1966年 (昭和41年) 8月14日、日野自動車工業株式会社(以下、日野)の心血をそそいたJ-494こと日野プロトは富士スピードウエイで緒戦を飾った。偶然にも同じ日、カリフォリニアはロサンゼルス郊外のリバーサイド・インターナショナル・レースウエイの6時間耐久レースで日野の米国に於けるワークス、”チームサムライ”のピーター・ブロック(以下、ニックネームのピート)と相棒のロバート・ダンハム(同、ボブ)はコンテッサ1300クーペでその名に恥じない戦いを進めていた。
この日、ピートはRRポルシェ使いのベテラン、アラン・ジョンソンと組み予選2分2秒で出走55台中21番手につけ、セダンクラスでは4番手であった。ピートが攻め側であるのに対し、守り側のボブは2分5秒で39番手となった。ピートとボブとの予選の差はわずか3秒、その中には18台がひしめくという激戦だった。クラスCのコンテッサの第一のコンペティターはミニクーパーであり、これは2年前にピートとボブがカリフォルニアでコンテッサ1000GTでセダンレースを始めて以来の因縁の戦いだった。
午後1時30分、6時間の戦いはルマン式スタートで開始された。ピートは巧妙なスタートを見せ最初のラップでミニに先行した。最初の数周は55台の大群のためにあちこちでもみあい、接触が見られた。幸いにもピートとボブはそれらに巻き込まれることなく絶好のポジションを得て行った。
しかし、レースというものは何事のうまく進むものでない。それは10ラップ目にターン4の気の許せない高速左カーブで発生した。ピートが100マイルを超えるスピードで内側からヒーレー・スプライトを抜きかけた時、相手の左フロントがコンテッサの右リヤフェンダーをヒットしたのだ。これによりピートのコンテッサは空中を2回転をし、4輪を空に向けて着地をしたのだ。ピートは幸いにも怪我無くクルマから脱出したものの、コンテッサの屋根はロールバーの位置までつぶれ、前後のウインドウは破られ、一面にはオイルが流れ出てる状況だった。誰の目にもそれは再びレースに戻れるような姿でなく、それはサーキットの死骸と化したものだった。
ピートの指示によりコンテッサはレッカーですぐにピットに戻され、ピットクルーによる懸命な修復が開始された。一方その脇でピートはレース・オフィシャルと再出走についての規則上の解釈をめぐって議論をしていた。結果的にピート側の意見が通り、30分のロス後、奇蹟的にピートのコンテッサはコースに戻ったのだ。この間、ミニに遅れこと17周!
ピートは「走行再開したもののそれからが大変だった。先の衝突でタコメーターが壊れて動かず、また前後のウインドウが無く、車内は大変な風音、エンジンの音を聞くどころでなかった」と当時、語っている。
その日は外気温38度と高く先行車ミニはオーバーヒートを懸念してか、またピートがまさか新たにコンペティターになるものと思われなかったせいかスローダウンしていた。この間、ピートはじわじわを差を詰めて行ったのである。午後4時にはアラン・ジョンソンに交代し、その後も2分3秒から5秒台をキープし、午後6時過ぎ、ピートに交代する時点ではクラス2番手に上がっていたのた。ここで先行車は宿敵ミニのみとなったのである。
最後の1時間30分の戦いとなる訳だがその差は5ラップ。ピートは最初の30分で2ラップ半ほど詰める。残り1時間の間にミニは燃料補給が必要とされるがコンテッサは新しい大型タンクにより最後まで無補給で走れる計算だ。ピートは尚も襲撃を続け2ラップを残し差は2車身ほどになり最後のデッドヒートが繰り返された。しかし最終ラップのバックストレッチでコンテッサはミニにぴたりとつくもののミニは先行を許さなかった。
このデットヒートは最終コーナーに入り決着がつくことになる。ピートは突入後もアクセルを踏み続け、アウトブレーキングのテクニックを使った。この間、横並びになり、両車スライドし軽い接触を起こす。結果的にブレーキング競争に勝ったピートが先にチェッカード・フラグを受けることになる。
これは正にピートのサムライ・スピリットによる不屈の精神で勝ち取った念願の優勝だった。カリフォルニアの灼熱の砂漠の中での過酷な500マイルに及ぶ6時間レースを走り抜けたのだった。それもあれほどのひどいダメージを受けたにもかかわらずだ。観客はこのピートとコンテッサの闘志に熱狂したのだった。
しかし、数日後の公式結果は失格になってしまう。理由はフロントウインドウが無いことに対し下位のコンペティターからの抗議によりものだった。優勝のターゲットは振り出し戻るのである。
(SE, New Original, 2022.6.25)