8.3 意欲的だった次期モデル計画 - 少数モデル故に


 クルマというものは4-5年先をみて次期モデルを造ることは常識である。コンテッサ1300も例外でない。ここではこのようなモデルたちを紹介する。

コンテッサ1300スプリント (国際的には、日野スプリント1300GT)

 謎の多いクルマである。本シリーズ第3回のミケロッティとの出会いの中の ”消えた市販計画” のコンテッサ900ベースのスプリントではない。文中、当時の内田の「...より魅力的なものを1964年度中にまとめたい」と発言がある。これこそが 日野スプリント1300GTと呼ばれた謎のモデルである。

 当時の残された資料と数少ない証言とデータからまとめると、日野コンテッサ発売以前の1964(昭和39)年のと初頭、フランスはノルマンデーにほど近いアルピーヌ・エンジニアリング及びイタリアのスタジオ・ミケロッティと内田たちを中心とした輸出部門で進めたもので、ヨーロッパ・ライトウエイト・スポーツを好んだ内田自身の大きな夢だったとも考える。

 クルマそのもののスペックは今日でも非常に魅力的なものである。ヨーロピアンGTと言っても過言でなく、スタイリングはミケロッティのコンテッサ900を焼き直しだが、アルピーヌ製のボデーとシャシーである。シャシーデザインはアルピーヌの教則本通り、ラウンドチューブのバックボーンに可能な限りコンテッサの部品が流用するものだった。四輪独立懸架のそれはスイングアクスルを後輪に持たず、ウイシュボーンにリファインされた。四輪ディスクブレーキであったことも言うまでもない。グラスファイバー製の850kg軽量ボデーをアルピーヌ・チューンのコンテッサ1300のGR100改のツインカム・エンジン(本シリーズの第5回を参照)で180km/h以上に引っぱろうというものだった。いわば、コンテッサ・アルピーヌとも言ったほうが分かりやすそうなモデルである。

 この日野スプリント1300GTの完成度やマーケティング戦略についての確かな記録は残ってない。ただ、事実としてヨーロッパの1967年度版の新型車モデルのカタログ誌に大々的に詳細が報じられていることと、日本で最初に市販モデルにアルファロメオの様にその高性能版リアルスポーツを”スプリント”と名付けたことを付け加えておこう。

コンテッサ1300マークII

 コンテッサ1300発売開始からおよそ3年後の1967(昭和42)年の中頃に現行モデルの改良版として世に出される予定だった。いわばマイナーチェンジ版というものだろう。

 1966(昭和41)年にはそれぞれのモデルについて試作車が完成していた。クーペ、スタンダード、S、3速デラックスがそれぞれ1台、4速デラックスの2台と計6台が製作され評価段階に入っていたのだ。

 主な改良点は当時よく行われたバンパーをより高い位置に上げること、ダッシュ、インナーパネルやシートなどの内装のグレードアップ、安全基準対策や取り付け部品の簡素化だった。特にセダンの内装はミケロッティ自身が強く望んだものが入ったといわれる。

 結果的にこのマークII計画は,トヨタとの業務提携発表後の1966(昭和41)年の晩秋に宙に浮いてしまった。 ”マークII” というネーミングも日本では日野がいち早く取り込んだが、実現には至らなかった。

コンテッサ1300クーペ S & SL

 次は1966(昭和41)年の第13回モーターショーで参考出品されたコンテッサ1300クーペSというモデルである。その計画は早くもコンテッサ1300発表直後の1964(昭和39)年の秋に始まっていた。次期エンジンに関して、GR100のスケールアップ版やツインカム化、新たなな設計のエンジンなどが具体策として進行していた。

 その産物がコンテッサ1300クーペの動力性能向上と販売拡張のためのイメージアップを狙いとしたGR100エンジンのツインカム版、YE27型エンジン(開発名称)搭載モデルがコンテッサ1300クーペSという訳だ。最高速度が155km/h、SS1/4マイルは18.5秒とGTへの仲間入りを目指したクルマだ。

 フィーリングに関し、ライバルと見立てたプリンス2000GT-Bとの動力性能比較、ボデー、シャシーを検討するためにGR100を74mmにボアアップした1, 400ccエンジンで名神高速でのテストを進めて、YE27型エンジンの開発が進んで行った。

 コンテッサ1300クーペSはエンジンのパワーアップとともにボデーやシャシーの強化が計られている。ボデーの剛性アップ、ブレーキの大型化、ホイールのインチアップとタイヤのロープロファイル化、ガソリンタンクの大型化などでが大きな改良点である。

 尚、このYE27は本シリーズの第5回にある日野プロト用のYE28型エンジンのデチューンと一般に書かれているが、YE27はGR100をベースにした市販車向けツインカムである。設計者も異なり、共通部品もないので別ものである。YE28のデチューンではなく、GR100のツインカム化と言う方が正しい。

 1966(昭和41)年の夏も近づいたころにはYE27のベンチテストも順調に進み、モーターショーも近くなった秋口には目標値の80PSを得るに至った。YDと呼ばれたし試作車両は5台製造され、YE28を搭載し、各種の実験に供された。

 モーターショウで好評だったコンテッサ1300クーペSはマニアから1967(昭和42)年に販売すべく期待されていた。しかし、トヨタのコロナやいすずのベレットに先駆けて日本で最初の高性能ツインカムGTになる筈だったこのコンテッサ1300クーペSもコンテッサ1300マークII同様にモータショー直後には宙に浮いてしまった。

 さらにこのYE27エンジンを軽量ボデーのコンテッサ1300クーペ”L”に搭載し、5速ミッションのコンテッサ1300クーペ”SL”、スポーツ&ライトウェイトも現実的な計画にあったことを付け加えておく。

 以上の試作モデルに加えて、現行GR100エンジンのパワーアップも着実に進められていたことは前回お話しの通りである。セダン用に65PS、クーペ用に75PSとそれぞれ10PSアップしたもで、吸排気マニフォールド、ポートとバルブ、カムシャフトなどの改善に依るものだ。このパワーアップ・バージョンはマークII計画より早い時期に販売される予定だった。

 その他エンジンに関しては1967(昭和42)年の秋を目指して1,500cc版のYE30系列エンジンが試作の段階に入っていた。更にペーパー上であったが100PSオーバーの高回転型1,300ccのYE47エンジン、更に過激的とも言える155PSの1,600ccのYE57までプランしていたのだ。特にYE47は87mmX54.5mmの超ショートストローク型でレーシングバージョンで130PS/10,000rpm、デチューンした市販版は100PS/8,000rpmをターゲットに置いたのだ。これはアバルトの世界である。

 コンテッサ1300は伯爵夫人というイメージから気品はあるものの走りに関し、ヤワなイメージがつきまとう。実は以外やその戦略は硬派だったのだ!これはファミリーカー・マーケットであるものの一線を引いた個性あるRR車で独自のマーケットを築くことであったのではないかと考える。

1966 Sorint GT

フランス、ディエップのアルピーヌ・エンジにリングで製作されたコンテッサ1300スプリントはパリ郊外の有名なオートドロム・ドゥ・リナ-モンレリ (Autodrome de Linas-Montlhéry) で試験が進められた。この後、1964年10月のパリサロンに出展、その後、契約通り、すなわち本格的なスポーツカーエンジンを搭載し、十分なる走行テストを完了し、1966年末に日本の日野工場に1964年2月に締結した契約通りに納入された。しかし、時既に遅し、このコンテッサ1300スプリントは陽の目を見ることがなくなり、対外的にも知らぬ存ぜぬとなってしまった。

1966 Sorint GT at Hino

日野工場に納入された日野コンテッサ1300スプリント。しかし、それは表舞台ではなく、工場の片隅の特殊な場所だった。それは火災事故にあった焼け焦げた日野プロトがこの場にあることら想像に固くない。一般にコンテッサ900ベースの900スプリントに比較してマッシブになった1300スプリントを低評価されることがある。しかし、およそ5年の時間を経たミケロッティ・デザインの進化を理解する必要がる。よくみればまったく異なるラインであることが理解できる。

(SE, New Original, 2022.6.25)

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