1970年〜1971年
人生初の日野コンテッサです。徹夜の学生アルバイトを続けて、現金片手に当時の四谷の日野専門店の後藤自動車で購入しました。実は、クーペに手付けを打ちましが結果的に高価で諦め、このミスティブルーメタリックの1300Sと相成りました。ボクが購入できなかったクーペは生涯の大先輩となった高田 幸雄さんが直後に購入されました。
ボデーと同色のタルボミラーもどき、左右のメーカーの異なるフォグ、そしてホイールキャップははずすなど当時の定番でした。
FM放送を聴きたかったので、脱着式のものをダッシュボード下に取り付けましたが、何と三日後に夜間の路上駐車で三角窓を破られ、見事に消えておりました。当時としては特に珍しい事件でもなく、警察にも行きませんでした。エンジンがかからない、出会い頭の衝突など色々ありましたが、筑波山、成田山、そして後の就職先となる静岡県三島市へとたくさんドライブしました。この1300は、ミッションはコンテツの欠点であるベアリングのうなりが結構ありました。
手放した後、東京駅前でエンジンフードを空けて(故障?)停車していたこの練馬ナンバーの1300Sをすれ違い様に見た光景が今でも浮かびます。
1964年〜1970年
実は上記のコンッテッサ1300S購入の原点になったのが、高校生になったころでしょうか、NHKのニュースで東京モーターショーの報道で、日野自動車の説明員は、「この新しいコンテッサ1300は、イタリアのミケロッティ氏によるもの。このすばらしいスタイリングは向こう10年は持つ」と、自慢げに語っていた光景は今でも脳裏に焼き付いております。
その後だと思いますが,市内の何かのイベント(警察?)で上のような交通安全標語のコンテッサ1300のポストカードをいただきました。このあたりがボクにとってのコンテッサ1300の原点かと推測しております。その後は街で見かけるようになったコンテッサを見ると、いつかはこのクルマに乗りたいなと思うようになりました。
1971年〜1976年
さて、やはりクーペしかないと、少々の初ボーナスがあったので、再度、後藤自動車で全財産をもってグレードアップしました。と、言っても1300Sの下取り(2/3になった!)+ボーナスの現金+12ヶ月の手形でした。このモスグリーンメタリンク(EM176A)は、2回目の車検を数ヶ月残し、コンテッサって、こんなに静かでしかも軽快に走るのかと、四谷の後藤自動車からR246で瀬田の東名の入口に向かった際の初ドライブは感激ものでした。
右上の写真は当時の1号線の三島から箱根に向けての富士山絶景ポイントの富士見食堂(現富士見平ドライブイン)の駐車場です。ベレットGTなども見えますが特別は光景ではなくごくありふれた普通のショットです。コンテツのボデーも適当にほこりにまみれて好ましい姿です。この一号線のルートはコンテツの状態を診るには格好な場所でした。それは今でも変わものではありません。
やはりコンテッサでしょうか、8万キロぐらいまでは良かった、その後はオイルの減りが早くなり、10万を前にしたころは1,000キロ/リッターを割るようになりました。結果的に、ある時期に縁あって、日野の関係者から手にした74mmピストン(ワークス競技用)とトヨタ・ブリスカ用の改良型のヘッドがついたエンジンに換装しました。馬力(トルク)は確かに麻薬のようなものと本当に思いました。
1973年〜1978年
この車両は部品取りに購入したものです。1973年夏まで三島市におりました。そのような縁でしょうか、裾野市のオーナーからこの個体を譲り受けました。その当時からクーペのオーナーは結構、マニアが多く、エンジンなどかなりいじくられたようです。ソレックス・キャブや新品の補修部品が結構ついていました。当時から部品については、オーナー自ら確保されていた方が多かったようです。
引き取り後、仮ナンバーで東名を走って松戸に戻った訳ですが、一点を除いて調子の良いクーペでした。その一点は今ではリコールになるミッションのシフトの不具合でした。でもこれは修正できる問題です。
当時、公団住まいだったので、数年、近所の月極有料駐車場に保管し、一戸建て住宅を購入後、解体しました。
1974年〜1978年
この車両も部品取りに購入しました。新潟市まで列車に乗り、その晩の内に松戸に戻りました。この個体も走る分には非常に調子の良い個体であり、マスターパックがついていたのでブレーキが楽だったのを記憶しております。
数年間、知り合い宅に少々の月極駐車代金を払い保管しておりました。上記のクーペと共に、時間を経て解体しました。さすが、新潟のクルマでボデーの錆は生半可なものではありませんでした。ただ、両ドアとも例外的に錆はまったくありませんでした。要はクルマというのは作り方の問題ということです。当時は錆び対策など多く部分が未熟であったと分析しております。
走行距離の少ない絶好調のノーマル・エンジンは、1981年に静岡の友人に託したクーペに搭載しました。
1976年〜1981年
上記のモスグリーンのクーペはその後、白にするとか、シビェのプジョーのヘッドランプ装着、さらにマルエヌのオープントップにするなど今で言うカスタム化をしました。
そんな内にゴルデーニのようなブルーのクーペを持つ友人とお互い相手のクルマはいいなと言うことで、何と即断即決その場で等価交換してしまいました(ただし、74のエンジンは後で載せ換えました)。
このゴルデーニ・カラーのコンテツをドライブしていたある日の交差点での出来事です。いすゞのエルフと並びました。ピッタリと同じカラーでした。何だ、そうなのか!そう思ったら、もう塗り替えようと決心。ミケロッティさんが言っていたコンテッサのカラーは、地中海ブルーないし明るいイエローを想定したとのことで、そのイエローにしようと早速、自宅、しかも屋外で練習を兼ねての見よう見まねで初めてのオールペンに挑戦をしました。見栄えはともかくとして、気にいったカラーでした。
最終的に、このクーペは1981年の暮れに次のクルマが来たために、専門家の手で定番の白にオールペンし、エンジンもノーマル、ミッションは新品にし、内装も少し手を掛け、静岡の友人の2台目の伯爵夫人となりました。
1976年〜現行車
1976年の暮れも押し迫った時期に友人を通じて思わぬオファーが来ました。かつて日野自動車が米国西海岸のセダンレースに使用したクーペ ”L”でした。麻布界隈のXXにあると噂だけで知っていたチーム・サムライのそれだったのです。その当時はダンハムさんから譲り受けた方が所有しておりました。
車検は切れていたものの、米国で改造されたロールバーやシャシーなどそのままで、日野自動車の手を経て、「2シーター」、「830kg」で登録されていました。年明けて、レース部品一式含めて、友人と数回の訪問で倉庫の整理をして、写真のような姿で仮ナンバーを付け、夢にまで見ていたこのとびきりのクーペ ”L” を首都高で走り、天にも登る気分で松戸に戻ったことは今でも記憶に新しいものです。
このクルマのその後については、別途、詳細に記述しましょう。とにもかくにも、このクーペ ”L” はボクにとって走り含めて生涯ベストなコンテッサです。
1981年〜2000年
縁とは面白いものです。親友がコンテッサ卒業宣言をしました。ついては彼の愛車を乗れるのはボク以外いないとかなんとかおだてられ大枚をはたく結果となったデル・ダンデー・ツーリング (DEL DANDY TOURING) です。本人の気の変わらない内に引き取りました。
その時点で本来の目玉であるV8は載ってないし、フォーミュラ用のミッションはもちろん無し、おまけに個人的趣味で大改造を施されておりました。最大の難問はボデーがドアの一部を除いて「L」ではないことでした。トラックのスプリングでの分厚いバンパーや派手なサイドステップやオーバーフェンダー、ノーマル並みの艤装などでノーマルクーペよりも遥かに重くなったいるこの個体を本来の軽い「L」にするには天文学的な資金とエネルギーが必要です。取りあえず、駄目なミッションを交換したり、最大の問題であるマルエヌのオープントップを二個一で元に戻す大改修を施しました(写真参照)。足も全面的に手を入れたり、本来の日野のバケットシートを買い戻したりもしました。
2000年に入り、燃焼室を根本的に改良した新造エンジンの馴らしを兼ねて、久しぶりに女房と共に糸魚川方面にドライブしました。その帰路、長野道、信州中野付近でドンと言う音とともにエンジン・クラッシュとなり、レッカーのお世話になりました。人間は引き際が肝心、すぐさま卒業の決意となりました。
嫁ぎ先は一発返事で決まりました。旧知の友人であるその新オーナーの希望を聞き、セダンエンジンをベースに好みにあった組み方 (柔らかい) をして、探して温存していたクラウン8のV8エンジンの解体を狭い室内に押し込み、めでたく山形方面へと旅立ちました。しかし、程なくして、破談になったとか、さらに転々としてヤフーのオークションに登場したり、身売りとは言いたくありませんがクルマとは言え、運命というものがあるようです。
結果的に、理想的な「L」に戻せなかったものの20年近く、生まれたての子供の成長と共にコンテッサ・ライフを楽しませてくれました(走行風景はここを参照)。
1982年〜1983年
80年代初期に友人からワイン・レッド・メタリックのクーペ(左ハンドルを右にして関係者に販売された昭和44年登録車)が託されました。早い話しが譲っていただけるということです。このクーペは色あせはしているものの一切のデコがなく、日野の工場のプレスラインそのものでしたので、躊躇無く受諾しました。
何ヶ月も先方の場所をお借りして保管してました。長年、クーペを探していた山形の友人に嫁ぐことになりました。今もって、この個体はラインが奇麗だと考えております。
(註)写真の左ハンドル車と同じカラー。サンプルであり、本車そのものではありません。
1995年〜1999年
1995年のとある時期に仲間内で、トヨタ・ブリスカがとある所にありエンジンだけを使おうという話しを聞きつけました。何しろ走るブリスカは世の中に存在しません。これはいかんと思い、その個体を保有している船橋市の中古業者に問い合わせをして、結果的に車両を買い取ることにしました。まったくもって浦島太郎みたいな話しです。
車検は切れてましたがちゃんと走る状態であり、仮ナンバーで松戸に帰りました。ただ、我が家は空いた土地がある訳でもない普通の住宅であり、当然の事ながら駐車スペースがありません。近所の駐車場を契約して保管しました。
ピックアップ・トラックは1980年代前半、長期滞在中の南カリフォルニアで友人のフォード・ランチョロ(7th Generation)を家族4人の足にさせていただき堪能し、今でも1つの憧れです。チーム・サムライの日野ブリスカのように白のボデーに橙のストライプを入れようだとか、デフの減速比が大きいのでダットサンの乗用車並みのものしようかと誇大妄想だけが空回りしてました。
結果的に、月極駐車場のまま、時折、その中を走行したりして、4年弱を経た後、幸運なことにトヨタ・ブリスカのファン(映画:ワイルド7)である愛知県の若い方のもとへと嫁ぎ、その後、車検も取得しました。
2006年〜2013年
2006年、米国の知り合いのためにヤフー・オークションで購入しました。この個体は30年近く、淡路島の個人の博物館の地下に所蔵されていたようです。輸出のために整備をしました。しかし、土壇場になり話しはこじれ、破談となり、「嫁ぎ先に逃げられた悲劇の伯爵夫人」としゃれにもならない結果となりました。
厄払いのために外観をクリーンアップして、2009年度のJCCAのニューイヤー・ミーティングのコンクール・デ・エレガンスにエントリーしたら、運良く、多くの綺麗なレストア・コンテッサをしり目に、コンテッサ部門で優勝(カー・マガジン賞)となりました。その数ヶ月前に自分たちで立ち上げ30年共にした日野コンテッサクラブを退いたこともあり、深く沈んでいた心に大きな勇気を与えていただきました。
その後、米国人に逃げられた悔しさもあり、せっかく自分がいじったクルマを少し乗って愉しもうと車検取得を決意しました。オリジナルでのドンなコンテッサでは面白くないのが判っているので、コンテッサ46年 (2015年現在) の経験をもとに乗って、そして走って楽しいコンテッサにするためにエンジン&足回りを中心に数えきれないほど改修を進めました。短い時間ではありますが、いじる,乗る、そして悩むと十分にセダンのコンテッサ・ライフを楽しませていただきました。これらのストーリは別途、記述しましょう。
「婚活」を友人に話しておりましたら、トントン拍子で決まり、2013年2月、めでたく群馬の若い方のもとへと嫁ぎました。縁とは異なものでありと感じました。
(Updated, 2018.2.11)
(2019.5.7, Modified)
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