2017.8.25:終戦の日に思うこと

19621031-1108 Trino Shou

 毎年、8月15日の「終戦の日」を中心に新聞などメディアは第二次大戦の特集を組んでいます。毎日目にする朝日新聞も例外でなく、特に戦争の悲惨さ、惨さを一般の人々のご意見を含めて整理・整頓されております。後世に特に我々含めいわゆる戦争を知らない世代への重要な役割を担っている訳です。

 そのようなこの8月に思い出すことが一つあります。それは四半世紀前に執筆をした「日野の夢 - 悲劇のコンテッサ」で、その際には日野自動車のご協力を得て、日野コンテッサ1300に至る日野のキーマンの皆さんにインタビューすることができました。

 そのお一人が、岩崎 三郎さんでした 。インタビューを通して氏の忘れることができないお言葉があります。

 第二次世界大戦中、大学卒業後、昭和16年当時の東京自動車工業 (現在の日野自動車) に就職後、陸軍で肉薄突撃艇のプロジェクトに参画、その特攻兵器のエンジン含め動力部分全体の設計に従事されたそうです。結果的にこの兵器で多くの若者の命を奪われることになったのです。このことについて、氏はインラビューの際に、悔い心を痛めていることをそれこそ涙まではいきませんがそのような状態で語られたことは今でも鮮明に記憶しております。

 先の戦争では特攻兵器で尊い命の犠牲もありましたがそれを設計した若い技術者が後世、おそらく一生懺悔していたのではと思います。これも戦争の歴史として後世に伝えるべきもの感じます。

氏はフランス語も解し、自動車について技術だけではない社会・文化を理解する日野自動車最後の自動車文化人の一人と分析しております。画像は1962年11月、氏がミケロッティ・スタジオにコンテッサ1300の最終デザインの交渉・決定にオール日野 (開発・製造&販売) を代表して短期出張した際の開催中のトリノショーのものです。この出張で、ボデーサイドのエアーインテークをリア吸入にするなど多くの重要項目の交渉が進められました。

ご参考:自工会、リアエンジン乗用車、コンテッサの開発、岩崎三郎氏

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