日野側はこのプロジェクトの意義を、
- コンテッサ1300クーペのエンジンの可能な限りの出力アップとシャシーの改良。それら今後の生産車への適応。
- 米国市場の実情の調査と販売車両の仕様の見極め。
- 日野車のイメージを高めるためにカリフォルニアでレース活動を積極的に実施する。
とし、契約の内容は性能向上とレース活動に関するものからなり、前者は日野の研究と生産車への適応を計るためにピート側で開発したエンジン一基を諸データとともに返送することと、シャシー、ボデーやサスペンションなどの性能向上開発を行いそのデータを提供することであり、後者は2台のレースカーを製作し、1966年シーズンの太平洋地域選手権セダンレース・シリーズなどを含め15回以上出場し、その際同時に車両の展示説明をし販売促進活動を実施することであった。
期間は1966年 (昭和41年) 1月1日から12月末までの1年間、プロジェクトに関わる費用はBREへの支払いや日野側のKMバン・トランスポータを含む車両や部品など諸経費で当時として約2千9000万円と破格なものであった。これはピートの主義であった有能の人材による少数精鋭体制が大きく寄与しているもの思われる。因に当時のBREはドライバー兼のピート、メカニックのジェフ・スクールフィールとジョーイ・キャバレラリだけで全てをこなし、ボブがドライバー専属として加わったのみである。
契約完了後の1966年 (昭和41年) 1月の中旬、ピートのもとに早速2台のクーペとスペアパーツが先行手配のエンジンに続き送られることになる。このクーペにはピート側から以下のような事前注文があった。
- 薄板鉄板を使用し車重800Kg以下。不要なものは一切組み込まない。公認書にはとらわれる必要はない。但し、内張りは市販車と同じ外観とする。
- スポット溶接は必要な箇所全て二重にする。
- フロントガラスを除き全て軽量プラステック・ウインドウとする。
- ライトはスタンダード用のシングル・ライトとする。
- シートはPCの鈴鹿仕様と同じ軽量のもの。
- スプリングとショックアブソーバはレース仕様とする。
- ホイールは軽量強化型とする、等など。
これら要求に限りなく沿った形で特別仕様車が製作されることになるが、車体そのものの軽量化は見送られ車重は900Kg弱のスタンダードに近いものであった。これはピートのいう薄板鉄板を使うという製造上の時間的な制約とFIAのホモロゲーション上の問題などが日野側にあったと思われる。
このプロジェクトにはピート側の開発支援とその成果物を日野の工場側で円滑に導入するために当時、第二研究部の課長であった鈴木 考(現、日野自工副社長)がBREに長期出張している。当時、鈴木たちが手がけた純レーシングエンジン、YE28の立ち上がり時期、しかも日野プロトの制作と開発項目が目白押しで第一線のラインの長が席を空けることは難しいと想像するが、これは宮古の適任者を派遣するという考えによるものだった。結果的にこの決断は後に多大な成果を生むことなるのであった。
ピート側のボデー改造やシャシー改良などが完了し、コンテッサ1300クーペのレーサーが出来始めた1966年 (昭和41年) 3月半ば、鈴木は同僚を始めとする日野の期待を背負ってBREへと飛び立ったのだ。その晩、鈴木はピートの家に夕食に招かれ、ピートの好きなシベリウスのヴァイオリン・コンチェルトをBGMに、トレバー・ハリス(今日に至るまで米国のレーシングカーのシャシー設計の第一人者)などと共にピートはコンテッサ改良の議論を進める光景を見るに至った。その内容はファーストクラスのスペシャリストのみが語る実践を裏付けとしたもので渡米早々、時差も未だ抜けない鈴木にとって大きなショックであった。
ピートのコンテッサに対するチューニングは例えば、このトレバー・ハリスなど周辺のスペシャリストたちを積極的に利用する方法であった。これは当時、特にロサンジェルスが航空宇宙産業の拠点でもあり、それに付随するノウハウをもったスペシャル・ショップが数多く存在することで、これがまた南カリフォルニアでレーシング・ビジネスが発達したと言って過言でないだろう。当時、ロサンジェルスは半径50マイル以内にレーシングカーを造る全ての人材と物が存在していたのだ。
ピートが「我々(BRE)が行ったことはエンジン冷却のエヤーフローの決定と油圧に関する問題点のみ」といみじくも語るように、コンテッサの改造にはピートたちがそれら有能なショップを連日往復しては議論を重ね、パーツを製作し、それらを自分たちで組み込み、テストそして分解チェックをするといった方法であった。これはこのプロジェクトが低価格で進められたことの一因でもあったが、それは米国では常識的な方法でもあったのだ。
このような方法で進めれらたコンテッサの主な改造点は表 - 1 のようものだった。これらの改造が進む中、ミニクーパーに対して未だ決定的な戦闘力は得られてはないものの最良のテストの場、レースに参戦をして性能向上を進めて行った。当時のリバーサイド・インターナショナル・レースウエイの機関誌 ”RACEWAY” の1966年4/5月号は『ウイロースプリングスのレースではテッド・ブロックのミニ達に対しては未だ挑戦するに至らないが必ずや近い将来、これらミニを脅かす存在になる』とサムライ・コンテッサを評している。
ステージ1のエンジン開発が終盤に近い1966(昭和41)年5月末には燃焼室の充填効果を増したGR100エンジンは後輪軸での計測で82馬力/6000rpmを得るに至ったのである。それはピートとスペシャル・ショップのポーティング作業などの成果だった。同時に後輪スタビライザーのスプリングレートの選択、コルベアのホイール流用によるホイール幅やタイヤの太さの選択など綿密なシャシーのさらなる改良も進められている。
実はこれら開発が非常に短期間に進められたことに注目しなければならない。一例をあげるとピートと鈴木たちと昼間はショップ回りをし、夜間エンジンの組み立て・テストを行うといった具合であった。連日深夜まで突きあった鈴木の帰宅は午前様でアパートの管理人から深夜のシャワーにクレームがつくほどだった。当然、レースが近づけば連日の徹夜、レースの数時間前にエンジンが完成という具合で、それでもピートはドライバーとして出走していたのだ。
これに関し、鈴木はピートの時間を惜しんでの牛乳とサンドイッチのみで終わる食事から出る脅威的なエネルギーを見て、ピートを超人と称し、「アメリカで仕事をすることでヤンキーに近づくことが出来ると思っていたら、反対にヤンキーがサムライになったしまった」とそのコンテッサに対する仕事ぶりを語る。
これらのBREに於ける数々の改良は毎日の如く、鈴木の手を通して日野に伝えられた。それはSPB(Sは鈴木、PBはピート・ブロックのイニシャル)リポートと呼ばれたもので3ヵ月の間に三百頁を超えるものとなった。その報告そのものが市販コンテッサの改良に生かされると共に次期バージョンのコンテッサに適応されるべく日野工場側で日夜タイムリーなフィードバックが進められていたのだ。その数は百数十に及ぶものだった。
当時、このSPBリポートの受け側の一人であった浜口 吾朗(現、日野自工製品開発部副主査)は「さわると切れる様な薄い便箋に書かれたSPBリポートを毎日読むのが楽しみだった。例えば、クランクのジャーナルを鹿皮でラッピングすると書いてあれば、すぐこちらで実行した。とにもかくにも、そのようなノウハウが未だ無かった」を懐かしく語る。それは当時の米国西海岸の最新チューニング情報がそれこそリアルタイムで日野の技術陣に舞い込んでいたのだった。
鈴木はステージ1の完成の終わる6月中旬にはそのエンジンの日野へのシッピングの準備を済ませ、多大な成果と共にBREを後に日野に戻ることになる。ピート側はその後もピストン形状などの改良などによるステージ2のチューニングに入った行った。
(SE, New Original, 2022.6.25)