1960年代、乗用車の一車種の開発におよそ4-5年程度かかるのが常識であり、コンテッサ1300もその例外ではなかった。コンテッサ900が発売する以前から、平行して時期モデルの検討が始まっていた。それは日野のお手本となったルノー4CVが5CVドフィン(845cc)、そしてR8(956cc及び1108cc)と発展した様に、国内外の流れに沿って車格向上という市場の要求を満たすことは自明の理であった。
日野の新型乗用車の最重点項目は、まず高速性能で、これは来るべき時代に備えることとコンテッサ900の輸出の経験からでもある。多くはタクシー需要として輸出された35馬力のコンテッサ900は、ヨーロッパ車に比べ非力であった。後にコンテッサ900Sの40馬力エンジンを強化し、顧客の要望に応えたのだった。高速性能は輸出適格車と必須事項だった。
次に貿易自由化に向かって、更なる品質の向上であり、これはトラブル・フリーを目指したものである。ルノー4CVで得た教訓でシャシーの強化・改良をしたコンテッサ900もエンジンの耐久性に関し、徹底的な改良をする用意があった。
今日でこそ、日本車は故障が無い、砂漠に行くなら日本車などと言われているが、コンテッサ1300開発当時のメーカーにとって車そのものの性能の向上並びに品質の改善は最大課題だったのだ。
このようなイメージを具現化したコンテッサ1300の基本設計は1961年(昭和36年)5月決定され、その内容は以下の様なものであった。
- 1100-1300ccのリヤエンジン
- 居住性の向上、特にレッグスペースの確保
- 世界第一級をねらった優れたスタイル
- 走行性能の向上、特に高速性能の重視
- 故障の絶無ならびにメンテナンスフリー
- コンテッサ900の経済性の引き継ぐ
- 3速、4速トランスミッションとセパレート・シート、ベンチ・シートなどの組み合わせ選択
- 左ハンドル車同時生産
- 一層スポーティなスタイルと性能をもつ2ドア・クーペの平行販売
- 月産3000〜5000台
- コストPCのx万円高(原価)目標
特に車幅に関しては、コンテッサ900よりは大きいものの当時の小型タクシーの料金制度(最低料金)にとらわれない1.5mを超えたものし、居住性を確保した。全高についてはスタイリング上と重心高を下げるために1.4m以下とした。これらはタクシー需要からイメージを格上げし、”格調高いファミリーカー”としてのマーケットを明確にしたことである。
そして、コンテッサ900で習得した技術、すなわちルノー4CV以来の合理的なリヤ・エンジン、4輪独立懸架など乗心地並びに操縦性の生かすことは当然のことである。しかし、それはボデー・デザインについてルノーからの脱皮をしたが中味についてはそうとはいえなかったコンテッサ900とは異なって、コンテッサ1300はオール・オリジナル&ニューを目指したものである。
当時、初代第二研究部部長として、これらの基本計画をまとめ上げた岩崎三郎は「日野の乗用車の設計部門は大型車と一緒であった。これを独立させて1962年(昭和35年)11月、コンテッサ1300の開発に向けて若手の有能なエンジン、シャシー、ボデーのエンジニア、及びインダストリアル・デザイナーを集めて小型車専門の第二研究部が出来た」と、語る様に乗用車に熱意を燃やした家本の陣頭指揮のもとに組織面の大幅な充実も図っている。
日野の夢、 ミケロッティの夢 - 日野コンテッサ1300
企画方針が決定した3カ月後の1961年(昭和35年)8月にはミケロッティのもとにコンテッサ1300のエンジンとシャシーの計画図がボデー・デザインのために送られ、日伊共同プロジェクトの始まりとなった。それは冒頭の山内に始まった様に日野のトリノ参りとなる。
「コンテッサ900のデザインは最終的に社内各方面からの多くに意見が取り込みすぎ、一貫性が無くなってしまった。このことが結果的に幸いし、コンテッサ1300では社内ではなく世界に通じるデザイナーに依頼が必要という上層部の結論を得た」と、岩崎が語る様に、ボデー・デザインに際しては、日野側からはデザイナーの自由な発想を妨げるとし、デザインの傾向などはミケロッティ側に一任することで以下の指示にとどめた。
- 企画の目的
- 設計から発売までのスケジュール
- 大まかなレイアウト
当時、ミケロッティは「コンテッサ1300の様に、私のイメージがそのままメーカーに受け入れられることは本当に珍しいこと。それだけに、今度の仕事はやり甲斐のあるもの」と語る様に、通常、この種のものはメーカー側の意見が強く反映されるものである。
ミケロッティとの第一回の打ち合わせの内容を「日野からの委託の内容を話した後、ミケロッティ氏は素晴しく嬉しいと。と、言うのは今までアメリカのカスタム・ボデーなど相当な金額でやらしてもらったが、全く生きて行く生活のものであってあまり興味がなかった。この様な車(コンテッサ1300)を量産し、世の中の多くの人に使われることは一番願っていたこと。そして、リヤ・エンジンをやりたかった。それは自分が思っていたイメージとピッタリと一致する。と、ミケロッティ氏は言われ、私も聞いていて大変感激した」と、岩崎は懐かしく語る。
これは当時、例えば、日産自動車のブルーバードがピニンファリーナ・デザインで1億円以上といわれた時期に、ミケロッティのコンテッサ1300のボデー・デザインがプロトタイプ製作を含めて2400万円であったことからも日野のコンテッサ1300に対するミケロッティの姿勢と意欲を伺い知ることが出来る。
ミケロッティ側では数種のアイデア・デザインを1961年(昭和36年)11月に完成させた。これを日野側(自工及び自販)で十分検討の上、原案の決定のために岩崎と自販の幹部が翌12月にトリノに出向いた。そして、早くも年の明けたばかりの1962年(昭和37年)1月には実寸図の受領となった。
デザインの特徴はミケロッティが語るところのすぐれたプロポーション、重量配分、及び流体力学、具体的にはスピードが出せること、燃料消費率が少ないこと、乗り心地が良いこと、室内装飾が良いこと、生産が容易なことなどを目指したものであった。
例えば、Vカットのフロントのノーズからボンネットのつながり、ヘッド・ライトからサイドへの流れ、フロント・ウインドウ・シールドからルーフのエッジなどスムーズな流れで空気の渦流を避けるようにしている。
その後は研究部員が交代でトリノに長期滞在し、プロト・タイプ車作成の共同作業にあたった。当時のミケロッティのプロト・タイプ車完成まのでプロセスは通常、アイデア・スケッチ、原寸線図、木製モックアップ、手板金、組み立てと進めるがコンテッサ1300の場合には木製モックアップに平行して1/5石膏モデルを製作し、慎重をきしている。また、トリノ工科大学の協力を得て1/5モデルによる10Km/h単位での風同テストも行われている。
これらの一連の作業はミケロッティ側及び日野側双方、全く相互の共鳴に元に信頼をもって進められた。「大変な日本びいきで丁度良かった。奥さんも非常に日本的な奥さんで、日本人に非常に近い感じで。ミケロッティ氏自身も非常に情が厚い人だった」と、当時、長期滞在したコンテッサ900のデザインを完成させた高戸正徳(現、日野アトラデザイン取締役)とミケロッティとの共同作業当時の思い出を語る。
そして、1962年(昭和37年)6月には待望のプロトタイプが完成した。
(SE, New Original, 2022.6.25)