5年と云う短期間で完全国産化することは極めてハードワークであった。設計図を入手してから始めては遅いので、今で云うリバース・エンジニアリングとも云うべき手法で現物部品から図面を起こすことを進めた。生産設備に関しては完全国産化後、ロイヤリティーが切れることを予測して時期モデルとの共用を考慮しておくことが必要であった。100%の国産化へのステップは以下のようなものだった:
- 第1ステップ…完成車組立(板金組立一塗装一総組立)
- 日野工場東北部(現機構RE実験工場の建物)に1200坪のCKD工場(ホワイトボディAssy - paint - 艤装 - 検査タッチアップラインを含む)建設、月産200台をねらい設備設定をした。昭和28年3月第1号車がラインオフし、国産化の第一歩を印した.
- 第2ステップ…フロントアクスル、ステアリングシステム、クーリングシステムその他関連のユニット
- 第3ステップ…クラッチ、トランスミッション、デフ、リヤアクスル(各単品素材、部品、Assy)
- 第4ステップ…エンジン(素材、部品、Assy)
- 第5ステップ…ボディ(プレス品、ユニットAssy、ボディAssy)
また、もう一つの問題として、フランスの道路状況と車の使用状況が、その当時の日本と隔たりがあったことだ。日本なりの変更を求められることが容易に予測された。
当時、新入社員であった鈴木孝(現、日野自工副社長)はエンジン部品の図面作りを現物から起こすことに日夜没頭した。例えば、カムシャフトは最初はスケッチから始め、最後にはボールで計る。更に経験から等速カムとの推測をたて、計算値から図面を起こし、現物とチェックする。「苦労しました。後から向こうから本当の図面が来たときは嬉しかったですね。ピッタリと一致しました」と鈴木は語る。
戦前、家本が新入社員であった頃、星子より教えを受けたように家本はルノー4CVをもって、次世代のエンジニアの育成を図ったのだ。しかし、ルノー4CVの勉強は単なる技術習得ではなく近い将来の小型乗用車の量産を目指したものだった。いずれにせよ、技術の進展というものはゼロからはありえないもので何がしらの優れたものをベースに更に発展するものである。
以上の様なことを経て、日本の国情に合わすべく、車全体に100項目以上の改良が日野の技術陣の努力により施され、1958年(昭和33年)に待望の完全国産化されたルノー日野が出荷された。この時の価格は68万円と当初の83万円に比較して大きな努力の後が見られる。
主な改良点は当時の日本の悪路に見合う足回りの強化であった。また、未だマイカーなんて云う状況ではとてもなく、主なユーザーはタクシーであったのだ。読者の中には ”神風タクシー=ルノー” のイメージをすぐ思い起こすことだろう。小型軽量・軽快なルノータクシーは巷をところ狭しと飛ばし駆け巡ったのだ。フランス的エスプリで極限まで合理的に造られたルノー4CVも日本の神風タクシーのドライバーにあったらひとたまりも無く彼等の改善要求にせまられたのだ。
日野はルノー公団とのロイヤリテーの再度延期などを行い1963年(昭和38年)8月に製造を打ち切り、翌年の3月にルノー公団との技術提携に終止符を打った。これまでの期間10年余りに累計で34,853台のルノー4CVが日野の工場から誕生した。また、それは日野の小型乗用車の企画・設計・製造に関するノウハウを短期間に蓄積するとともに大型車製造にも大きな影響を与えのだ。(参照:ルノー4CV国産化による自動車製造技術の飛躍的発展)
【参照】
- ルノー日野(1953年)ノックダウン生産 - 日本のモノづくりの再復興の原点:先人に学ぶ
- ルノー4CV国産化による自動車製造技術の飛躍的発展(日野自動車資料より)
- 近代的自動車工場への幕開け(日野自動車資料より)
(SE, New Original, 2022.6.25)