5.3 新GTプロト - 新たなエンジン


 並々ならぬ体制で挑んだ第二回グランプリでの日野の ”挑戦” は結果的に完敗であったが、その反省が明日への新たなる挑戦にと発展することになった。1964年(昭和39年)10月の第一回のオートレース委員会に於いて以下の様な方向性が議論された。

  • レースは手段であって目的ではない。
  • 企業の将来を見通した長期的研究部門の欠如を補うもの。

 と、明確に位置付け、”レースの効果は参加することで可能になる” と前向きなものとなった。

 そして、具現化の項目として、

  • 1300ccクラスの強力なエンジンを造る。
  • 将来につながるものとして新しい車両を造る。
  • F-IIIのデル・コンテッサを造る。

 これは新たにGT-プロト及びデル・コンテッサ・フォーミュラを製作し、次の第3回日本グランプリに出場させようというものである。

 この様な背景の下に1964年(昭和39年)8月末、小型車専門の第二研究部に加えて第三研究部がすでに発足していた。部長には岩崎実験部長が兼務、その他村野 欽吾第二研究次長、品質管理部から浜口 吾朗ら9名が現業兼務、専任は池田 陽一係長、大竹 晃及び田中 実 (後にホンダに移籍) の3人と変則的なものであった。GT-プロトの1台の製作とデル・コンテッサの全面的な設計・製造を塩沢商工に委託することで進められた。尚、折しもこの時期は新型コンテッサ1300の発表・発売と重なっている。

 当時、第3研究部に自らの意思もあって配属された大竹(現、PE企画業務部部長)は「人数は少なかったが設計から部品の手配まで全部やったので仕事が速かった。ほとんどこれにかかりきりの毎日だった」と当時を語る。

 1ヵ月後の9月末にはGT-プロトの基本設計書が出来上がり、所謂GT-Pと呼ばれるプロトタイプ・レーサーの姿が固まったのだ。スペックそのものは当時の典型である、パイプ・フレーム、グラスファイバー・ボデー、4輪ディスク、5速変速器、そしてエンジン性能は100ps/8000rpm、最高速度は215km/h。また、コンテッサ1300の部品の流用は当然の成り行きであった。

 ボデー、シャシーの製作は順調に進んだもののエンジン開発についてはいささか複雑な事情があった。それは社内で第二研究部とは別な部門が秘密裏に進めていたスポーツカー開発の産物であったアルピーヌ・エンジニアリングによるコンテッサ1300用のGR100改エンジンであった。それはエンジニアの目から見れば、誰もがツイン・カムながら本来のGR100並みのパワーも期待出来ないし、構造上の問題もある代物であった。当時、第2研究部に属していた西村(後にホンダに移籍、RA302などのエンジン開発など担当、現、株式会社 沼津パワートレインサービス代表取締役)は「図面が先に来たが非常にラフなものでこれはものにならないと思った。鋳物も鋳造が悪く、結局それは設計そのものが悪かった。ヘッドは水が漏る、オイルが漏るというやっかいな代物だった」と思い出す。

 しかしながら、上層部の判断でその図面をベースにGT-P用のツインカム・エンジンを設計を始めざるを得なかった。結果的にかなりの日野独自の改良を盛り込んで設計・製作されたGT-P1次仕様エンジンは ”和製アルピーヌ” エンジンと呼ばれたものだ。勿論、これは即レースでの戦闘力を期待したものではなく、日野オリジナルのより高性能レース・エンジンの開発の出発点だった。

 年が明けて、1965年(昭和40年)3月、GT-P1号車は茨城県は谷田部の高速試験所に持ち込まれ慎重にシェイク・ダウンが始まった。その日のデータは最高速度179.5km/h(約6350rpm)、SS1/4マイルは19.0秒であった。エンジンは ”和製アルピーヌ” と呼ばれるところのウエット・サンプ方式のGT-P1号機エンジンであった。

 1965年(昭和40年)3月初旬の常務会にGT-P1号車は塩沢商工製デル・コンテッサ・フォーミュラと共に現物をもってその精悍のボデーを披露したのだった。その後、GT-Pは塩沢商工製の2号車を含め、4号車まで製作され熟成を計った。4号車はその年の10月末の第12回東京モーターショーに参考出品されている。

 そして、この年の7月、最低地上高などF.I.Aのレギュレーションが変わったことへの対応と4号車までの種々の問題点に対する改良を次期5号車以降に盛り込むことが決定された。主なものは次の通り:

  • 空気抵抗の減少
  • 視野の改良の改良
  • ベンチレーションの改良
  • フレームの改良
  • ステアリング系の配置の改良
  • 室内配置のレベルアップ

 この5号車以降はGT-PからJ-494と新モデルであることを強調するために開発名称を改めた。所謂、このモデルが一般に知られるよりスマートになった実戦向きの日野プロトタイプだ。大竹は「このJ-494のJとはF.I.AのレギュレーションのJ項目のJから、494は当時に第三研究部の電話番号下3桁を取ったものだ」とその謂れを明かす。

 1965年(昭和40年)11月末には5号車の重量軽減など細部の詰めが完了し、早くも翌年の2月に60kgほどの軽減した新規格の5号車が完成した。また、この時期、GT-Pエンジンの1次仕様の改良型の2次仕様が94ps/6500rpmに達成していた。3月の船橋サーキットでの全日本レーシング・レーシング選手権第1戦にはGT-Pの2及び4号車で参加すべくテストを重ねていた。しかし、エンジン、車両の信頼性不足との理由で出場取り止めとしたのだった。

 この間の1965年(昭和40年)12月、組織として変則的であった第3研究部は解消となり、第二研究部の中に組み入れられ、レース関係、エンジン開発関係など一つの屋根の下で進められることになった。一方、第3回日本グランプリ出場に関し、レース委員会は日程面などで無理ありとの判断で不参加を決定したのだった。

 1966年(昭和41年)4月にはJ-494用の待望の鈴木(現、副社長)、浜口(現、製品開発室副主査)や西村達の新設計のYE28型エンジンが完成したのだった。これはGT-Pの2次エンジンのバルプ系、吸気系の改善による高回転高出力化、クランク・ケースの剛性アップ、コンロッドの剛性アップ、クランク・シャフトのフル・バランス化、潤滑系の改善による耐久性向上を狙ったものだ。

 「一例としてクランク・ケースの剛性アップのためにブロックに穴を空けたくなかったのでオイル・ラインを外に設けるなどの工夫をした」と西村がまた、浜口は「オイル・パンを奇麗に磨こうとグラインダーをかけるとものすごい火花が出た。材質はマグネシウムだった」とYE28開発の思い出を語る。

 その後、新型プロトJ-494のターゲットを8月14日の船橋サーキットでの全日本レーシング・レーシング選手権第3戦に絞って車両とYE28エンジンの熟成に注力した。その間、6号車(左ハンドル)は日野のテスト・コースでガソリン漏れによる火災により失ってしまうものの、5号車による船橋サーキットでのテストも順調に進み、YE28エンジンの7号機も目標の110psを安定して発揮するに至って来た。

 しかし、レース直前の7月初め、開催地が船橋サーキットから富士スピードウエイに変更になったのであった。このことは船橋で熟成を進めてきたJ-494に大きな打撃となった。船橋はツイスティなテクニカル・コース、富士はストレートが長い高速コースなのだ。そのために日野側技術者と契約ドライバーとによる特別チームの体制を組織し、 ”FISCO対策” と称し、7月中旬から8月14日までの間、それこそ分刻みの計画を進めたのだった。

 この間、7月7日に完成した山西選手用の7号左ハンドル車と7月20日完成の6A号車となった塩沢(勝)選手車の整備・熟成、トランス・ミッションやYE28エンジンの富士対策など多くのかたずけるべき項目があった。YE28の富士での問題点はまず高速走行に於けるコンロッドの耐久性であった。コンッテサ1300のGR100エンジンと同じ斜め割りのコンロッドは軽量化に向くものの富士での過酷な走行には耐えられず問題を引き起こしていたのだ。

 鈴木達はすぐに改良に取り組むものの時間の関係で、重量は増えてしまうがより確実な直角割りの一般的なものを作るべくすぐ様取りかかった。それは7月20日午後8時の粗材入手、そして6日後の26日の午前8時には5組の強化型コンロッド完成と驚くべきスピードであった。

 8月7日からは13日の予選に向けて全員富士での第2次合宿に入った。ここで最も悩まされた問題は外気温上昇による原因不明のパワーダウンであった。外気温が27度を境に発生するのだった。オイル・クーラーの容量の大型化やパーコレーション対策のガソリン・クーラーなどを設けるものの解決を得られないまま、予選を迎えた。

5.3 新GTプロト - 新たなエンジン

GR100ベースのアルピーヌ開発ツインカムエンジンから発展、
GTP搭載の初期型から進化し、本命のYE28型へと。
画像は、シングルディストリビュータのYE28暫定と思われる。
車両はJ494と同時にDEL MARK IIIに搭載しテストされた。(1966年5〜6月、船橋サーキット)

(SE, New Original, 2022.6.25)

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