Hino GTP & Proto (日野プロト、J494関係)


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1865.0305 GTP Internal Open

1号車】

 1965年3月5日社内展示会、この右には研究開発用に購入したクーパーFⅢ、さらに隣にはそのクーパーを基に製作したデルマークⅢの一号車が比較展示されていた。






196506 Yatabe 1

1号車:右ハンドル】

196506 Yatabe 2

 1965年6月:1号車、日本自動車研究所 (JARI茨城県谷田部) で最高速度200km/hを記録。

 右、一枚目の走行中の上部からショットはGTPの形状がよく解る。

 二枚目は200km/hをオーバーした後か?バンク下のショットであり、後部のウインドウが無くなっている。高速時のボデー境界面の内外のプレッシャーの差によるもとの分析する。ボデー内部の圧力が高まることへの対策が未熟であったのだろう。

 この1号車は1966年末、最終的に廃棄処分となった。

 













【2号車:右ハンドル】

 デル・レーシングモーターカンパニーに製作委託。1965年6月末完成予定は1966年1月にずれ込んだ。テストが目的だった。設計・技術を主体とする日野とドライバーを主体とするデル・レーシングの間にレーシングカー製作の大きな違いがり、帰納法的に展開する日野は演繹法的なデル・レーシング製作の個体に大きく学びものがあった。この2号車は、1966年末、最終的にパワーユニット無しの状態でデル・レーシングに支給となった。

【3号車:右ハンドル】

 1965年9~10月、輸入部品 (Cooperの部品と分析) 遅れるも完成。1966年4月にかけて姉妹である4号車と共にテストに供された。1966年末、最終的に廃棄処分となった。

1965 Tokyo Motor Show 1

【4号車:右ハンドル

  1965年10月完成。基本的に3号車と同一仕様、テスト・走行結果が反映された。

 1965年10月28日〜11月11日:J494、GTP、4号車、第12回東京モーターショーに出品。

 このショーに出品のホイール (Cooper Car Company製) のリムが綺麗にポリッシされていることに注意。日野自動車のデザイン担当は、この時代からこのような文化があったのだ。

 この4号車は、1966年末、最終的にパワーユニット、リアサス、コントロール関係など無しの状態でデル・レーシングに支給となった。

  以上の4号車までが所謂、「日野GTP」あるいは「日野GTプロト」と言われるもので、以下の5号車以降は本命となる「日野プロト」と言われるものになる。JAFでは「日野スポーツプロトタイプ」とも呼ばれている。

196605 J494 5 Funabashi Test 2

【5号車:右ハンドル

 1966年2月完成 (予定) 。FIA (Federation Internationale de l'Automobile国際自動車連盟) のレース参加規則、1966年度から大幅改訂 (最低地上高、室内寸法など) 、これに沿うと共に、再設計となりシャシーデザインとボデー形状に大きな進化をした。また、60kg以上の軽量化を達成した。

 右の写真は。1966年5月以降、船橋サーキットでかなり後期のテストを分析する。


196605 J494 6 Funabashi Test 1

【6号車:左ハンドル

 1966年3月完成 (予定) 。5号車と共に船橋サーキットでテストが開始された。この右の写真はかなり初期と分析する。カラーリンもないし、まだ走行もそんなにしてないクリーンな状態である。

 8月14日の船橋サーキット (後に富士に変更) での全日本レーシングドライバー選手権第3戦を目指しての練習走行でもあった。

 新装なった日野プロトは、巷ではフォードGT40のルマン車にも似たデザインで将来は欧州のレースに照準を置いているのではと推測にもなった。

 この6号車は、5月末、車内のテストコースで試験中に火災事故となった。

【7号車:左ハンドル

196607 08 J494 7 Fisci 1b

 1966年8月14日の富士スピードウェイでの全日本レーシングドライバー選手権第3戦での緒戦となる日野プロト、特別編成チームが7月に結成、富士での合宿テストが開始された。

 右は7月7日に完成した7号車、山西選手の “02” が付けられてた。実戦に向けた試験が徹夜で進められ、この綺麗なスッキリした形状もかなりモデファイがされて行くことになる。

 この写真での日野プロトのスタイルは本サイトオーナーの好みであり、Ginetta G12あたり (決してトヨタのMR2ではない) を使ってコスプレ公道版の日野プロトがあったらなんて誇大妄想にかられる。

19660814 Fisco 02 2

 右の写真は、8月14日の全日本レーシングドライバー選手権第3戦の決勝レースでスタートラインでの山西選手。油温対策にかなりいかつくもなり実戦的な改造となったようだ。

 この緒戦で完走し、クラス1位、総合3位であった。日野プロト、最初にして最後のレースとなった。

 7号車は、第13回東京モーターショー (1966年10月26日〜11月8日開催) に於いて、日野の展示ブースで主役を演じた。そして1966年末、最終的にパワーユニット無しの状態でデル・レーシングに支給となり、1967年3月19日の船橋サーキットでの全日本スポーツカーレース船橋大会に新しいデザインのボデーとトヨタクラウン8エンジンを搭載して “カネボウ・ダンディ・スペシャル (所謂、デルRSB)” に化けた。

196607 08 J494 6A Fisci 1

【6A号車:右ハンドル

 1966年7月20日に完成。6Aとは、火災でダメージを受けた個体と5号車を急遽、合体して製作した個体と分析する。

 右の写真は、7号車と共に8月14日の全日本選手権第3戦に向けて熟成を図る “22” 、塩澤選手の日野プロト。

 この6A号車の最終的な状況は分析できていない。上記、東京モーターショーのち、大阪、名古屋、仙台、静岡など各地でローカルなモーターショーが開催され、一部、日野プロトも展示されたようだ。そのような場面で某地元のデーラーで解体されたとの証言もあり、その意味ではこの6A号車は解体されたと理解したい。但し、事実、すなわち、当サイトオーナーの基本方針でもある三現主義、すなわち現実、現場、現物をもって分析できていない。

J494 6A 22 b

(SE, 2015.7.4, Original)


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