電報によって既にご承知の通り、リヴァサイド・グランプリのセダンレースにおいて日野コンテッサクーぺはクラスCのトロフィーを獲得した。これは私違にとって本当に素晴しい勝利だった。当地で最も快速といわれる車がすべてこのレースに集ったばかりでなく、私達の属するクラスCがその中でも最大の激戦を展開し、競技場のレースアナウンサーは全レースを通してこのCクラスの接戦以外ほとんど何もしやべらなかった由である。あとになって、人々訓はロ々に冗談をいった。「アナゥンサーがあまりにも日野コンテッサばかりレース中繰り込し言い続けるので、君達がいくらかアナウンサーに金をやったのではないかと思ったくらいだ」と。
ピート・プロック記
公式予選では私の車は若干オーバーヒートをおこしてしまい、三台のミニ・クーパー(ボブ,ウェスト、ライエル博士、テッド・ブロック)に次いで第四位だった。
レース本番のスタートでほ、まず下手なスタートをきったボブ・ウェストのミ二を抜き、すぐさまドクター・ライエルとテッド・ブロックの真赤な2台のミニとの烈しい戦闘に突入した。私はこれまで公式練習や予選で一度も彼等と一緒に走ったことがなく、トラックで彼等の車がどの位のスピードが出せるのか試してみるチャンスがなかったのて、当初は様子をうかがった。しかし、一周、二周と過ざても彼等は私を引き離す様子が見えない。そこで私はどうやって彼等を抜いてやろうかと考え始めた。加速の点ではミニは私よりほんの僅か速いように思われたが、一方日野クーペは既にこれまでの開発によって実に素晴しいロードホールディング能力を持っており、このため彼等よりも遥かに深くコーナ-に突込んで、しかも全然走行ラインを外れることなく彼等より先にコーナーから抜け出ることが出来るのだ。レース前半では1/2マイルに及ぶ直線コースへ出てくると彼等は依然として私に先行し、私は車の後方気流の陰にかくれて彼等にくっついていった。
しかし、レースか進むにつれ事態がしだいに私違に有利に展開しはしめたと感した。コーナーで彼等を追抜いたあと、彼等が再びもとの地位を取戻すのにだんだんと時間がかかるようになって来たからだ。そこて私は、彼竿にぐっと接近L、一つ一つのコーナーで彼等をアウトブレーキすることをやり始め、先ずドクター・ライエルのミニを相当引離した。もっとも、彼はその後も常に5-6車身後について来て、私かちょっとてもミスをすれば私の位置を奪おうと虎視たんたんとしていた。
一周に三度も首位の攻防 - 追従許さぬコーナーリング
デッド・ブロックのミニクーパーとの烈しい死闘はレースも半ばを過ぎる頃から開始された。互いに幾度となくリードをとり合い、あるときは一周のうち二一度も首位がかわったのである。テッド,ブロックのミニは私より僅かに早い加速をもっていたものの、私を引離すだけの力はなかった。私の日野クーペの彼に勝る優秀なブレーキングパワーとコーナリングパワーは、いつでもコースのどこかで私を彼と同しベースまで戻してしまってくれた。
テッド・ブロックは、なんとかして私をふりきろうと彼の知るかぎののあちゆる技術をつくした。おかげで私は彼から若干のトリックを学びとることさえできたのだ。
彼はもとより本年度のレースで、クラスCで毎回優勝をなしとげてきた。きわめて優秀なドライバーである。とくに彼は他の車の後方気流を利用するテクニックが実にみごとだった。すなわち、直線コースを走るさいに、他の速い車によっ作りだされる吸込み気流を利用して、引き綱につかまって走るような形をとるとはきわめて有利な走りかたである。
問題は、自分より大きな車が加速をかけて走りだす瞬問に、その後にすばやくすベリこむだけの十分な速度が必要なことだ。ところが彼は、私か知やなかったこれをやるコツを心得ており、私はこれでレース運びのコツについて、いまひとつ新しい知識を得たわけだ。
レース終了まであと4周というところで、私はテッド・ブロックに50m近くの差をっけ、形勢は全く私に有利と思われた。そのとたんにトラブルが生じたのである。
第6コーナーを出るところで、ルノーゴルティーニか衝突しレッカー車と救急車がコースに入ったのて、各ボストの黄い旗が一勢に振られ始めたのだ。救急車などが立去った後も決勝点の所に黄色い旗か褐げられ迫越しは一切禁じられた。緊急車両のため速度は落さざるを得ず、また私の前には他の車がおり、追越し禁止である以上私は速度を上げる訳にはゆかない。この間にテッド・ブロックはそれまでに折角私が広げた差を見る見るせばめてしまった。そしてコース上の事故現場に近づくとテッド・ブックは速度を落として私から少し離れたかと思うと、事故現場を通り過ぎるや否や素早く加速して私を迫抜いた。現場から先は黄色の旗が出ていなかったのである。
私はこんなへマをやって再び敵に首位を与えてしまった自分の患かさにすっかり腹を立てた。そこで、しばらく水温計をチェックしながら走ったがまず大丈夫と思われたので、少し回転を上げて再びリードを奪い込そうと決意した。相手も同し考えをもっていたらしく、彼もまた水温計のレッドゾーンまで回転を上げようとしたらしい。。かくして決戦は開始された。
全レース通じ完壁な走行 - 一車身の差で勝利の栄冠
敵は車輪をわざとダートに入れ私めかけて砂利を飛ばし、そのため私は距離をとらねばならなかった。Lかし、私にとって有利な幾つかのコーナーかあり、私も敵を迫越すべくあらゆる努力を尽くした。私には最終カーブ、第9コーナーては私の方がぐっと有利なことがわかっていた。そこて私は、わざとこのカーブで出来る限り深く彼を迫い込んでやろうと思った。彼の車のサスペンションとタイヤとは到底私の車のようにうまく働かないと知っていたからだ。
そして事実は正にその通りだった。敵はあまりにも深く突込み過ぎて、私についてコーナーを廻り切れず、その間に私の車は見事に大地をかんでコーナーを抜け、立上りざま貴重な一車身のリードをとって優勝のゴールへ飛込んだのである。
私の日野クーぺは全レースを通じて実に完壁な走行ぶりだった。ゴール通過後のならし走行をしながら、私達の計画の第一年度によくもここまで来たものとっくづく思わざるを得なかった。思えば、今年の最初のレースでは私達は完走することさえ出来なかったのに、今やこの最後の、そして本年最大のレースに優勝するところまでこぎつけたのだ。今やこの車は十分な信頼性と勝れた楳縦性を備えるに至り、加えて誇り得る出力をも達成しつつあるのだ。
ボプ・ダンハム記
ピートの車が私の車より相当速いいことがわかったのて(予選タイムは、ピート2分34秒、ダンハム2分45秒)作戦作画としてきめたのは、まずレース当初にピートが兎になって猛然と飛出し、ミ二がこれを近いかけてオーパーランし、そのエンジンを吹とばすかリタイヤーするようにしむける。一方、私はあえて彼らに戦醐を桃まない範囲で出未るかざり速く走り、万一ピートがミニを負かそうとしてエンジンをやられてしまうようなことがあっても、私の方は少なくともレースが完走できるようにした。
慎重に上位をねらう作戦 - 信じられなかつた優勝
ピートは実にすばらしいスタートをきったが、私の車は4千回転以下の出力が弱いため、むしろよからぬスタートだった。この結果、ピートはたちまち先頭に飛出し、今年中われわれを苦しめ統けた3台の快速車ニとの烈しい戦闘に突入した。
私はルノーコルディニ、カルマンギヤ、2、3のDクラスの車、そしてダットサンブルーバードなどと共に、一団となって後統のグループを走っていた。最初の数ラップの問、私は無理にチャンスをねらってフェンダーをぶっけたりするよりも、むしろ後方にいて、他車を追いこすのは、Dクラスの車や若干のCクラスの車よりも、私のほうが碓実に早トッブスピードが出せる直線コースて試ることにした。
ボブ・ダンハムもピートの後方で活躍
全レー入を通して、私はついにピートの車を見ることができなかった。彼は3台のミニを向にまわして正に大変な戦いを統けていたからである。この20ラップのレースのほばなかばころ、私はようやく2、3台のCクラスのミニや若干のBクラスの車(一台のロータス、コルチナと一台のボルボ)を迫抜きにかかった。これらの車はレース開始早々にピートが迫いぬいてしまった車だった。その直後私は現在クラス4位、総合10位を走っていることを知らされた。同じくピットからピートが第2位につけているというサインを受け、彼がみごとな戦いをやっていることを知った。
それまでにわれわれを迫抜いた車は、2台の大きなムスタングとアルフアGTAなどだけであった。しかもミニの中の一台がオイルを吹出してピットインせねばならなくなったので、私はあと数ラッブを残すのみて、もはや4位は確実と知ったが、一方ピートがどのへんにいるのかは全然わからなかった。
最後ラッブになって、私はピートが1台のミニの直ぐ後について、私の後を走ってくるのをみた。いま1台の快速ミ二は若干後にさがってピートか先頭のミ二かがぶつかるか、エンジンをやられるかしたら労せずしてその位置に上ろうと待っているかのごとく思われた。
先頭のテッド・ブロックのミニは最後ラップの最終コーナーまで、2、3車身ピートに先きんじていたらしい。しかしピートはすばらしい速さでコーナー深く突込み、勝れたハンドルさばきによってこのカーブでミニを抜き、さらに立上りの加速でも彼をふりきって、5、6車身の差をつけてゴールに飛こんだものと思われる。
決勝点通過後のならしラップで、ピートが指を突出して一位の合図をしたとき、私にはそれが信じられなかった。
日野の旗にむらがる観衆 - 本年最後のレースを飾る
ピートは優勝し、ボブもまた二台のミニを抜いて4位に入った。これは本当に私達にとっても、日野にとっても素晴しい成績だった。ことに重要なことは、私達にとって本年最大のレースにおいて優勝したということであり、また30台をこえる各クラスの出走車の中で何台ものクラスAやクラスBの車すら抜いて、総合成績で6位と10位を占めたことであった。
リヴァサイドのレース終了後、どれほど多くの人々が私達のピットエリヤにやって来たか、そちらには想像もつかないだろうと思う。今まででさえ相当の関心の的となって来たのだが、今度という今度は私達のミニ・クーパー完全打倒によって実におびただしい人を集めてしまっのだ。競技場に狂喜し、彼等はパンサイ、バンサイと叫びながら私達のピットに駆け込んでた。もしも今後毎週末のレースで勝ち統けようものならどんなことになるかと思うほどである。また、集って来た群衆にとってそれは素晴しいながめだったろう。私達の運搬車レンジャーの屋根には日の丸と日野の社旗が風にたなびき、〃サムライ〃の日本刀が飾られていたし、見に来た大部分の人達にとって日野コンテッサは初めて見る車だったからだ。
このレースに私達が招いたNGKの人違が3人来ていたが、この素晴しい見せ来たものである。また、私達はこのタイムス・グランブリを見に来た日本人全部の関心をひきつけたらしく、レース後の午後一杯私達は絶え間のないカメラ撮影の対象だったし、振リ返るたびに必ず誰からしく日本人が立って私達を撮影していた。ただ、この人連の多くほ単なる旅行客てはなく、何らかのエンジニヤーらしく思われた。写真ばかりでなく、ノートまで取っていたからである。なかでもわれわれの関心をひいたのは、日本の自動車メーカーの人たちの質問だった。日産の人たちとのことだが、われわれがレースに優勝するや否や、直ちにわれわれのピットにあらわれ、無数の質問をわれわれに間いかけはじめた。
最初、彼らは自分たちが日産の関係者であるということを全然あかさなかった。ところがそこにいあわせたNGKの代表の一人が、日本からきた人てあることにきづいたので、彼らはようやく自分たちがなにものであるかを認めたのであった。
なお、日野のトランスミッション製迭部門のスタッフに対し、私のお礼の言葉を是非お伝え願いたい。通常出力を増加すると、これらの部分がまずやられ始めるのが普通なのだが、私逮は過去一年中を通してトランスミッションやディフィレンシャルについてただの一度すらトラブルを経験することがなかったし、このギヤボックスは、温度が上昇してもねばつきを生ずることすらなかった。
レースに優勝した車はそちらの指示あり次第船横みにて日本向発進する予定で、これによって日野のエンジニヤは私達が本年中になしとげた企てを各自親しく検討することができるはずである。
このクルマはその後に日本へ里帰りをする
(日野社報1966年12月号より抜粋)
(SE, 2013.5.18)
(Updated 2019.8.10)
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