量産体制の準備に忙しい1964年(昭和39年)6月、日野自動車の期待の新型乗用車、コンテッサ1300の日本国内での十分なるテストを終え、オーストラリアでのテストが開始された。これは日本で得ることの出来ない道路状況や気候条件での長時間高速テストなど進めると共に、宣伝広告用の写真撮影なども行い、8月末に完了した。勿論、このテストは輸出面での効果を期待してのことでもあった。
その時期、生産・販売開始にあたって当時の荒川常務は従業員に望むこととして以下のように語っている。
- いいふるした言葉だが、日本の自動車はすでに国際商品であり、自動車工業は国際企業である。したがってその商品および企業の優劣は国際的な尺度で計られる。
- ”われわれの企業は国際企業であり国際的な商品を作っているのだ” という強い自覚が何より必要だ。
- もう一つは全員が一層魂を打ち込んだ仕事をしてほしいということだ。いやしくも不注意による事故、つまらない事故は根絶して欲しい。魂のこもった仕事からのみ優れた商品は生まれるのである。
- われわれの新乗用車が既存の同種製品を一格上廻る車であると確信しており、この乗用車によってよって乗用車界における日野の地位を一段も二段も高めたい意欲に燃えている。
- したがって大事な立ち上がり生産の場において、かりにも不注意による事故によって商品価値を傷つけることのないよう、細心の注意をもって仕事をしてほしい。
- 自動車が国際商品である以上、国際競争の激しいのは当然であるが、同時に国内の競争もまた非常に激烈である。自動車工業はお互いに厳しい競争をしつつ伸びてゆく。
- しかしながら周囲の環境がいかに厳しきとも、われわれは全員結束して日野自動車の発展のために努力してゆきたい。
暑い夏のさなか、日野工場で始まった量産は最初から順調かと言えば、マイナーな問題は発生したようだ。例えば、生産ラインに沿って車は造られるものの取り付け部品が一部予定通り出来ないとか、量産初期にありがちな点だった。そのためにその年の夏は日野工場で麦藁帽子が大量に売れたとのことである。暑い夏の太陽が照る炎天下の中、全ての従業員たちはラインから屋外に出た車を完成させるべく懸命に仕上げたのだ。麦藁帽子はそのためのものだった。荒川常務の言葉は7000人の全社員が開発に費やした数年間の努力をより結束するに十分のものであり、且つ、ニュー・コンテッサ1300を日本のユーザーに、更に世界のユーザーに普及させるべく従業員一人一人の意気を高揚させんばかりのものであった。
(SE, New Original, 2022.6.25)