数々のコンテッサ改良や米国でのレース展開、コンクールでの評価を得ている中、技術陣や関係者のホットな意欲とは無関係に日本の自動車産業は大不況のさ中にあった。更に1965(昭和40)年の10月、乗用車自由化を迎えたのだ。この時期は日産はサニー、トヨタはカローラを展開する直前で、1300cc前後のマーケットはそれこそ戦国時代に突入の様相だった。
通産省側の「自動車業界は3グループ程度に集約するのが妥当」との指導があったものの、各メーカーはそれぞれ強気だったのだ。1965(昭和40)年の12月、社長の松方正信はこの問題に対して「日野はレーランド方式で行くと」と記者会見で言明し、かねてからの噂のトヨタとの合併も否定した。
当時、英国のレイランド・グループが大量生産での大きな利潤を目指すことなく、ターゲットを絞った大型商用車と小型乗用車を安定生産・販売することで、業界の中で独自の基盤で安定経営を築いていた。常任監査役の責にあった宮古がこれを商品系列が酷似した日野に当てはめ、”レイランド方式”と称し、日野の経営の基本方針を立てるよう具申していたのだった。
宮古の考えた”レイランド方式”は極めて常識的なものであったが、問題は経営陣がそれを現実に遂行実行出来るカ、常に目標として明確なビジョンを持ちえるかという面にあった。また、日野マンはそれを遂行出来るだけの能力と受け入れを可能としていた。
レイランド方式をいう言葉を使って、松方はトヨタとの合併を否定したものの、トヨタとの提携ないし合併の問題はコンテッサ1300が発売される前の1963(昭和38)10月のころから、通産省の勧告で始まっていたのだった。その理由は日野は大型車、トヨタは小型車が中心で競合車種が少ないこと、また主要取引銀行がともに当時の三井銀行であるというのが理由だった。しかし、この話は急速に進んだ訳でなく、両者の首脳陣がより具体的な関係を築きはじめたのは1966(昭和41)年5月下旬であった。
10月に入り業務提携に関し、遂に決定がなされた。発表の前日の10月14日には経営陣から組合側への説明がなされ、翌15日にトヨタ・日野の業務提携が発表となった。
この経緯に関し、当時のメディア(日刊工)は次の様な解説している:
- 日野は資本自由化に日野の乗用車部門はとうてい耐えられないことを認識
- トヨタは関東地区に乗用車の大規模の組立工場がない
- トヨタの技術陣は日産と旧プリンスのが合併後の技術陣に比較して弱体
- トヨタが最も問題にしたのが日野の販売部門
日野はコンテッサ1300の製造中止について明確なアナウンスはしてないが、この時点で事実上、方向性が出たものと推測する。そして、製造中止の噂は直後の1966(昭和41)年末には「コンテッサの部品発注が停止した」という形で流れはじめたのだった。
業務提携後の11月にはまず生産面の交流が開始され、部長以下多数の従業員が交代でトヨタ自工実習と称し東京駅を後に名古屋に向かった。トヨタでの作業は組立作業のラインのスピードなど作業形態から食事に至るまで映画”モダンタイムス”を思いおこしたと言われるほど、その合理性に関し大きなショックがあった。一方、日野工場ではトヨタのカンバン方式の導入やコンテッサ1300のラインをトヨタの委託生産となるパブリカバンと新生トヨタブリスカに切り替えるべく準備を進めて行った。
1967(昭和42)年3月末、コンテッサ1300は生産ラインをパブリカバンとトヨタブリスカに譲って日野工場のラインからひっそりと去ったのだった。そこには2年7カ月ほど前、首脳人や大勢の従業員からの厚いまなざしで見送られた華やかな光景はなかった。
終焉 - “Una Tragedia Della Contessa = 悲劇のコンテッサ”
従業員6,000人の企業存続は、夢はあっても採算の難しい小型乗用車とマーケットの異なる大型商用車の2足のワラジを履くことは難しいと判断したことだ。会社を生き残させるというロジカル面を納得し得るものの、コンテッサ1300に心血を注いだ関係者にとってはコンテッサを�カき残らせられないというメンタル面の葛藤はあったと想像する。結果的に大型車を選択したことで今日までトップの座を築くことになる。
コンテッサ1300の製造中止について家本は「乗用車というのは販売能力をバランスしてないとといくらいい車を造ってもマイナスが増えるばかり。いずれ販売網の弱体から行きづまりは予測されたので打ち切りを前提にトヨタと接触した。それには断腸の思いがあった。何はともあれ、止めざるを得なかったことは事実であり、それが結果的に言えば正しかった思う」と当時の思いを語る。
日野の前身、ガス電時代の星子勇に始まった乗用車造りの夢は、それから30年余り後、ルノー4CVでの暗中模索の技術習得とコンテッサ900での寝食を割いての実践を経て、コンテッサ1300で開花する筈だった。しかし、戦後間の間もない時期の自動車産業復興のための海外からの技術習得政策も国の指導、乗用車輸入自由化をひかえての業界再編成政策も国の指導だったことはあまりにも皮肉であった。その意味でわずか2年7カ月で幕を閉じなければならなかったコンテッサ1300は、“Una Tragedia Della Contessa = 悲劇のコンテッサ” と言わざるを得ない。
日野の小型乗用車生産台数はルノー4CVの34,853台、コンテッサ900の47,299台、コンテッサ1300の55,027台と合計137,199台であった。その内、コンテッサ1300を中心に16,799台が海外へと散って行った。30年以上経た今日、その残存台数の正確な数は不明だが国内の登録台数は約400台余り(全モデル計)。いずれも根強いオーナーの日常の足、趣味のクルマへとして活躍している。
60年代に日野が果敢に世界に挑戦した貴重な歴史のフレームワークを切り落とすことないよう、生き証人として今後も走り回るよう願うものである。
(SE, New Original, 2022.6.25)