コンテッサ1300クーペにより米国でのレース参戦を進めたピートプロックプロジェクトは対米輸出政策、品質改良などを前提に日野社内で重要な位置を占めて行った。しかし、ピートのプトロタイプ・レーサーに関しては全く誰にも知らされることなく進んでいた。ピート自身もシークレット・プロジェクトと名付けていた。
そのプロトタイプ・レーサーの実態は1966年(昭和41年)4月、まず宮古に知らされた。イメージメーキングモデルと称し、その前衛的とも言えるボデースタイリングだったせいか「宮古さんから返事はツーアドバンス(あまりに未来的すぎる)ですぐに売れるものでないと、しかし何らかのバックアップをすることを約束してくれた」と当時のサムライプロトに対する印象をピートは語る。
その後、5月に入りBREに長期出張中の鈴木 孝(現日野自工副社長)に初めて、1/5クレイモデルをピートから見せられることになった。この時サムライと名付けられたことも明らかにされる。鈴木は当時の報告書の中で「新鮮なアイデアに満ちた美しい姿態に驚嘆の声を禁ずることが出来なった」と、その印象を語っている。そして鈴木を通じ、サムライプロト独特の複雑な3次元曲面を持つフロントウインドウガラスの製作を日野に打診されることになる。
サムライプロトは日野に対するコンテッサ1300のGR100エンジンを搭載したプロトタイプレーサーのプレゼンテーションであるとともに、当時の自動車業界のイタリアン・カロッツエリア一辺倒に対するアメリカン・デザインの挑戦でもあった。
空力ボデーのサムライプロトの際立った特徴とは次の様なものであった:
- リング・エアフォイル
- スムーズなエアーフロー
- ラジエータのエアー排出方式
- 前面投影面積
- ショーカーとして美しさ
リング・エアフォイルはギア・デトマソで具現化したものをさらに発展させたものだ。エアーフローについてはコブラ・デイトナクーペの反省やクルマ全体での空力特性のインプルーブを狙ったものだ。ラジエータのエアー排出はフロンドウインドウガラスの下部で行うものでサムライプロトで初めて試されたものだ。前面投影面積は最も高速性能に影響するもので1300ccの小さなパワーで220km/h以上を可能にする秘密はこの小ささにある。
尚、1/5クレイモデル完成の時点ではラジエータのエアー排出に関して未だ試行錯誤があったようだ。写真でも分かるように右半分がコンベンショナルなもので作られている。結果的にリスクはあるもののウインドウガラス面への排出を行った訳だがこれは富士スピートウエイに持ちむまでその効果を試すことが出来なかった。
1/5クレイモデルをベースにバック(合板で作る実寸大の骨組みの型でアルミボデーの典型的な型の作成方法)が作成され、ルグラン社製のスペースフレームと共にBREからほど近いカルバーシティのT-Bショップに持ち込まれた。T-Bショップとはディック・トルーマン(T)とトム・バーンズ(B)の両氏のガラージで50-60年代、一連のスカロボ・シリーズ、ポーパー(ポルシュ・クーパー)、シャパラル1、マスタングI など世界的なプロトタイプを作り上げた最高のアルミボディのスペシャリストであった。またルグラン社は当時、米国で最もポピュラーなスペースフレームの量産メーカーであった。この様にロサンジェルス近辺の非常に恵まれた環境の下、ピートはサムライプロトのために最高のスペシャリストたちを選択したのである。
T-Bショップではスペースフレームの改造が行われ、1/5クレイモデルとバックから徐々にボデーの製作が進み、9月末の時点で大まかな外観が明確になってきた。特徴的なドアのヒンジなど、デティールについてはその後煮つめられた。また、エンジンに関してはコンテッサ1300用のGR100と純レーシングエンジンYE28(日野プロトに搭載)を搭載すべく寸法のチェックなども進めている。
おりしもその直後の1966年(昭和41年)10月14日のトヨタと日野の業務提携はいずれ日野のレーシング活動が休止に向かうことを意味していた。前々号記述の9月のレース委員会で前向きに検討された1967年日本GPを目指したニューJ494(日野プロト)の開発は宙に浮き、130馬力オーバーが期待されたYE28Bエンジンも開発エンジニアの執念で1台を完成するに止まってしまった。
この時期、ピートプロックプロジェクトはコンテッサ1300クーペのレースでの活躍が物語るように宮古が当初狙った通りのものになりつつあった。コンテッサ1300クーペの販売デーラーの問い合わせが米国各地から寄せられて来たのだった。すなわち、コンテッサ1300クーペはピートの企画書通りに米国で小型クーペ市場を占有できるのではないかと、またダッツンのロードスター(SPL311)の好敵手となるだろうさえ信ずるに値するものだった。
これら好材料からトヨタ側でも業務提携を機にレース活動でピートの起用を積極的に進めたグループがあった。ピートは宮古と相談の上、結果的にトヨタ側へ1967/8年度のトヨタ2000GT、RTX、カローラ、プロトの開発など含めたプロポーザルを出すに至った。ここではコンテッサ1300クーペのレース活動が67年半ばに日野と契約が切れた後もトヨタが引き継ぐこと、それは受け入れる市場があることをピートは強調したのだった。しかし、サムライプロトに関してはトヨタからオファーがあったもののピートにとって日野のピートプロックプロジェクトの契約外でもあるし、ピート個人の日野に対するものであることを貫いたのだった。この時点でピートはトヨタ2000GTのレース活動やプロト開発など部分的な仮契約という形でトヨタと進んで行ったのだ。
(SE, New Original, 2022.6.25)