当時(1960年代前半)の日野自動車の監査役であった宮古 忠啓 氏は、社のモータースポーツ関係を一手に担っておられました。元々は日本の銀行にお務めで長らく英国で活躍されたようです。英国での生粋のクルマ文化、クルマ・ビジネス、あるいはモータースポーツに深い見識をお持ちで、日野自動車に来られたてからは大きくそれらの知見が経営、技術・現場にと影響を及ぼしました。
日本を豊かな国に - ビジョン
日野自動車では伝統として、星子 勇 氏の星子イズムには、技術のみならず大いなるビジョン、「日本を豊かな国に、工業国へ、それには大衆車を造る!」が込められていると分析しています。そして戦後のフランスのルノー4CV国産化にまず始まる訳です。
輸出適格車を創る - 戦略
その結果として自分たちの手で乗用車を創るというものが「日野コンテッサ900」であったのです。その当時の方向性として、「コンテッサ」の命名者でもあった当時の常務取締役の内田 一郎 氏は、コンテッサ900の立上げ後、「わたしはこう考える:今後の輸出の考え方」と題し、社内向けに「輸出の現況」、「輸出市場はどこが有望か」、「何の為の輸出か」、「輸出出来る自動車とはどんなものか」、そして「輸出の見透し」と2面に渡る明快なメッセージを発していました。
その詳細、分析は別途、記述する所存ですが、要約すれば、「輸出適格車を開発・製造・販売する!」という戦略であり、氏は明確に戦略・プロセスを解説し,その後、ご自身が命名した「コンテッサ」を世界中のショーに登場させ、代理店を開発し、そして自ら売り歩いたのです。
レースはクルマを売る - 戦術
この戦略の実現手段、「戦術」の1つが、宮古 忠啓 氏の「内外の自動車レースに出る!というものであり、それが結果的に欧米では常識である「レースはクルマを売る!」の実践であります。コンテッサがその名称(伯爵婦人)からレースなどに似つかわしい印象もありますが、実はビジョン、戦略、そして戦術として見事にスジの通った一枚輪の方向性があったのです。それは「伯爵夫人 (コンテッサ) の挑戦」と言えるものです。(右の画像:1963年春先、ホンダと同時期に開発を奨めていた国産初のフォーミュラカー DEL MarkI を日野のテストコースで試験に立ち会う宮古 啓 氏 (右端))
以下の一連の戦歴は結果が実ったものだけですが、その影には多くの努力、あるいは戦歴としては実らなかったものもが多くあります。おそらく一般向けに出たものは正に氷山の一角であり、その裏には血のにじむ様な努力があったのです。
これらの努力も結果的には残念ながら1967年にはコンテッサの中止になる訳です。その際、宮古氏は、「ブリテッシュ・レイランド方式」という考えのもとにコンテッサ・クーペだけは米国輸出含めて存続させようと大きな努力をなされました。しかし、今で言う業界再編でしょうか、日野の乗用車プログラムは経営陣の断腸の思いをもって終焉という決断がなされました。西海岸のレースプログラムも結果的に中止となり、宮古氏はトヨタへの移管交渉、最終的には当時、米国日産と東海岸のボブ・シャープとのプログラムをよそに、日本の日産とBREで進める提案に大きなフィクサーを果たし、日本側の日産と米国BREのコンビは1970 年前半に米国トランザムレースで3年連続チャンピオンの伝説を創ることになりました。
実はこの一連の話しは、1990年の半ば、ご健在だった宮古氏からご自宅で二度に渡りお時間をいただきした。今では、実に懐かしい、また貴重な時間でありました。以下は氏のご努力の成果の一部であります。最終的には日産の510とZではありますが正に「レースはクルマを売る」を証明しました。
- 積極的に参加、内外の自動車レースへ:宮古氏自らの見識でクルマにとってモータースポーツが如何に重要かを文化を含めて解説しています。また、ラリー、サーキット、さらにフォーミュラカーが何であるかを説いている。言わば、ここに述べられていることがその後の日野自動車のモータースポーツ展開となっています。正に氏自らの英国生活をもってのバイブルであります。
- 第1回日本グランプリ自動車レース:日本で初めて開催されたグランプリ・レースに於いて、日野コンテッサの活躍を詳細に報告したものです。
- コンテツサ900 全米各地で大活躍:日野自動車はロバート・ダンハム氏を起用して、第1回日本グランプリ自動車レースのグランプリ・コンテッサ(コンテッサ1000GT:通称)をロサンジェルスに持ち込んで、盛り上がり始めた週末の小型車のクラブ・レース(当時のCalifornia Sports Car Clubなど)に出走させました。その第一報です。
- コンテッサ900 カリフォルニア転戦記:その後も南カリフォルニアを中心とした成果を大々的に社内に報告しています。南カリフォルニアの欧州の小型スポーツを中心の盛り上がる中にコンテッサ900も居た訳で、正にSCCAなどのセダンレースの発展を通して地元のモータースポーツ・ファンと黎明期に日野自動車は米国進出を焦点に於いていたことと推測します。
- ハッピー・バァレー・ドライビングテストに日野コンテッサ1300優勝:当時のキプロスの日野の代理店(現在は、A. Tricomitis ltdtと分析)のオーナー自らトライアル参戦の成果です。正に体を張ってのセールスです。なぜならば、「レースはクルマを売る」と言うことです。
- 日野プロト 緒戦を飾る:日野自動車の技術の成果であるYE28エンジン(ツイン・プラグ&ツイン・カム純競技用エンジン)を搭載したJ494こと日野プロトが2台、8月14日(1966年)の富士の全日本レーシングドライバー選手権第3戦に出場、山西選手のJ494がクラス優勝しました。1967年の日本グランプリへと社内の体制にも大いなる追い風になったと分析しています。
- コンテッサ1300クーぺ - 驚異の逆転勝:上記の富士のレースと同じ8月14日、米国南カリフォルニアのリヴァーサイド・インターナショナル・レースウェイ(Riverside International Raceway)での6時間耐久レースでコンテッサ・クーペは死闘を演じていました。転倒・大破したものの生き返り、最終的にチェッカーを受けました。その顛末記をピート・プロックボプ・ダンハムが寄稿しています。見事な日本語分は思い入れの入った宮古氏のものだそうです。
- またも”サムライ”の偉業、宿敵ミニ・クーパーを打倒:そしてコンテッサ・クーペでの西海岸レースの成果が見事に花咲いたのがこの10月30日(1966年)の由緒あるSCCAのタイムズ・グランプリ(Los Angeles Times Grand Prix)です(リヴァーサイド・インターナショナル・レースウェイ)。前座レースであるものの、レースはレース、コンテッサ1000GT時代からの宿敵、ミニを蹴散らして、チェッカーを受けました。ここでもピート・プロックボプ・ダンハムが寄稿しています。読み応えのある日本語訳です。
- 「サムライ・クーぺ」新春第一戦を飾る:そして成果を得たサムライクーペは日本の戻り、年明けて1月15日(1967年)の第ー回全日本スポーツカーレースでここでもミニをもろともせず、あるいはブルーバードSSと接戦して、タイムズGPの勢いを駆ってここでもチェッカーを受けました。
- 第ー回(67年)全日本スポーツカーレース、コンテッサクーぺ クラス優勝:3月19日(1967年)の全日本スポーツカーレース船橋大会では山西選手がホンダS600やミニを押さえてツーリングーIクラスの優勝となりました。因にスポーックラスで優勝の真田 睦明選手のカネボウ・ダンディ・スペシャルは日野のYE28に換えてトヨタのV8を搭載した日野プロトの生まれ変わりです。左ハンドルだったようなのでおそらく前年富士に優勝した山西選手用の個体と分析します。さらにそれは右ハンドルだった日野製とそうでない塩沢商工製があったプロトの後者(出来の良かった)の方と推測するものです。
- コンテッサ1300 フィリピンルソン島1周耐久ラリーで優勝:当時のキプロスの日野の代理店(現在は、A. Tricomitis ltdtと分析)のオーナー自らの参戦の成果です。
- 日野コンテッサ1300クーペ キプロス・スプリングシールドレースで優勝:これはあまりデータ(少々の写真が残るのみ(がないのですが、いずれに優勝は優勝です。
(文責:江澤 智、2013/05/25)
(Updated 2019.8.10)
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