(IN WORKING)
【1号車:右ハンドル】
完成直後、早速1965年3月5日社内展示会、ここでは右には研究開発用に購入したクーパーFⅢ、さらにのクーパーを基に製作したデルマークⅢの一号車が比較展示されました。
1965年6月:1号車、日本自動車研究所 (JARI、茨城県谷田部) で最高速度200km/hを記録したそうです。
初めての高速試験でしょうか?バンク下のショットであり、後部のウインドウが無くなっています。高速時のボデー境界面の内外のプレッシャーの差によるもとの分析します。ボデー内部の圧力が高まることへの対策が未熟であったのでしょう。
この1号車は1966年末、最終的に廃棄処分となった。
【2号車:右ハンドル】
デル・レーシングモーターカンパニーに製作委託されました。1965年6月末の完成予定は1966年1月にずれ込んだようです。テストが目的だった個体でした。設計・技術を主体とする日野自動車の技術陣とプロドライバーを主体とするデル・レーシングの間にレーシングカー製作の大きな違いがり、帰納法的に展開する日野は演繹法的なデル・レーシング製作の個体に大きく学びものがあったようです。この2号車は、1966年10月のトヨタとの提携発表後、競技車両開発の道が絶たれ、1966年末、最終的にパワーユニット無しの状態でデル・レーシングに支給となりました。
【3号車:右ハンドル】
1965年9~10月、輸入部品 (Cooperの部品と分析) 遅れるも完成しました。1966年4月にかけて姉妹である4号車と共にエンジンと共にテストに供されました。1966年末、最終的に廃棄処分となった。
【4号車:右ハンドル】
1965年10月完成、基本的に3号車と同一仕様、テスト・走行結果が反映されました。その後、1965年10月28日〜11月11日、第12回東京モーターショーに「日野コンテッサGTプロト」として出展されました。
このショーのホイール (Cooper Car Company製) のリムが綺麗にポリッシされていることに注意、日野自動車はこの時代からこのような文化があり、レーシングカーとしてイキを理解していたようです。
この4号車は、1966年末、最終的にパワーユニット、リアサス、コントロール関係など無しの状態でデル・レーシングに支給となりました。
以上の4号車までが所謂、「日野GTP」あるいは「日野GTプロト」(第12回東京モーターショーでは限定的に「日野コンテッサGTプロト」と呼ばれる) と言われるもので、この後のの5号車以降は本命となる「日野プロト」と言われるものになる。
以下の可能な限りの画像を紹介します。
GTP、1号車完成 (1965年3月)
GTP、1号車 社内展示会 (1965年3月)
GTP、1号車 日本自動車研究所 (JARI) 試験走行 (~1965年6月)
GTP、3号車 (1965年)
GTP、4号車 第12回 東京モーターショー (1965年10月)
(Updated, 2018.10.8)
(Added Text, 2019.12.11)
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