ピート・ブロック (Wiki - Pete Brock) さんについて、知っておられる方は何の説明もいらないが、参考のために書くと、我々コンテッサ愛好者の為に大きな出来事は、サムライプロト(THE HINO SAMURAI)でしょう。そう、1967年の第4回日本グランプリに日野コンテッサ1300のGR100 OHV エンジンを搭載して参加したクルマである。当サイトオーナー自信、この興味ある事実を調べたり、また、ピートさん本人とお会いしたりして、あまり我々に知られていない物語をボクなりにリポートして見ましょう。
今まで、どんなクルマをピートさんがデザインしたかに触れて見ましょう。ピートさん自身、ロスのアートスクールを卒業した直後、誰もそうするようにデトロイト,そしてGMに入り、最初(そして最後、GMにおいて)コーベッツのデザインでした。そして、その後、GMを離れ、シェルビーアメリカンに行き、最初にデザインしたのがKing Cobra (Cooper Type 61ベース) であったり、Lang Cooperだったようです。外観はザット以下のようです。
そして、その後有名なのはデイトナクーペで (Shelby Dytone Coupe) でしょう。デイトナクーペは、ルマンで活躍したり、その1台は、日本に来て、NACより参加し、同じように暴れまわった様です。デイトナクーペは、全部で6台製作され、一番出来の悪かった3号車か4号車か知らないが、それが結果的にレースで一番成績が良かったとか。人間の世界のようでもあります。そして、日本にあったデイトナクーペは、その後、いろいろのオーナーを転々とし、アメリカ人に買い戻され、レストアもなされました。何とUS$70万(1億7500万円)で買う人がいたようで (1970年後半) 、クラシックカーの価格のレコードを創ったそうです。ピートさん曰く、今は、ピート・ブロックと長つけば、高く売れるので投資によいという始末!デイトナクーペと前後して作ったクルマが、Gia-de Tomaso (De Tomaso P70) です。これはわれわれのとって興味深いものです。外観は以下のようです。
上図で解るように、この時点でサムライの原形は出来ていたのです。オープンであることを除けば殆ど、全くそっくりで、リアのエヤフォイルは、サムライ同様、リモートコントロルです。このクルマは、イタリアで作られ、1台だけで終わったそうです。その後、残りのシャシーが、デトマソマングタになったそうです。この実車自体は、個人的なレースに使用され、クラッシュしてしまい、今は″土″の中に入ってしまったとか、二度と目にすることの出来ないクルマと思いきや(註:この言い方は1970年台後半のピートさんの証言に基ずいたものであり、最近のネットの情報では相違がある) 、何と健在、あるいは週空がなされたのでしょうか。
そして、ピートさんは、シェルビーで最後のデザインをすることになります。それは、スーパーコブラ(Shelby Cobra Daytona Super Coupe)である。製作はイギリスで行われました。そのころ、シェルビーは、コブラより、GT40のプロジェクトに集中し、結局、スーパーコブラは未完のまま、終りました。その後、長い間、ひっそりと息をひそめていたが、70年代の終り、ある愛好家の手により、何と完成したのです。もちろん、レストア、いや、プロダクション(?)に、ピートさんは多くの助言を与えたとのことです。デザイン自体は、デイトナコブラの延長線であり、よりマッシブにしたもので、以下のようです。
オリジナルのデイトナより、さらにグラマラスになり、コックピットの天井はウインドウになっている。なぜだろう?
その後、ピートさんは独立し、ブロックエンタープライズ(所謂、BRE)を設立し、日野自動車とジョイントも始まります。65年当時、最初はコンテッサ900によりレース活動を進めています。ヒルクライムなどを含め、マアマア、かなりの戦歴を残しました。ピートさん自身、1300よりも900のほうが気に入っているようです。900には、大きな日の丸が描かれている。ホンダF1同様、ナショナルカラーをデザインしていました。
1300は1966年のL.A. タイムズグランプリの前座レース「Valovoline Centennial Sedan Race」でクラスウイナーを得ました。このコンテッサ1300のレース活動と並行して日野と共同で進めていたのが、前述のサムライプロトでした。当初は、1966年のモーターショウに出展する予定であったとのことです。このクルマはあまりにも有名であるのでそのスタイルは知らぬ人はいないでしょう。
日本グランプリは結果的に出場不可となりましたが、その後、カリフォルニアに戻り、しばらく活動してなかったが、71年に何と、さる愛好家の手により、LAタイムズグランプリに出場しています。その時点では、オリジナルのオレンジではなく、白のアメリカンカラーになっていました。このころは、後述の様にピートさんはBREとして、日本の日産とレース活動を進めるに至りました。
そしてサムライは日本に来た時のように市販の日野コンテッサのOHVではなく(OHVは日本に残留)、コンセプトとしてのオリジナルの競技用DOHCの搭載に至りました。実はプライベータの4番目のオーナーが試行錯誤の結果施したものです。そのオーナーは米国南東部に移り、レース活動を続け、3年、50戦近く、多くのオーバーオールのウイナーとして活躍しました。
さて、ピートさんはサムライ製作後、立て続けにいろいろなクルマをデザイン&政策しています。その1つは、トライアンフの部品によるTR-250Kです。因みに、ウインドウグラスは、サムライ製作時のスペアパーツでした。このクルマは、今、レストアされ、サンフランシスコの愛好家の手の元にあります(註:2004年時点では更にオーナーが変わり,ワシントン州へと)。以下は製作当時のものです。
このクルマは、サムライのようにプロフェッショナルにより作られてなかったようで、中味のシャシーは、パイプのジャングルの様で面白い。初期のバギーカーの様です。
そして、この前後と思われるがピートさんは、何とトヨタのためにクルマをデザイン&制作しています。当初は、ロータリーを入れて、売るためにデザインしたようだが、その後、トヨタニュー7としてデビューするようだったと言っています。ピートさんによればJ6 (JP6) という名です。パワーユニットはトヨタ2000GT,トレバー・ハリスさんによる足回りは非常にトリッキーな構造だったようです。以下のオリジナルのコンセプトと思われます。
このクルマは1台だけ作られ、トヨタに納入された。しかし、何故かトヨタは公表してない。何故だろうか?ピートさんに言わせれば、このクルマこそ最も気に入っているクルマで、出来ればレストアしてみたいそうである。このクルマの型(モールド)は、その後、ある会社に売られた。その会社では、キットカーとしてVWベースで販売しようと試みたが、全く実現せずに至っている。ただ、VWベースで作られた(トヨタに納入したものと全く別物のシャシー、ボデーのデザインは同じ)1台は、ハリウッドの映画に使われ、今は、LAに置き場所もままならずの状態。買い取る人がいたら売るそうです (1984年当時。すでに売却済み) 。
ピートさんはその後、日産とジョインし活動を行いZカーによる2年連続チャムピォンとなりました。Zカーは米国日産と組んだボブシャープで有名だが、オリジナルは日本側の日産と組んだピート・ブロックさんだったのです。ピートさんがZカーをレースにより有名にした後、ボブシャープ側が、浮上しただけのようです。最初、ピートさんは、510レース活動をベースに様々のキットを販売し、その後、レース活動をしました。この510のブルは、ピート・ブロックのレモンイエロー510として有名でモデルカーまでになっています。また、今でも、ヒストリックカーにBREナンバーを掲げて登場しています。また、レーシングカラーは、以下のようです。
上は、Zカーであるが、ルーフボンネットが赤、サイドの2本のストライプは、オープンフェアレデイで始めた時にデザインされたもので、次の510もまったく同じデザインであった。つまりBREカラーであった。十数年たった今でも、ストリートカーにこのカラーリングで走っているダッツァンを見ることができる。大したものである。
ピートさんは、ダッツァンと何らかの問題でカービジネスを去ることになります。その後、ハングライダーのベンチャーを設立し、UP (History - UP International) として有名です。彼の作ったハングライダーはクルマと同様、何年もチャンピォンをとっていることは有名な事実です。そして、さらにモーターグライダーに発展し、今日に至っている (1970年後半当時) 。この話も面白いが長くなるので別の機会としたい。
さて、ピートさんは、2年ほど前 (1970年後半当時) より再びクルマ作りを開始しました。来年あたり、フォードより発表される筈。それは、シェルビーのコブラ同様、200台/年程度のスペシャリカーだそうです。現在、クレイモデルその他が作られており、デザイン的には、ホボ完成いに近ずいているようです。形状は、ディトナクーペをさらにリファインして、コーベッツのような最新型をミックスしたようなものであるといえよう。いずれにしろ、″ピート・ブロック″ のデザインであることは、間違いなく強調されています。また、シャシーなどにも最新テクノロジーを採用しています。発表されたら若干あるウラ話をリポートしましょう。
(註)本ページの記述は1985年当時です。
改編後記
本文面は上記のように1985年に綴ったものです。当時の日野コンテッサクラブの会報PD誌への寄稿でした。改めてみると間違えた解釈もありました。また当時はネットもない時代で情報は自分の足と米国の古本屋での旧い雑誌などが全てでした。これらに登場するクルマたちはその後も進展してそのすべてが今でも当時以上に健在であるlことです。ピートさんも当時から半世紀近くを経てますが今持ってご健在であることは一人のファンとして嬉しく思います。ご自身のBRE (Brock Racing Enterprises) の経営をはじめ、最新号のHISTRIC RACING Technolog (以下の画像参照) や Hemmings Dailyの “Archive for the ‘Peter Brock’ tag” にみるように多忙を極めているようです。(2018.6.15 江澤)
以下は、ピート・ブロックさんの偉業に敬意を表して、当時の自動車誌の表紙を飾ったピートさんのクルマ達です:
【1965.4 Sport Car Graphic誌, LANG Cooper】
【1966.3 ROAD&TRACK誌, GHIA-DE-TOMASO】
【1966.2 Sport Car Graphic誌, MIRAGE】
【1967.11 ROAD&TRACK誌, THE SAMURAI】
【1968.4 CAR and DRIVER誌, TR-250K】
【1970.11 ROAD&TRACK誌, Datsun 240Z】
(SE, 1985.1.1, Original)
(Updated, 2018.10.3)
(Added, 2021.7.5)
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