一方、コンテッサ1300のボデーの設計は1960年(昭和37年)1月初めに、ミケロッティから受領した実寸線図をベースに具体的に開始された。ミケロッティ側は自身のデザインからボデーの線図を作ったものであり、それはプロトタイプのためのものであり生産を考慮したものではなかった。
日野側はその線図をもとに非常に短期間で生産を考えた場合の問題点を洗い出した。線図の上にトレーシング・ペーパーをかぶせ、大まかな構造設計をやりことにより裏付けをとり、構造上からスタイリングに影響する部分、言い替えれば、ミケロッティに変更を依頼しなければならない箇所を抽出した。
そして、早くも翌月の2月には20数ヵ所の改善項目を持ってその交渉と、続くホワイト・ボデー製作のために藤沢 昭夫(当時、第二研究部第三課係長)はトリノに飛んだのであった。
「最初は喧々囂々だった。若僧が来て、世界的な名デザイナーにスタイルのあそこを直せとか、ここを直せとかと言うものだから。まあ、どうなるかと思って、向こうのペースに身をまかせることにした。そして、一週間ぐらいで気心が知れ和が出来た」と藤沢は当時を懐かしく思い出す。
日野の構造上の改善要求項目は、線図を元に変更のための裏付けをしてあったので、ミケロッティは幸いにもすぐ納得することになった。それは単にデザインのみでなく、構造をも含めて自動車を知り尽くし、デザインを行うといったトリノのカロッツェリアであったからでこそある。
そして藤沢はコンテッサ1300をデザイン通りプロトタイプを造るというミケロッティの手法、すなわち、トリノのカロッツェリアの仕事を目の前にすることになる。
1/1のクレイモデルを作り時のやり方は、まず100mmぐらいの木で枠を組み、そこに角材で部品ごとに木型を作り組み込んでゆくという方法であった。フェンダーの様な複雑な面を持つものはそのものを作り、一方、ボンネットの様に平らな面は50mm程度の板を枠組みし、面を作って行く。これらはすべて出来上がりの部品と同じ様に裏面まで正確作られている。それらの部品はドア、ボンネットからピラーまで全部はずれ、それらをゲージにして手板金やローラで一つ一つスチール・パネルからプロトタイプ用の部品を作り上げて行く。
次に鉄のアングルを組み、出来上がった部品をそれに組んで行く。そして、全部出来上がったところで中味の枠を切り取ってゆく。結果的にホワイト・ボデーが出来上がる。
「これがカロッツェリアのやり方かと、1台、2台作るにこういうやり方があるものだと感心した」と藤沢はそのやり方を語る。
ホワイト・ボデー完成後は、藤沢に替わり、内装を完成させるために上司の池田 輝男(当時、第二研究部第三課々長)がトリノに1962年(昭和37年)6月から2ヵ月ほど駐在をした。
このようにして、日野はミケロッティに若いエンジニア達をあずけ、トリノのカロッツェリアのやり方を肌でその技術習得を進めていった。
時代は遡るが、1961年(昭和36年)8月、日野がミケロッティ宛に送った大まかな要望書の中で、鈴木はエンジンの冷却のための空気の取り入れ口として前方に向けて1500平方cm以上の開口部を設けることを要求していた。これはGR100の大きなエンジンに十分なる冷却効果をもつ、ボデー・デザインに見合った空気の取り入れ口を期待してのものであった。
これに対してミケロッティは忠実に空気の取り入れ口を設けた事は言うまでもない。しかし、1961年(昭和36年)の秋に受け取ったスケッチは誰しもが期待に反したものであった。それは素晴しいボデーの流れに逆らってボデー後部に醜い口を開けていた。開口部を要求したさしもの鈴木も ”おちょぼ口” と称したものだった。
実はこの時点で日野はコンテッサ1300の冷却システムについて様々な思考錯誤をしていたのだ。また、コンテッサ900の方式はルノー4CVと似たものであったため、ルノー公団側よりクレームもついたという経過もあった。
新しい方式はおよそ7種類の方式に絞られた。それらは押出し型と呼ばれるエンジン・ルーム前方床下ないしサイドから冷たい空気を吸い込み、リヤのマウントしたラジエータを冷却し、暖まった空気を後方に排出する方法。また、吸い込み型と呼ばれる後方から冷たい空気を吸い込み、ラジエータを冷却し、暖まった空気をエンジン直下や前方の下、サイドにと各種の方法が試されていた。
その頃ルノーの新型車、R8が1962年(昭和37年)の6月にデビューするが、それに先立ち3月のジュネーブショーで公開された。このR8の冷却システムは先のモデルの4CVやドーフィンと異なり、ラジエータは最後部に置き、空気の吸い込み口はラジエータの上部に設け、暖まった空気はエンジン・ルーム下に排出する手法を採っていた。
この情報はトリノに駐在していた藤沢により早速日野にもたらされ、これを受けた技術陣は今、自分たちが思考錯誤している方法がイケると思った。日野のテストでは後方のラジエータ面の空気の流れは若干なりとも正圧であることを確認していたのだ。
「誰もが駄目だと初めから先入観を持つので、リヤから吸うことは誰もやってなかった。しかし、うちの技術者の努力があったおかげだ。何としても横の口は付けたくなかった」と家本は語る。これによりサイドに穴を開けず、後方吸入のみでの冷却の可能性を打ち出したのだった。
1962年(昭和37年)夏も過ぎたころ、プロトタイプは日野に持ち込まれた。一般の目に触れぬよう、秘密保持のために入念な管理がなされたことはいうまでもない。そして自工及び自販の幹部によるセダン及びクーペのプロトタイプと3種の1/5スケール・モデルの評価が行われた。それは当然の事ながら賛否両論があった。
フロント回りは好評だったがリヤ回りが問題だった。最も大きな意見は簡素過ぎて日本では売りにくいというものだった。特にリヤ・グリルのあたりが貧弱との評価だった。それは当時の日本人の高級車のイメージがメッキ類のモールで飾るというやり方で、ミケロッティと考え方に相違があったことだ。また、サイドの例のエア・インテークは全く不評だった。見てくれもさることなら、これでは車体からはみ出しているし、ぶつけ困るなど散々なものだった。
この様な背景でボデー・デザインのリファインために、岩崎 三郎(当時、第二研究部々長)は次の点の交渉でトリノに飛んだのであった。言わば、これはミケロッティへの逆提案というものであった。時は1962年(昭和37年)11月の初旬だった。
- 後部が重く、且つ大きく感じることを防ぐためにリヤ・ボンネットの後端を更に下る。これはラジエータの位置は変更する用意があり、後日図面により相談する。
- リヤのアウトレット・パネルをもっと立派に見えるようにする。
- ルーフの後端のひさしをもう少し小さくする。
- リヤ・フェンダーのエア・インレット・ホールで外側に出っ張っている部分を平らにする。この目的は外観上からも前後から美しく流れている線と面を害しているのを改良したいのと.....。これは線図を修正するのは困難と思われるが、我々(日野)は最後までベストを尽くす所存である。
岩崎はトリノに飛んだものの、ミケロッティはコンテッサ900スプリントのトリノ・ショーでの展示で連日・連夜、深夜までの大忙しだった。また、トリノ・ショー後もイギリス出張を控えており、コンテッサ1300のボデーのリフィンの時間が取れる状況ではなかった。
しかし、ミケロッティは岩崎の熱意ある要望に応じことになり、イギリス出張を1日延期し、トリノ・ショーの合間をぬってクレイ・モデルの修正を3日間で完成することを約束したのであった。
「当時のヨーロッパのデザインはスタイリングの美しさを争っていた。メッキ類のモールディング等は最初、ミケロッティさんは『大衆には迎合せず、大衆は説得しなければ』と賛成ではなかった。しかし、段々と理解をしてもらい、最終的には日野の要望通りにやってくれた。その後、来日時には日本の実情を理解したようだった。日野もルノーの影響で合理主義で徹底していたがやはり、売れなければ意味がない」と岩崎は当時のミケロッティとの交渉を語る。
この修正後のデザインが今日まで残るコンテッサのスタイリングである。一時は帰国を延期することを考えた岩崎は予定通り、1週間後に日本に向けてトリノを発つことが出来た。そして、修正後の線図はトリノの飛行場で岩崎に渡されたのだった。
(SE, New Original, 2022.6.25)