
Una Tragedia Della Contessa(イタリア語。「悲劇の伯爵夫人」の意)

6.2 レースはクルマを売る! - 日野への提案書


(In Working)

 時代は遡るが1964年、ピートがコブラ・デイトナ・クーペのデザインなどで活躍していたロサンジェルス空港近くのシェルビー・アメリカンへ定期的に日本から来ていたドン・ニコルス(当時、日本のレース界の発展を支えた一人)は、ある日、日本の友人の紹介という一人の男を連れ立ってピートを訪れた。

 その男とはその年、第2回日本グランプリでコンテッサで活躍したボブことロバート・ダンハムであった。ボブはその後、そのコンテッサ1000GTをロサンゼルスの持ち込み、コンテッサに興味をもったピートと共にサーキットで走らせることを進めたのだった。

 当時、西海岸ではセダンレースというものは無く、レースといえば大排気量車によるストックカー、インディカー、スプリントカーやドラックレースなどが中心だった。そんな中、ピートのクルマ仲間が集まり、CSCC(カリフォルニア・スポーツ・カー・クラブで全米を支配するSCCA=スポーツカー・クラブ・オブ・アメリカの下部組織)で有志によるセダンレースがクラブレース的にオーガナイズされたのだった。コンテンダーはコンテッサに加え米国のどの家庭にもあるセコンドカー的なコルチナ、ミニ、サーブなどの小型欧州車が中心であった。

 この様にコンテッサ1000GTは、ピートとボブにより米国のセダンレースの黎明期に西海岸を舞台に活躍し始めていたのである。この時代、日本車はトヨタ、ニッサンなどすでに多く輸出はされていたものの未だ米国のレースにその姿を表わす時代ではなかった。それは各メーカーがサファリラリーなどには積極的であったが米国市場でのレースの効果に対して未だ認識が低かったのである。

 結果的にこのコンテッサ1000GTは数々のサーキットレース、ヒルクライムやスラロームでクラス優勝を含む好成績をあげ、来る1966年度のセダンレースの有力なコンテンダーに挙げられるまでになっていた。

 日野側にもボブを通してコンテッサ1000GTの活躍が伝わるに至って、レース委員長であった宮古忠啓(当時、日野自工常任監査役)の刺激を与えざるを得なかった。対米輸出という自らの課題を実現するために何がしらかの外部的刺激が実践への有効なトリガーとして必要だったのだ。

 早速、宮古はピートに関する事前調査を進めた。その結果、1965(昭和40)年の夏前、すでにシェルビー・アメリカンを去りBRE(ブロック・レーシング・エンタープライズ)を設立し、シェルービー時代にピート自身がボデー・デザインしたギア - デ・トマソをイタリアで製作を進めていた時、ピートは一通のテレックスを日野から受け取ることになる。それは9月の末に日本にピートを招こういうものだった。

 来日したピートは早速、鈴鹿サーキットで日野のレース委員会の若手技術者と共に高速型カム入りの10馬力ほどスープアップされたコンテッサ1300クーペと日野プロトをテスト・ドライブする。ピートは「あの日は台風と重なって雨混じりだった。そのためにテスト走行は満足に出来る状態ではなかったが10数周した。日野の技術者14〜15人が手を尽くしてくれた」と思い出す。

 宮古は対米輸出の要旨を説明を進め、それはピートにとって大いに関心を抱かせるものであった。鈴鹿と日野工場でお互い、膝を交えての長時間に渡り議論を重ねた宮古は「ピートとの議論を通じ、私が考えていた輸出方策と、ピートが現実としての米国西部の環境とその他の諸条件を裏付けとして具体論の間に、基本的に共通するものが多く大きな希望と期待を与えてくれた」と当時の状況を語る。

 この結果として1966(昭和40)年の10月末、ピートは友人のBMCなど外国車販売のスペシャリスト、シドニー・トレイザスと金融面のスペシャリスト、スティーブ・バーブの助力を得、非常に綿密なプロポーザル、『コンテッサ1300クーペの米国西海岸市場導入計画に関する提案者を送って来たのだ。

 それは宮古にとって多大な感銘を与えるもので次のようなものだった。

  • 日野コンテッサ1300クーペの品質と価格を以てすれば、米国西海岸市場に導入することは可能であり、小型クーペの市場の一分野を占拠出来るだろう。
  • この価格のクラスでこれほどの仕上がりをそなえた小型車は米国市場に無い。
  • この車を売れるためにはその優れた外観をバックアップする高性能イメージが必要である。
  • そのために最も有効な方法は、レース計画の実行以外にない。

 とし、レース自身から儲けは無いものの、『レースはクルマを売る』ということは、過去からの疑いのない事実であり、それは格好のショールームで正しく活用すれば必ず販売に結び付くものということであった。

 このピートの宮古へのプロポーザルは早速日野の中で検討され、レース委員会の技術者を中心に遂行する『ピート・プロック・プロジェクト』としてオーソライズされることになる。そして、1966(昭和40)年12月、再びピートを招き日野とBREとに間に本件に関する契約が締結されるに至った。

(Newed 2014.8.11)


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