コンテッサ900スプリントはその後、トリノ・ショーに続いて、1963年(昭和38年)3月はジュネーブ・オートショー、4月のニューヨーク・オートショーへと世界のメジャーな場でデビューしたのであった。
そして、その年の10月、遂にコンテッサ900スプリントの華麗な姿は第10回全日本自動車ショーで我々の前に表わした。この頃には内外に報道された”イタリアで生産、EC及び米国にて2300ドル程度で販売”と前評判と共に大きな話題となった。しかし、その後は一切、日野の社内から外に出ることなく今日に至っている。
本計画の日野側の蔭の企画、演出役でもあり、スポーツカー生産に夢をかけていた内田は、年明けて1964年(昭和39年)の初頭、「発表した当時は、各国でセンセーションをまきおこしたぐらい時代に応じたデザインで相当の需要が期待された。イタリアで企業化を計画したところ、イタリア国内の大メーカーの圧力をうけて、しばらく現地情勢をみた後、イタリアでの製造をみあわせた」と語っている。
一説によれば1963年10月から第一期生産として5000台の量産、また、トリノ・ショーでは予約注文が殺到とある。しかし、その事実確認を可能にするほど当時の情報が残存している状況ではない。現実的に考察してみれば、次の3つの点の考慮もすべきだろう。
1番目はプロト・タイプが完成して12カ月も満たない期間で5000台もの生産が出来る体制及び工場がイタリアにあったのだろうか? 2番目は日野側のシャシーやパワー・ユニットの生産体制とヨーロッパ及び米国に輸出した際の保守の体制が現実的なものであったのだろうか? 3番目は車そのものがプロト・タイプとして熟成度である。
特に3番目の熟成度についてはカロッツェリアという範囲の生産、すなわちハンド・メイドであれば可能と思われるが大量生産のためのプレス型などや更に量産車としての居住性やリヤ・エンジン固有の熱対策などを前提にすれば未だ多くの試行錯誤が必要と思われるものである。
「イタリアでの製造は延びてしまったが、その間に、発表した当時にくらべ、1000ccクラスの車の性能が非常に向上した。スポーツカーとして、より魅力的なものをあらためて計画中で、ぜひ今年中(1964年)にまとめてみたい」と内田は付け加えている。
この様にコンテッサ900スプリントはプロトタイプにとどまってしまったがミケロッティの作品としてコンテッサ1300のデザインがまず、出来上がりその後、完成されたということだ。また、後々それは、コンテッサ1300の最終デザインにも大きな影響を与えることになる。
「カー・デザイナーも芸術家と同様、その作品にピークがある。コンテッサ900スプリントはミケロッティに人生の中で絶頂期にあたる頃」とデザイナーの高戸が語るようにこのスプリントについては生涯の数多いデザインの中でミケロッティが自他ともに認める様に最高の作品と評価されている。
コンテッサ900スプリントの出来映えは当時、国内外に日野のコーポレート・アインデンティとしてポジティブなインパクトを大きく与え、日野の技術及びコンテッサのパブリシティ向上に大きく貢献したはずである。また、当時、総合自動車メーカーを目指す過程にあった日野の経営陣及び従業員達にも大きな希望と夢を与えたことには間違いない。
日野はコンテッサ1300開発ではそのボデー・デザインに関しミケロッティという最高のデザイナーを得た訳で、これは戦前のガス電時代に星子勇を得た様に、共に尊敬をし、謙虚さを以ってに一つの目的に向かうという点に共通点を感じざるを得ない。
ミケロッティ・日野共同作業によるコンテッサ1300のプロトタイプ完成の頃、日野側では新型エンジンなどコンテッサ900をベースに日夜研究・開発が進められていた。
(SE, New Original, 2022.6.25)