これを知ればコンテッサ通!


日野自動車のコンテッサに至る歴史(1994年JCCAニューイヤーミーティングにて配布)

星子イズム

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 星子勇は大正の初期、欧米に於いて自動車並びに航空機技術を学んだ。日本自動車界の最高権威者と称され、日本自動車株式会社時代の1915年8月、日本初の自動車単行本『ガソリン発動機自動車』を極東書院から発行し、当時のバイブルとなった。

 その後、当時自動車生産を表明した日野自動車の前身の瓦斯電気(通称:ガス電)の松方五郎社長に要請され、自動車部長とし就任し、ガス電の技術の基礎を作った。それはその後、継承される “星子イズム” となった。

日本を豊かな国にする、農業国から工業国へ

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 星子自身の考え方は大衆向け自動車を作ることで、農業国(農業就業人口70%)であった日本を工業国にすることだった。

 最初に手がけたのは大阪砲工廠の注文の制式4トン自動貨車で1918年から翌年3月まで10台製造された。また、同時期に設計・製造を進めたのがわが国初の保護自動車資格検定書を授与された軍用保護自動車T.G.E.A型トラックであり、こちらは20台製造された。共に4気筒(ボア100mmXストローク150mm),32HP/1200rpm、前照灯はアセチレンランプ。(東京瓦斯電気工業 (TGE) 関連記事を参照)

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 その後、多くの軍用特殊車、バス、民儒用特殊車を手がけ、1932年から1937年にかけては、当時の陸軍のテストの常識であった小田原一泊での伊豆長岡までの箱根越えの走行を一日でこなしてしまった指揮官用小型車ちよだO型、4輪駆動が無かった時代の不整地用の6輪乗用車ちよだHS型等、軍用乗用車を製造するに至った。そして大型乗用車ちよだHA型を試作した。

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 星子達は自動車製造にとどまらず、航空機エンジンの国産化も数多く手がけ、遂に1928年に独自の航空機エンジン神風を開発し、逓信省航空局の規定に合格したのであった。それは当時の中島、三菱に先駆けてのものだ。その後、小型旅客機(KR1形)中型旅客機(TR1形)の独自開発を進め、1938年11,651kmの世界航続距離記録を樹立した航研機の設計から製造に関わったことは今日でもあまりにも有名な事実だ。

第二次大戦、敗戦国から立ち上がる、真の工業国を目指して

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 そして終戦後は米軍に接収されるものの1946年には平和産業への転換許可を得、日野重工業改め、日野産業とし、戦後の復興事業に伴う輸送力増強のための大型トレーラトラックの設計を行なった。その年の9月には東京から神戸までのデモ走行を行なっていたのだ。

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 翌、1947年は96人乗りのトレーラバス(写真はT12B・T25型)の製造を進め、それはトレーラトラック同様、当時の時代背景にマッチしたものだった。この大きなトレーラバスは当時の6m幅道路の直角カーブもクリア出来たのだ!

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 1949年にはドッジ・ラインによる大不況となった訳だが、その時代の燃料問題に即応したのがトロリーバス(架線より電力を得、電気モーターを動力としたバス。今日では環境問題で再認識されている)だった。日野は東芝と提携し、その年トレーラ式トロリーバスを、1950年にはTR22型単車大型トレーラバスを世に出したのだ。懐かしいトロリーバスも実は日野製だったのだ。

大衆車をつくる、ルノー4CVの国産化を目指す

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 そして終戦を前にし他界してしまった星子の理想であった大衆乗用車の夢が1952年実現に向けられた。それは当時の国策としての技術移転プログラムの一つでもあったフランスのルノー公団との大衆車ルノー4CVであった。CKD生産国産部品製造&生産設備開発を目指したルノー日野4CVであった。公共の乗り物は効率よく大型に、乗用車は家族の人数が4人程度と将来を予測した星子イズムの現われとも言えよう。

日本発のフロントドライブ・ミニバンへの挑戦、新製造技術も独自に考案

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 そして4CV国産化の技術を応用し、早くも1960年には多用途向けのFFミニバス、コンマースを世に出した。所謂、今で云うミニバンだ!当時はどこのメーカーもトラックをベースにした商用バンを製造していたが、コンマースは乗用市場にも視野に入れたもので、今で言う、まさにミニバンであった、

 4CVは1963年まで34,852台生産、コンマースは1962年まで2,344台生産され一部は海外に散って行った。

日本発のフォーミュラカーの登場!

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 1961年になるとRR純国産車、伯爵婦人ことコンテッサ900を発表した。これは47,299台生産され自家用車時代の幕開けを担った。また、遠くは南アフリカまで販売された。

 特筆すべきことは後のデル・レーシングとなった塩沢商工と組んで第一回日本GP(1963年)で優勝を手にしたことだろう。そしてコンテッサ900ベースの日本初のフォーミュラカーを1964年初頭に公開、デル・コンテッサを他社に先駆け開発をし、唯一国産フォーミュラとして第二回日本(1964年)に送り込んだのだ。日本のモータースポーツの黎明期を担ったのだ。

コンテッサの実験場としてレースへと!

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 1964年にはミケロッティ・デザインの世界に通用するRR小型乗用車コンテッサ1300を発表した。ここに於いても技術の挑戦の場としてレーサーを手がけ、日野エンジン技術の粋を集めたYE-28搭載の日野プロト-J494を開発し、1966年の夏、富士スピードウエイでクラス優勝を手にしたのだ。

 ここで当時、本格的なプロトタイプ・レーサーは日野とプリンスだけだったことを強調しておこう。

対米輸出を目指して、”レースはクルマを売る!"

Hino Samurai Fisco

 1966年、日野コンテッサの米国進出を目的とし、シェルビアメリカンでデイトンコブラのボデイ形状をデザインしたピート・ブロックと契約してチーム・サムライをロサンジェルスで結成し、コンテッサ1300でのレース参戦を積極的に進めた。この当時、米国西海岸で芽生えた小型セダンのスポーツ競技の寄与していたのだ。そんな中で実現されたのが美しい日野サムライプロトだ。1967年の第4回日本GPでのサムライ事件は今でも語りつがれている。

終焉!

 コンテッサ1300は55,027台生産され、1966年10月のトヨタ自動車との提携発表と共に日野の乗用車の歴史は切れることになった。日野コンテッサ1300クーペ発売からわずか1年半と言う極めて短い時間に自ら幕を閉じたのだ。イタリアの天才カー・デザイナー、ジョバンニ・ミケロッティ (Giovanni Michelotti) のデザインの美しい日野コンテッサ1300はまさに “美人薄命” の象徴である。

(文責 江澤 智)

 本編は1994年のJCCAのニューイヤーミーティングの場でフライヤー (ペラものの紹介紙) で配布した原稿を基にしたものです。本サイトには残っておらず、旧HPに載せたものがリンク切れの状態で、たまたまグーグルの検索で出てきたものです。ネットとは面白いもので、自分でも忘れていたものが、ネットの中に発見できることです。自動車文化&歴史の啓蒙のためにここに再編集し掲載しました。

(SE、Revised 2016.3.19)


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