毎年、9月末になると、気になることがあります。書ける内にここに公の記録に残しておきましょう。
日野コンテッサ1300のスタイリング (インテリア含め) &ボデー設計 及びプロト (コンテッサ900のシャシーベース) 製作は、コンテッサ900の設計完了直後の1960年夏、イタリアのミケロッティ社 (Michelotti Studio) に打診&交渉し、進められました。それは第二次大戦後の日本の自動車産業衰退を復興すべく、フランスのルノー4CVのノックダウン生産&完全国産化を進め、その結果生まれたコンテッサ900、さらに進化させた初めての純国産であり、日本の経済発展を担うべき「輸出適格車」という十字架を背負う運命でした。
日野自動車はコンテッサ1300の国内販売を1964年9月1日 (昭和39年) に開始し、その2ヶ月後の11月2日が第11回東京モーターショーでミケロッティ氏デザインのトリネーゼデザイン (イタリア風デザイン) として技術の先進さと共に発表しました。それにかなり先行して、「輸出適格車」のコンテッサ1300は、フランスはパリで自動車専門のコンサルタントを使い、フランスを初め欧州でのデビューを目論んでいました。その指揮を取られていたのが、当時の役員であった内田一郎さんでした。自ら名付けた「コンテッサ」、そして「輸出適格車」構想の生みの親でした。
その最初のイベントが1964年10月1~11日の世界でもっとも有名な第51回パリ・モーターショー (Paris Motor Show 1964、所謂、パリ・サロン) でした。その後、コンテッサ1300の出展は1966年まで継続し、様々なコンテッサ1300 (将来を担うスポーツカー:コンテッサ1300スプリント含め)を展示しました。
このパリ・モーターショー は展示だけにとどまらず、事前に様々な試乗会やプレス&アナリスト・イベントがパッケージングされています。日野自動車も忠実にそれに従い、二つの事前イベントを行いました。その一つがパリ郊外 Autodrome de Linas-Montlhery (wiki、モンレリーサーキット) での試乗会、もう一つがプレス&アナリスト向けカンファレンスでした。言わば、自動車文化の社交の場です。
モンレリーサーキットでの試乗会には、フランスの元F1ドライバーのモーリス・トランティニアン (Maurice Bienvenu Jean Paul Trintignant、実に長い!) さんもその一人でした。高速性能、操縦性能、加速性能など氏からも高い評価を得たと当時の文面があります。
そしてプレス&アナリスト・カンファレンス、パリ・モーターショーの直前の9月25日 (金曜日) 、ブローニュの森の超高級レストラン「レ・プレ・カトラン (Restaurant gastronomique étoilé Le Pré Catelan à Paris) 」で午後6~9時に開催されました。そこには、フランス自動車技術協会の会長、バレ氏をはじめ、パリを中心に欧州の自動車専門家が正確な数はまだ把握出来ませんが数十名招待されました。コンテッサ1300の先祖のルノーの関係者にも招待状は送られました。また、コンテッサの屋外に展示されました。
以下はレ・プレ・カトランでの当日の貴重なオリジナル・プログラムです。実はパリの古本屋で入手したものです (2000年当時) 。
そして、本番、第51回パリ・モーターショー、場所は、Parc des Expositions de Villepinte (パリ エクスポ ポルト ド ヴェルサイユ) 、2台のコンテッサ・セダンを展示、会場は今も健在のようです。当時の雰囲気は、1964 Paris Motor Show PARC DES EXPOSITIONS, PARIS の画像で垣間見ことができます。日野自動車のブースは以下の間取り図 (右下) で判明できます。画像の右手前でしょうか?残念ながら実際はわかりません。
歴史的には以上のようなものです。
2011年7月、ビジネス上のパリでのカンファレンスで出張の機会がありました。このブローニュの森の超高級レストラン「レ・プレ・カトラン」がどのようなものか、ただただ見てみたいと思いました。
パリのオペラ地区から地下鉄とバスを乗り継ぎ、ブローニュの森を歩き、目的の「レ・プレ・カトラン」は広大な敷地の中に静寂と共にありました。エントランスを抜け中に入り、係の方にお聞きするとここの設備はレストランとカンファレンス・センターがあり、おそらくコンテッサ1300セダンの発表はこのカンファレンス・センターで実施されたものと思います。
半世紀以上も前に、ここで発表のコンテッサ1300セダンが欧州を走る回ることを夢ではなく現実のものにしようとした日野の当時の事業責任者であった社長の松方 正信氏、コンテッサの名付け親でこのコンテッサ1300を自ら世界に売り歩けねばならない十字架を背負った内田 一郎氏 (素晴らしきカー・ガイ達) が熱弁をふるったかと思うと感慨深いものがありました。
以下の写真はその場のプレスキットの一部のパリの仮ナンバー「3047 WW75」をつけたコンテッサ1300セダンです。その背景はもちろん「ブローニュの森」でした。今回、この場所を特定しようと試みましたがそれは無理からぬものでした。
上述のレ・プレ・カトランでの当日のオリジナル・プログラム、内容的は日本からのプレミアカー、日野コンテッサ、フランスに到着、それを祝いましょう...なんて感じかと思います。文面、構成、そしてデザインはやはりフランス人の専門家を活用した結果であり、ジャパニーズを強調したシンプル且つインパクトある簡素な表現と見受けます。
このパリ、ブローニュの森の後、恒例の古本屋に出向きました。ドアを開けると当方を記憶いただいているようで、すぐに半年前に入ったという日野の写真を持ち出してきました。
それらの写真 (中央のコンテッサ1300を除く) は、ルノー4CVのノックダウン生産を開始した当時の日野の工場内部を個人が撮影したものです。写真の裏にはフランス語の手書きメモがあり、撮影は1955年12月7日とあります。撮影の主を分析すれば、当時、ノックダウンのためにルノー本社から派遣され、長く日野に常駐した技術者、Aime Jardon氏となりました。
氏は、晩年、日野とルノーの関係についての数百ページに及ぶ論文 (Loïc LE MAUFF L’aventure de Renault au Japon dans les années Cinquante. Alain PLESSIS) に協力しております。このペーパーは、日野小型車史を研究するものにとっては最高レベルの資料であります。日本人の創造性なども言及されており、「日本人は一度、教えれば、すぐに理解する、しかし、それを自ら創造したように勘違いする」と、本質をついたような記述が多く見られます。
以上です。パリには半世紀も前の日野コンテッサの痕跡が散らばっているようです。さて、この1964年秋のパリ進出、その後がどうなったのでしょうか? (続く)