日野コンテッサ1300に至る
日野自動車の系譜:
エンスーの目から

瓦斯電の起源

 東京瓦斯工業として1910年(明治43年)に創業。当時の瓦斯燈火の良質の絹マントルを製造。(参考:新聞記事文庫:大阪毎日新聞 1919.3.31(大正8年)、東京瓦斯電気工業)

 航研機(航空研究所試作長距離機):東京瓦斯電気時代の1932年、基本設計が東京大学航空研究所で開始、純粋な研究目的故、製造の引受けてにあまねく中、瓦斯電は航空機製造設計・製造の経験ある星子 勇らが中心になり、機体製造の主担当を引受けた (参考:日本製航空機の一覧) 。1936年に11,651kmの世界航続距離記録を樹立した。(写真は羽田沖)

瓦技術導入:大衆車を造る!

ルノー公団との提携 (1953年2月)

 フランス、ルノー公団(現在のルノー社)との提携(1953年2月)、当時、政府の政策の下に各社は海外メーカーと提携した。日野はフランスのルノー公団を選択した。それは星子 勇(後述)の大衆車の夢を現実にする始まりだった。

ルノー4CVの国産化 (1953年)

 ルノー4CVの国産化:1953年に始まったノックダウン生産も国産化率を上げ、同時に日本の市場や道路事情に合わせて独自の多くの改善が施された。

 日野ルノー4CV (PA) として。10年に渡って生産され,1963年に実質的な生産に終止符を打った。この間、34,853台生産された。

自社開発車とその展開 (コピーからクリエーションへ)

日野コンマース (1960年2月)

 無我夢中の中での市場の先取りをした日本初のミニバンだった。しかもFF駆動である。型の簡略化のために平面を多用 (コンクリートモールドを使用) したが、シンプルの中に機能美を感じさせる。相当数が海外に旅立った。

 等速ジョイントのまだ実用化されてなかった時代の日野コンマース (PB) は、2,344台の生産、1962年生産打切りとなった。東南アジアを中心に輸出も多くあった。

日野コンテッサ900 (1961年4月)

 日野コンテッサ900生産開始(1961年4月):ルノ-4CVでの技術習得を期を熟し、いよいよ自社の技術を織り込んだ将来への発展に向けた「ルノーとの決別」とも言える瞬間である。

 日野コンテッサ900(PC)は、47,299台の生産、輸出は、香港、東南アジア、オセアニア、中近東、また南アフリカに広がった!

GR100型エンジン (1964年9月)

 GR100型エンジン:900のGP型はルノーそのものだった。ルノーとの知的資産問題とともにおぼろげんがら日野独自の技術開発を目指した。

 当時としては斬新なアイデアが込められたが、コンテッサやブリスカなどの市場規模が小さかったため8万機程度の生産であり、他社の小型エンジンの生産規模に遠く及ばず、改善を含む進展もなく、市場から撤退し、その評価は難しい。

日野コンテッサ1300生産&販売開始 (1964年秋)

 日野コンテッサ1300生産&デリバリー開始 (1964年秋):専用積載車(TH80ベース)でデリバリーされた(1966年7月撮影)。

 当時のメルセデスにも似た車両があったと思う。下記のピーター・ブロックも「メルセデスのようにジーゼル大型トラックと高級乗用車を狙っていたことに共感」と言う弁をこの写真を見ると思い起こす。

日野最後のガソリンエンジン:YE28a

 YE28aエンジン(競技用):事実上、日野最後のガソリンエンジン。1967年シーズンの日野プロトに向けての研究開発。この最終機は身を研ぎすましたクランクダイレクトの発電機&ウォーターポンプ、マグネシウムのオイルパンだった。

海外展開:夢の実践!

コンテッサ、世界各地へ

 ニュージーランドでのKD生産、欧州向けにオランダでの工場建設に向かった。また、イスラエルでの生産が勧められた。台湾、オセアニア、中近東、欧州(北欧含む)、そして中南米へと、1962年から1969年までに、コンマース、コンテッサ900/1300、そしてブリスカ900/1300が16,799台輸出(1300のKD生産含む)された。極く少数ながら今日でも世界各地で愛好家が所有する。

欧州:エレガンスコンクール

 欧州のエレガンスコンクールで1965-67年に名誉大賞を得た。特にコンテッサクーペは4度受賞した (セダンは3回受賞) 。

 画像は、1966年、ベルギー、西フランダース州のクノッケ (Knokke) でのエレガンスコンクールの日野コンテッサクーペの名誉大賞の賞状。

米国:小型セダンレース

 米国カリフォルニア州ロサンジェルスで「チームサムライ」を結成:1966年初頭、対米輸出を前提と技術熟成とためにデイトナコブラなどデザインしたピーター・ブロックを起用して、米国西海岸での日野レーシングチームが誕生した。クルマを売る前に現地のクルマ文化に解け込むものだった。日野コンテッサ1300は、当時の小型セダンレースの発展とともに歩んでいた。

素晴らしきカー・ガイ達

星子 勇氏:星子イズムの原点、1917年に瓦斯電気工業自動車部設立時に入社、戦前から日本の大衆車製造に提唱していた。2010年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り):日本の自動車産業の基礎を確立。
 航空工学を学んだ星子氏は、欧米を歩き回り航空産業並びに自動車産業の発展を肌で吸収した。その後、瓦斯電気工業に招聘された。
 日本が近代国家になるためには、自動車工業の必要性を説き、瓦斯電気工業に於いては、金持ちを相手したクルマではなく、中産階級向けの小型乗用車の量産が念願だった。
 2010年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り):日本の自動車産業の基礎を確立。
家本 潔氏:星子イズムを肌で継承、戦後の日本の自動車産業発展の最前線で活曜。日野の全てのクルマの設計&生産現場で陣頭指揮&決断を行う。
  家本氏(コンテッサ時、専務取締役)は星子イズムを肌を持って継承し、戦後の日本自動車産業の復を担い、日野で大型車開発と共にルノーの技術取得&生産技術にと走した。
 現場で製造の要素技術開発&実装から、日野コンマースや日野コンテッサ900のデザインに自身からデザイナー達と共に粘土に手を入れた。
 そして日野コンテッサ1300撤退決断は氏にとって、また社員にとって、正に断腸の思いとなった。
内田 一郎氏:コンテッサをはじめとし、日野全車種を自らの責で精力的に世界に売り歩いた。またコンテッサの命名者でもあった。氏は、生涯”赤”のアルフェスタであったと伝え聞く。
 内田氏は自ら命名のコンテッサを「輸出できる車こそ良い車」、「自由化こそ輸出伸長のチャンス」と世界を駆け回った。
 コンテッサ900をタイに1,000台契約販売と行く先々で日野車を売り歩き、各国でKD生産も勢力的に進めた。
 また日本アルペンラリー(第一回&ニ回)自ら夫妻での参戦を含み、スポーツカーの造詣が深く、コンテッサ900スプリントをイタリアで製造し、欧州並びに米国で販売へと夢を膨らませた。
 その後、日野1300GT(スタイリングはコンテッサ900スプリント)をミケロッティ&アルピーヌをパートナーに完成させた(試作車により欧州での走行試験ならびに1966年10月のパリ・サロン出展)。エンジンもアルピーヌ製のGR100ベースのTOHCであった。
 これらはコンテッサ1300セダンの販売開始に先駆けて同時並行で開発を進めていた。
岩崎 三郎氏:日野自動車の前身の東京自動車工業に入社(1941年)、戦後の日野重工業でDS10型エンジン設計主任、その後、ルノー公団の技術習得と4CV国産化のために渡仏。以降は、小型車の日野コンマース、日野コンテッサ900&1300の開発に従事(自工会データより)
 フランス語を解する氏は、ルノー4CVの国産化のためにルノー公団に出向き、許可取得のフォロー、日本向きの改造提案、また日本側工場各部門への対応、そこで強度や重量のバランスを考慮した設計、加工、精度、また図面指図書などの重要性を認識。
 コンマース、コンテッサ&ブリスカ(900&1300)の基本計画をめる。コンマースのFFワンボックスは当時の市場では時期尚早で先取り過ぎた。
 コンテッサ1300でデザイン、市場先行ヒアリングで不評だったサイドの冷却インテークを後方吸入に変更など、ミケロッティ側との最終交渉を担った。(画像のコンテッサ900スプリントと共にする氏、その際のトリノショーにて)
 氏へのインタビューの際(1990年前半)、東京自動車工業に就職後、陸軍で肉薄突撃艇のプロジェクトに参画、その特攻兵器のエンジン含め動力部分全体の設計に従事、結果的にこの兵器で多くの若者の命を奪われることについて、深く悔い心を痛めていた。また、氏が薫陶を受けた日野自動車の日本を豊かにすると言う小型乗用車製造という社会を変えるビジョン、しかし開発現場は徐々に技術中心へと変化についても憂いの念を表していた。
宮古 忠氏:金融出身であるものの欧米のクルマ文化を肌で知り、日野の国内外のレース活動推進役。輸出のためのサファリや米国セダンレース参戦を実践。
 宮古氏は監査役と言う立場から世界にコンテッサを普及させるために、単にクルマの生産並びに輸出を進めるだけではなく、日野のビジネスを歴史ある欧米のクルマ本来の文化への融合を進めていた。
 レース委員長を務めモータースポーツに積極的に関り、エリック・カールソンなども巻き込みサファリ・ラリーを手始めに、国内競技はもちろん、米国では当時の先進的なデザイナーでもあったピーターブロック氏と手を結び、米国レースでの成功と販売を計画していた。
 当時、日本の中で国際ビジネス且つ国際レースの世界を知る、また実践をした 貴重な存在だった。
 さらに宮古氏は日野のレース撤退後はBRE (Brock Racing Enterprises) への恩義からトヨタ並びに日産への関係作りに多大な尽力をした。
 当時、米国日産はフェアレディのレース活動に東海岸のボブシャープと手を組んでいた。しかし目に見える結果を出していたかった。氏はBREを日本側の日産に紹介をしたのだ。
 結果的に、日本の日産から車両&レース部品を直接BREを送り、日本側の日産の支援をベースにBREは多くのコンペティター(当初は米国日産並びにボブシャープを含む)を相手にした。それはフェアレディ、510、そして2カーへの 伝説を創ることになったのだ。
 氏なくしてはBREの日産の戦歴は創られなかったと言ってよいし、これほどまでのZカーの伝説は無かったと言っても過言ではないと思う。
 もう一つ、付け加えれば、300ZX時代(1980年後半から1990年前半)のレース活動にもこのBREのDNAが明確な形で継承されているを忘れてはならない。
鈴木 孝氏:ルノー国産化以来、日野のエンジン(ジーゼル含む)の設計を陣頭指揮。チームサムライでレース現場を歩く。また文才は多くの著書を発刊。2011年日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り):自動車用エンジンの先進技術の開拓と先導。
 鈴木氏はコンテッサ1300のためにルノーエンジンからの決別をし、国産エンジン技術確立のためにGR100エンジンの新設計に挑戦した。
 またチームサムライの一員となり、特に米国での競技用エンジン開発を通して、日本側の市販コンテッサへのフィードバックへと貢献していた。
 コンテッサ撤退後は、ジーゼルエンジンの新技術開発に傾注し、世界の第一人者となった。
 2011年 日本自動車殿堂・殿堂者(殿堂入り):自動車用エンジンの先進技術の開拓と主導。

 記述の皆さんの多くは、モノづくりのハード面のQCD(品質/コスト/納期)やクルマを単に販売するだけでなく、モータリングの本来の楽しみなどソフトウエア面を熟知していた日本の自動車産業では数少ない世界レベルの「カー・ガイ」達であったのです。尚、上記のYE28エンジンやシャシーの現場の設計技術者は日野がコンテッサ撤退後 (あるいはかなり以前に) 、ホンダ社に移籍、後のホンダのF1や水冷4気筒の開発へと、日野のYE28とホンダ1300のボア*ストローク比の考え方やPCD120のホイールは一致する。単なる偶然と考えるべきではないと考えるべきで、そこには人々の魂が脈々と流れているのです!

THE HINO SAMURAI – ミュールーズ国立自動車博物

 Musée National de l’Automobile – Collection Schlumpfにて。200台ものブガッティの実車展示は有名だ。ミニカーの展示では歴史的に世界の名だたるクルマが鎮座する。その中に何と2台もの日野サムライプロト(伊ポーリトイ製)があった。ここにも日野コンテッサの文化は生きていた!

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