ステージ2エンジンの熟成は順調に進み、先の1966年 (昭和41年) 8月のリバーザイドでの6時間耐久レースでは残念ながら失格になるもののレーサーとしての性能を実証した訳だ。このことは日野にとっても大きな成果として”コンテッサ1300クーペ、脅威の逆転優勝 - リバーサイド6時間の死闘のタイトルの下にピートとボブの手記を社報別冊の形でただちに発行している。
ピートたちの手記を翻訳・編集した宮古はその冒頭で「過去半年に亘り日野車の改良開発に心血を注いで来た彼等のコンテッサに対する異常なまでの愛着と執念、そして自分の仕事に対する絶大な自信と責任感、これらを吾々は改めてまざまざと見せつけられたように思う」と語っている。
その後は戦闘力が増したせいか、それともリバーサイドでのアクシデントを引きずってかクラッシュなどに遭うことになる。そのため勝つという面での成果よりは西海岸最大のイベントである第9回ロサンジェルス・タイムズ・グランプリに照準を定めて行ったのだ。
それは再びリバーサイド・レースウエイに於いて1966年 (昭和41年) 10月30日開催された。前日の29日の予選でのピートは宿敵のミニ・クーパー3台に続き4番手だった。決勝の一周3.275マイルの20ラップレースは30日の正午にスタートをきった。
テッド・ブロックら先行の2台のミニはピートにとって8月のミニと違い、この日初めての戦いであった。最初の1-2ラップは彼等の実力を伺うと、加速面ではコンテッサよりはわずかに勝っているように思われるものの、ロールホールディングなどシャシー面に勝るコンテッサはミニに対してコーナーでパス出来ることだった。
レースの前半はコーナーでコンテッサが先行するものの1/2マイルの長いストレートではミニに先行されたが、レースが進むにつれてミニがコンテッサをパスするに時間がかかるようになってきた。そして1台のミニが敵でなくなり、ピートのコンテッサとテッド・ブロックのミニとの争いになって来たのだった。
この闘いはレース後半には激しいものとなり、コーナーでコンテッサが勝り、ストレートでストリップ・ストリームを利用してミニが前に出るという1ラップのうちに3度も首位が入れ替わるものだった。
4ラップを残した時点でピートは50mほどのリードをし、形勢有利と思われた。しかし、ターン6でルノーゴルデーニのアクシデントにより黄旗で追い越し禁止となった。ところが解除された時点でピートの後ろに迫っていたテッド・ブロックのミニは素早く加速して行ったのだ。ピートからリードを奪ってしまったのだ。
ピートは水温などエンジンのコンディションをチェック後、再びリードを奪う決意をしたのだった。ピートはターン9の最終コーナーでは絶対的にコンテッサの方が有利なことを掴んでおり、パスさせまいと懸命にコーナー取りをするミニに対して決戦を最終ラップに持ち込んだ。この作戦は成功し、チェッカード・フラグはコンテッサについて廻り切れないミニを尻目にピートが受けたのだった。
ピートは優勝し、ボブも2台のミニに続き4位入賞となった。8月のレースと違って、今度こそまぎれもなく打倒ミニを果たしたのだ。この日のピートとコンテッサのミニとのデットヒートは上位クラスを凌ぐ歓喜を観客から浴びることになった。それも日野という日本の小型乗用車では小さなメーカーがどこのメーカーよりも早く米国でこのような快挙を得たことに対する驚きと賞賛でもあった。
ビクトリーラン後の模様をピートは「非常に奇妙な光景だった。熱狂的な祝福の中、ピットロードに戻ると今までにない大勢の日本人に迎えられた。皆、我々を祝福をしてくれた。そして私に名詞を差し向けてきた。後でみると全て日本の自動車メーカーで”プリーズ・コンタクト......”と書かれていた」と語る。レース関係者がこのコンテッサの優勝を見るや否やピートのもとにやって来たのだった。
この快挙は日野として日本国内で各種メディアを通して ”コンテッサ1300クーペとチーム・サムライの快挙” として大きく報道すると共に、このサムライ・コンテッサを日本に里帰りさせ、年の明けた1967年 (昭和42年) 1月15日、船橋サーキットで開催された全日本自動車クラブ対抗レース大会でボブのドライブにより、またも優勝を手にする実力を見せたのだった。
折しもその時期、1967年 (昭和42年) シーズンに向けてミニに対して最大の懸案事項であった車両重量に関し130kgほど軽量化されたコンテッサ1300クーペL(Lはライト・ウエイトの意)とパワー・アップのためのシリンダー・ヘッドやエキパイなどの改造をし、より戦力アップした車両での新たなFIAのホモロゲーションを受けていた。
日野に多大な技術上の改善をもたらしたピート・ブロック・プロジェクトの日野、BREの熱意は何だったであろうか?タイムズGPでクラス優勝に導いたピートの闘志は何だったのであろうか?
BREではこのプロジェクトと並行して日野のためにコンテッサ1300のGR100型エンジンを持つプロトタイプ・レーサーの開発が進められていた。それは1967年 (昭和42年) 5月の第4回日本グランプリにボブのドライブするコンテッサ1300クーペと共にヒノ・サムライ・プロトがピートのドライブで出走することになっていたのだ。
(SE, New Original, 2022.6.25)