1963年(昭和38年)5月3日、この日は事実上日本初の自動車レースが開催された日であった。場所は三重県鈴鹿市郊外の鈴鹿テクニランド、観客は全国から2日間を通して20万人を超え、前夜から野宿をするものなど大盛況であった。日野自動車工業株式会社(以下、日野)のコンテッサ900は早くもこの第一回日本グランプリに105マイルクラブ(塩沢 進午代表、後に日本オートクラブ、すなわちNAC)などのプライベートが積極的に参戦したのだった。日本最初グランプリ・レースということもあり、主催者側はヨーロッパなどから経験者を招待していた。それらロータス、フェラーリ、ポルシェなどの本格的スポーツカーに混じってサーキット・レースの経験の未だ浅かった我が日本勢が戦いに挑んだのであった。
華やかな米海兵隊のマーチング・バンドや花火、数千の風船が飛び交う中、高松宮殿下、FIAのプリンス・カラチオリ副会長の開会メッセージで幕開きとなった。グランプリ一日目、コンテッサ900は第二レース、1300cc以下スポーツカーに参戦、出場車はDKW、オースチン・ヒーレー、MGミゼット、NSUプリンツ、ニッサン・フェアレディなどであった。朝からの青空が次第に雲を増した午前10時40分、決勝の14台全車がスタート・ラインに並び、正面スタンドの観客が中腰になって眺める中スタートが切られた。
出足の良さを誇るコンテッサ900はストートをうまく飛び出した。そして3分後、ホームストレッチのトップ集団はボブ・ダンハム選手のゼッケン14のコンテッサ900が外車オースチン・ヒーレーをリードしていたのだ。この体制が続き観客は懸命に走る国産車コンテッサ900には声援が贈られたのだ。しかし、ダンハム選手は若干ペースが遅れた中盤、ヘアピン・カーブで大転倒をしてしまった。その後、ゼッケン15の立原 義次選手のコンテッサ900がウイドウガラスを破損するものの健闘し、DKWに続き2位入賞、また山西 喜三夫選手のコンテッサ900が6位を果たし13周、78.05kmのレースは終了した。タイムはトップのDKWにわずか10秒8遅れること46分20秒7。立原選手のコンテッサ900はこのクラスでの最高ラップ賞、3分28秒2(一周最高速度103.813km)も手にした。
そして、明けて5月4日、コンテッサ900は第一レース、700〜1,000ccのツーリング・カーの決勝に挑んだ。出走はDKW、ルノー・ゴルデーニ、ブルーバードなど。この日は前日とうって変わり上空は厚い雲におおわれ、うすら寒い天気であった。午前8時20分、15台の出走車がスタートラインについた。激しいエンジンのエキゾースト・ノートを残し、全車一斉にスタートし、コンテッサ900は1位から3位まで独占していた。10周、60.04kmの争いはコンテッサ900勢、ルノー・ゴルデーニ、DKWにしぼられ、他車は全く後方に置き去りにされていた。結果的にゼッケン6の立原選手が優勝しこの日の栄冠を手にし、小島 常夫選手と山西選手のコンテッサ900がそれぞれ4位、6位と入賞を果たしたのだった。
このように第一回日本グランプリの外国勢に対抗した国産車コンテッサ900の活躍は「国産車の水準が欧米車に劣らぬほど向上したことが実証され自由化の前途は今後の努力によっては大いなる希望をもつことができるだろう」と報道されたものだ。また、コンテッサ900のメカニズムに関しは、プライベート故、詳細なデータは残されてないが当時のモーター毎日誌(1963年6月号)に以下の様に報告されている。
「最も目だった整備は輸出用の4段フロア・チェンジ・トランスミッションにしたこと。標準同型車の最高回転は5000rpmであるが、約4回に及ぶエンジン調整の結果レース中は相当の回転に上がっていたが、トレーニング中、一台だけメタル交換を行なっただけで、メタルが焼き付くようなことはなかった。出場各車の主要部分は新品と交換し、ボデー並びにサスペンションは増締めをした程度である。レースに挑んだ結果の通り堂々外国スポーツカーと対決した」とある。
このように、当時はまだレーシング・バージョンのセダンの製作などは程遠く、それこそ市販車そのものを ”念入りに整備” という状態でグランプリ・レースに参戦していたのだ。中にはナンバー付き、ラジオ付きのコンテッサ900が出場していたなど言う話は驚きに至らない。
(SE, New Original, 2022.6.25)