7.4 悲劇の序奏 - オーガナイザーとの確執


 予選はのがしたものの決勝30分前まで再車検の権利がエントラントに認められている。サムライチーム側は問題のオイルパンを改修することを条件に「ルールはルール」と首を縦に降らないJAF側にねばり強い交渉を打って出た。この間、賞金なしの出場なら認めるとか様々な紆余曲折もJAF側にあった。夜も10時を回る頃、競技長を中心に緊急組織委員会を開かれ、その結果ピートを呼び出し次の様な中間結論を言い渡したのだ。それは安全性の保証、競技執行委員の支持、参加者の支持、そして審査委員会の承認の4点が得られれば競技長に一任するというものだった。すなわち、出走可能を期待させるニアンスであった。

 丁度その時間、日野の工場から例の友人たちの手でGR100エンジンをパワーアップしたニューブリスカのG型エンジンが届けられた。実はこのG型エンジンのパワーアップや品質向上にピートも大きく貢献していた。ピートは油圧低下でダメージを受けたエンジンとG型エンジンの部品を合わせて新たに組み直すことを決意。この時、すでに午前1時を回っていた。そして、組み上がった時、すでに太陽が上がり初めていた。

 5月3日(水)の日本GPの当日、サムライチームは全員徹夜明けの赤い目のまま改修整ったサムライプロトとともにJAF側からの返事を待っていた。しかし、何の連絡もない。午前10時すぎになり、JAF側から最終結論として4点の全てが満たされないことで一方的に失格が言い渡されたのだ。そんな中、前日車検失格のローラなどは再車検が行われ出場の権利を得ていったのだ。これが全ての結末だった。ピートがコンテッサエンジンを使用し、自身のコンセプトを具現化すべく1年に及ぶ努力はこの時点で全て消え去ったのだ。陰ながらここ1週間、寝ずの整備をした宮古と日野の友人たちも同様だった。

 さて、この事態はサムライプロトが来日した以上にメディアを賑わすことになる。当時の模様を伝える見出しは次の様だった:

  • 責任はだれに?失格にかんかんサムライチームの三船監督
  • サムライボイコット...情けない島国根性
  • 快晴でなかった日本GP...JAFの主体性のなさ
  • 日本GP決勝レース総決算...世界の三船とJAFの対決
  • サムライ失格...車検役員は石頭
  • 規則に切られたサムライ...大目に見てもらった車もあるのに
  • 第4回日本GP評....興味を半減させた競技役員の不手際
  • Minor Technicality Bars Hino Samurai From Race (些細な技術上の問題でサムライをレースから引き落とす)

 これらメディアはサムライチームが如何にJAF側と奮戦したか克明にリポートしたのである。そして、ピートは当時のオートスポーツ誌に特別寄稿として ”国際レースはまだ開けない!” と銘打って、日本のレースの国際的発展を願い、ピートが感じた第4回日本GPでの組織のカベ、責任者不在、規則と不公平などについて公に問い正したのである。

 ここで本件に関し筆者はここ1年、主にピート側に立った調査だが次の様な考察をしたい。まず、当初、日本側のトヨタがピートを積極的に利用したいとの意向があったものの米国トヨタ側の一部にキャロル・シェルビーを起用したいとの動きがあった。これが良くも悪くピートの運命を左右した。その結果、個人を中心とした一部のグループがピートや日野が知る由もないところでサムライ買い取りを企て金銭的なトラブルが発生した。これに加えその他の要素も加わりピートが日本GPにサムライを持ち込むことを好まれなかった。にも関わらずサムライプロトは日本GPに現われた。その延長線上に日本GPの結果があり、ピートをすでに失っていたシェルビー側も起死奪回として積極的にそのグループに接近し、ピートのトヨタ2000GTレースプログラムはシェルビーに移してしまったのだ。

 今となっては当時の事実関係を知ること難しい。しかし、事実としてピートはトヨタとのプロト開発計画は契約通りに完成・納入し、その後、日産と契約を進めた。そこでのダッツンはシェルビーのトヨタ2000GTをレースフィールドから消し去ったことは米国で有名な話であることを付け加えて置こう。

 ピートは「当時、サムライプロトに関しトヨタの豊田章一郎さんとその関係者達はよくしてくれた。そして日野の皆さんは全ておいてパーフェクト、特に宮古さんは生涯のベストパートナー」と語り、宮古は「何としてもコンテッサ1300クーペだけは残したかった。ピートの活躍とともにフィアレディを超えるマーケットの展開を感じていた。そのためにも米国に移り住んでもよいと考えていた」と当時を述懐する。

 今日サムライプロトそのものは伝説的に語り継がれているがピートたちの心血を注いだ努力はその事実が歴史から消え去っている。これをスキップしてはコンテッサの歴史の大切な部分を切り取ってしまうと筆者は感じざるを得ない。1966年(昭和41年)10月の日野とトヨタとの業務提携発表からこの第4回日本GPまでの間、約半年、秋のモーターショウに於ける日野の展示モデルからして一般ユーザーは大いなる期待を持ったのではないだろうか?これは宮古をはじめ日野の関係者も同様だったと想像する。しかし、巷にコンテッサ1300の製造中止の噂が流れ始めた頃、悲劇の序奏の如くこのサムライ事件が発生した。

BRE Samurai 7-4

FISCOでは出走できなかった。しかし、日野本社で宮古忠啓 (レース委員長) の計らいで手厚いもてなしを受けた。
この約2年後、宮古の個人的努力&仲介でピートは日産東京本社の米国のレースプログラムの契約を手にした。
これが後に米国でのDatsun 510 & Fiarladyのレジェンドを創った!

(SE, New Original, 2022.6.25)

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