~リヴァサイド6時間の死闘~
『やれば出来る』
『やれば出来る』ということの標本のように、去る8月14日、社内すべ関係者の絶大な努力と協力によって、日野プロトタイプはその目にも鮮な躍動美を富士スピートウエイに表し、その見事な成果はGP以来の大観衆の絶讃を博した。その同じ日、大平洋を隔てての彼方、加州リヴァサイドのサーキットでは、同地での本年前半ビッグイベントの一つ、6時間耐久レースが繰広げられ、アメリ力に於けるわれらの仲間、ピート・プロックとボプ・ダンハムの両君が、チーム・サムライの名の下に日野車の名誉を賭けたすさまじい闘魂を以て、6時間の死闘の末、見事信しられぬ逆転勝をなしとげていた。
過去半歳に亘り、日野車の改良開発に心皿を注いで来た彼等の、コンテッサに対する異常なまての愛着と執念、そして自分の仕事に対する絶大な自信と責任感、これらを吾々は改めてまざまざと見せつけられたように思う。
オイルとガスの匂いの未だ生々しいような彼等からの報告によつて、彼等自身にこのレースの詳細を語らせよう。
(宮古 忠啓)
プロローグ
[ピート]
「いやはや何たる週末だったことだろう。全くオートレースの中でも耐久レース程わからないものはない。長距離耐久レースでは、たとえダウンされても、必すしもカウント・アウトで敗けるとは限らない。レースが終了するまでは、文字通りどんを奇跡が起ふぬとも限らないからだ。
[ボプ]
およそサムライ精神の真髄をこれ程完ぺきに発揮した実例があろうかと思ったほど、大へんな出来事だった。若し貴方がそのらに居合せたなら、このレースの最後の2時間は、ただもう叫び続けて声もかれてはてまったに違いない。その間、ぐしゃぐしゃにつぶされたコンテッサを躯ったピートが、じわじわとしかし確実に、遥かリードする無敗のミニクーパーSを追つめて行き、遂に最終ラップでこれを抜去ったのだ。6時間の長きに旦る苦難のドライブを、一目見たら屑鉄置場から堀出して来たとしか思えないような車で完走し、あまつさえクラス優勝をなしとげてしまったのだから。
車両の準備完了、だが一抹の不安
[ピート]
土、日のレースを控えた前週の水曜日、私たちは最終テストのためにウイローのコースへ車を運び、最後に残された問題であるエンジンルーム内気温上昇の解決としての逆流式ラジエーター・ファンの実施テストを行った。その結果は一切が先ず完壁と思われたので、その夜レース場で車輌の予備検査を受け、終って再び作業場に帰る、今一度車の各部分を再点検した上、レーズ当日まで車を休ませた。
ボブの車はそれまでにまだ完成していなかった。今回始めてメカニックのジェフに単独でこの2号車のエンジン組立をやらせたので、彼は白分で考え出した幾つかのアイディアをここで実験しようとしたため、予定よりも一両日日程が遅れてしまったようだ。
今度のレースは、午后1時半にスタートしタ方7時半に終る6時間の耐久なので、二人のドライパーが交互に交替して走ることとなるため、私は自分の車の副ドライパーとしてアラン・ジョンソン君を選んだ。彼は私の親友であり、ポルシェに乗って昨年度全米スポーッカークラブのチャンピオンとなった男である。水唯日のウイローでのテストの際、私は彼を同行させ、そこで彼自身をコンテッサに完全に習熟するまで走行させた。このことが後になってレース本番でどんなに役に立ったかわからない。
[ポプ]
ピートの車はレースの一週間前に完成し、ウイローのコースでの試走では、それまでに吾々が出したべストタイムで廻っていた。またピートの副ドライパーのジョンソン君も、さすがに昨牛度のチャンピオンだけあって殆んどピートと違わないタイムを出していた。一方私の車は、ピートから組立を命しられたジェフが当日の朝までそれを先成出来なかったので、レース当日まで遂にテスト走行する機会なしで終ってしまった。私の副ドライバ-は、シェルビイ・アメリカン・レースドライヴィング・スクールの主任教師ジョン・ティマナス君である。
好成績で予選通過 - 出場車は強豪揃いの55台
[ピート]
いよいよレーズ当日が来た。私達は朝早く、未だゲートが開かないうちにリヴァサイドのサーキットに到着し、このトラックで一番良い位置のピットを占領することが出来た。車をKMパンから下ろし、一切の準備を完了すると直ちに公式練習走行が始まる。私はコースに出ると、先ず軽く2周ほど流し、タイヤの空気圧などをチェックした上、すべて申し分ないことを確かめてピットに戻り、次いて相棒のジョンソン君を走らせて車の最終チエツクをやらせた。彼も2周ほどコー入を走り、万事OKとしてピットに戻ったので私違は車をパークして予選開始を待つた。
その日の午后、私は2分と少々のラップタイムで予選を通過し、全クラズの総出走車55台中綜合第21位のスタート位置を与えられた。スポーッカ-を除くと、実際にはセダンの全出走車中私のコンテッサは第4位で、私より上位にあるのは、2台のムスタングと1台のアルファ・ロメオGTAだけだった。
[ポプ]
公式予選でのピートの車の走りぶりは実に見事なものだった。一方私の車は若干トラブルがあり、ピートの車のラップ2分2~3秒に対して私はベズトラップがやっと2分5秒程度だった。しかもこの練習走行をやっても私の車は依然調子が悪く、どこが悪いのか見つけようとしている間に時間切れとなってしまった。
ピートは吾々のクラス(1000-1300cc)の第1位で予選を通り、ミクーパーSが第2位だった。第3位は私で、以下フォード,アングリア、MG11OO、3台のワーゲン、カルマンギヤ、ルノー等が之に統いた。ピートは予選の綜合順位でも見事な成績で、クラスAからクラスHまでの量産入ポーツカー及びセダンを含む全出走車55台中の21位。私のスタート順位は39位だったが、予選タイムでの私とピートとの差は僅か3秒しかなく、従って、このたったニ秒の間に実に18台の他車が入っていたことになる。
絶好調のスタート - たちまち首位へ躍進!
[ピート]
いよいよスタートだ。ドライパーがトラックを横切って自分の車まで走って行き、飛乗って走り出す例のルマン式入タートである。先ずミニ・クーパーがいち早く飛出した。私は忽ちこれを捕えて迫抜き、第1周で早くもコンテッサが第1位でリードした。私には自分のクーぺがどこまでスピードが出るか正確に解って居り、しかもそのスピードで走れば同じクラスのどの車よりも速いことを知っいるので、十分な大差がつくまで、ここで他車を引離しておこうと、徐々にリードを増しはじめた。途中で燃料補給のためピットインしてもなおリードを奪われない程の大差をつけて、始めから終りまで全レー入をリードする先全勝利をねらったのだった。
[ポプ]
パッグストレッチからのルマン式入スタートで、色とりどりの55台が出発点から一せいにスタートするのは、目にも鮮やかな光景だった。出発点の混み合いにも拘らず、ピートは驚くぺき巧みなスタート振りを見せ、私もまた吾ながら上出来のスタートを切った。何しろ大小55台という車の大群だ。当初2-3ラップのコースの混みようは大変なもの、ピートがこの間に何台の車を迫越したか私には解らない。私自身は第1コーナーまでに早くも8台から10台を抜き、こいつはいけるぞと感した。2-3周廻った項、もう私の前方にはピートの車の影も見えず、彼がものすごいスピードで飛ばしていることが解った。勿論私も懸命に走って次々と他の車を抜いていった。最初の2-3周の間に、早くもあちこちで衝突が起ったが、ピートも私も幸運にこれを避けることが出来た。混戦やもみ合いが到る所で生じたが、吾々二人とも懸命に走って絶好のポジションを保ち続けた。
無念!大事故が発生 - 他車に衡突され転覆大破
[ピート]
すべては絶好調と思われたのに、何たること!第10周目に思いもよらぬ災難が突如として私の上に襲いかかったのだ。それは気の許せない第4カーブだった。そのとき私はほかの車を抜きかけていた。吾々のクラスではないスポーツカーのスプライトだった。私はこれを追抜いた。だがその瞬間、相手の左のフロントが私の右のリヤーフェンダーに激突し、私を猛烈なスピンに焔らせた。私の車は後向きにトラックから飛出し、空中で二回転以上もとんぼ返りを打った後、四輪を空に向け、さかさまになって漸く静止した。私はそれでも怪我ひとつしなかった。だが自分のせいではなくこんな目にあわされたことに、心は慣りで一杯だった。車は完全にさかさまにひっくり返って、油はあたり一面に流れ出し、まさに惨さんたる状態だった。前後とも窓ガラスは完全にぶち破られ、サイドウインドウもいくつか壊れている。何しろ屋根全体が車内のロールパーの位置までペシャンコにつぶれてしまったのだから。
[ポプ]
レーズ当初の混戦が一先ずおさまって、それから5-6周も過ぎた頃だったろうか、2台のオースチンヒーレー・スプライトが私を追越していった。その2台の走りぶりは、常軌を逸した恐ろしく乱暴なドライブで、私はこ奴らが私をよけて先へ行ったのでほっとした程だった。ところが次のラップで突然危険信号の黄旗がコーズに掲げられ、S字カープを歩り抜けながら私はとっさに、さてはあのスプライトの奴め、矢張りぶつかったらしいなと思った。だが第3コーナーを廻りがけて私はハッとした。なんたること!ピートの車がコース外の小山の横に天井を下にひっくり返って居り、さかさまになった車の中からピートが這い出そうともがいているではないか!私は心配で心も凍る思いだった。だがレースでは止ることは許されない。1周廻ってもとの場所にさしかルると、ピートはもう車の外に出ていて、私に「行け、行け、行け」,とサインしていた。
ピートの身体に具状がをいらしいと解ったので、私はしやにむに飛ばそうとした。だがどうしたことか私の車は5千回転から先はパワーが出ず、ラップタイムはそれまで以上には縮まらなかった。それでもその後30分ほどたったとき、私は遂に先頭のミニを抜き、ピットからのサインは私がクラズ第1位を走っていると告げた。私としては今はただもうこの車が何とか6時間保ってくれと心に祈るばかりだった。そして2分10秒内外の着実なペー入で走り抜こうと懸命だった。6時間というのは実に長い長い道中なのだから。
”残骸”を必死に修理 - 遂に起死回生の再出走
[ピート]
間もなくレッカーがやって来た。車を起しレッカーに繋ぎ終ると、残害置場に引いて行こうとする彼等に、私は直すぐ私のピットに行けと命した。これを見た役員違は忽ちとんで来て、これは外部の助力、つまりレッカーの助けを借りて動かしたのだから失格だと主張した。私が規則の技術上の解釈を云い張って彼等を黙らせると、今度は車輌検査買や保安委買との長い烈しい激論となった。この車は最早コー入を走れる状態ではないと彼等は云うのだ。
この間中ピットでは、車の修理に狂気のような努力が続けられていた。巨大なハンマーを揮って、つぶれた箇所という前所をどこもかしこも叩き出すために。その傍ては競技役員との火のような激論が締き、当然あたりは黒山の人だかり、場内アナウンスまでが声を張上げて、ことさらに劇的な効果をあおり、まさに荒々しきかぎりの情景だった。
やがてどうやらヒシャげた箇所も叩き出され、車にはオイルも燃料も入れられた。そして最後に私はこの車は必ず今一度走れると心に感した。その項までに、車検及び保安委買も漸く再出発を納得してくれたが、それはこの車が何としても再スタートしようとコース入口のレーンに引出されたとき、従等は何よりも先ずこの車が自力で動いているとは信しちれなかったからに違いない。ところがそこでまた別な難題が生した。この車は前后の窓ザラ入が無いから、技術上不完全の故を以てコー入走行が認められないというのである。またしても烈しい口論の応酬、しかし結局はしぶしぶながらの許可が与えられた。何はともあれ、やっとのことで私の車は再びコー入に出られたのだ!この間なんと約30分、宿敵ミニに遅れること実に17周!
[ボプ]
私は何も知らずに走り続けていた。ピートがあの大事故で退場してしまったあとは、後走するミニを出来るだけ引離そうと、ただそれだけに懸命だった。その時、私の背後に遠くからしわじわとつめ寄って来る一台の車があった。私は再びハッとして息をのんだ、今日二度目のシヨツクである。二筋の真赤を縞だ!しかも私の知る限り、赤い縞の車はコンテッサだけしかない筈だ!私は吾とわが眼を疑った。ピートが来られる筈はない!しかしそれから2周ほどあと、私の車を追越していったのは、まぎれもなく正真正銘のピートだった。にっこり笑って、手を振って。それにしてもピートを乗せた車は、ともほや云いようのない目茶目茶な姿だった。後から知ったことだか、ピートとジェフとピットマンとが大ハンマーを揮って、ぐしやぐしやにつぶれた屋根やボディを、ドカンドカンと力の限り叩き出したのだそうだ。もの、10分以上もさかさまになっていたのだから、オイルは全部流れ出してしまい、それが泥やほこりとごちやまぜになって、エンジンルームは見るも無ざんな状態だったらしい。その上ひしやげた屋根のため右側のドアはどうしてもしまらず、やむなく針金をもって来てくくりつけたのだそうだ。ピートが散々競技役員にかけ合った末、役員がこの車を危険と認めたなら何時でも指示に従ってひっ込むという条件付きで、漸くレース統行を許されたのだという。
観衆は盛んな声援 - ファイトに燃え執念の追走
[ピート]
待望の走行再会はしたもの、それからが大変だった。さきの衝突でタコメーターはこわれて全部助かず、加えて前後ともウインドウ・ガラスがないこととて車内は大へんな風音、エンシンの音を聞くどころの沙汰ではなかった。トラプルはそれに止らず、車内の風圧で天井の内張りがはがれだし、遂には全部たれ下って私の耳のまわりにまつわりついたばかりか、風の抵抗を増して車の速度まで下げてしまう。仕方なく今一度ピットインして内張をはぎとらせ再び走り出した。
[ボプ]
ピートがピットで車を修理していた頃から、私は徐々に同クラ入の他車との差を開いて行き、スタート後2時間目に副ドライパーと交替のためピットインしたときには、次位のミニを1周と27秒りードしていた。ここで私の車はテイマナス君に引継がれたが、彼はレース前たった3周の練習走行をしたヾけなので、てんでこの車に馴れて居らず、そのため私よりも大分スピードが落ちざるを得なかった。折角私が奪いとったリードを、ミニはこの機に再び次第につめ始めて来たのだ。一方ピートはその後もどこかを直すためにもう一度ピットインしたりして、最早全く絶望的に圏外に去ったものと見られた。ただ、既にレースを完走する見込みすらないと思われるのに、なお且つこれ程むざんにつぶれた車を駆って走り続ける彼の猛烈なファイトに、観衆は皆盛んな声援を恰しまなかった。
だが事実は、驚くぺきことに彼の車のエンジンは、あれ程の大事故にも拘わらず何の傷害も受けてはいなかった。のみならず実に素晴しい調子で廻転し、1周2分を僅かオーパーするだけというハイ・ぺ-スで着実に周回を統けていた。もとよりミニもその他のクラスCの出走車も、ピートからは遥か先を走っていた。
だが従は誰も気づかぬうちに、早くも徐々にしかし確実にこれらの車との大差をつめ始めていたのだ。
この頃、しかし災難は再び吾がチームの上にふりかかって来た。私の副ドライパーであるティマナ入君が、ピットの前を煙を吹出しながら通過して行く。見れば私の車のエンジンはひどくがたついているではないか。次のラップでこの車はシリンダーが二つだけになってピットインして来た。あとの二つはピストンが破壌してエンジン内部で粉砕し、それを完全に壊してしまったらしい。2時間あまりも第1位を椎持して来たこの車も、かくてとうとう退場のやむなきに至ったのだ。望みの綱もきれ果てて、がっくりとした吾々一同は、もはやこれまでと、すんでのことにピートにサインを送って彼をも退場させようとしたのだが、たとえ彼のひしやげた車でも、せめてエンジンが吹飛ぶまでは走らせるべきだと考え直し、退場のサインだけは思い止った。しかし、事実はそれから2時間たった後も、ピートの車は奇麟的にも、依然としていとも強力に走り統けていたのである。
完壁な走行ぶりじりじり迫上げ
[ピート]
あれ稚ひどい目にあわされたのに、私のコンテッサの走りぶりはまさに完壁そのもので、私は再びしりしり上先行車を追い始めた。一方ポプの車はどうしたことか次第に速度が落ち、遂には走行を断念してしまった。勿論そこでミニが首位に立った。ミニクーパーのチームは私の車が完走出来るなど、は夢想だにもせず、彼等の競争相手としてはもとより完全に無視していただろう。彼等のこの判断がどんなに甘いものだったか、やがて彼竿ほ思い知らされるのに!事実、ボプの車が退場してからは、彼等は若干ペースを落としていた。コースの気温は約38度もあり、ミニも相当過熱していたから、2位のアングリアよりは僅かながら速度が勝っていることでもあり、若干ぺ-スを落して少しでもオーバーヒートを防ごうとしたのだろう。MG11OOはとうの昔に過熱のため命数つきて退去して居り、一方2台のワーゲンは、先行車がすべてを壊してリタイアし、これによって自分達が1位と2位に繰上ることだけを期待して、いとものんびりとコースを廻っていた。
驚異!17周の差を挽回 - 「アクセルも折れよ」最後の突撃
[ピート]
午后4時少し前、私は副ドライパーのジョンソン君と交替すべくピットインした。燃料を補給し、タイヤやオイルを点検したか、何一つ異常なく一切が完ぺきで、彼は勇躍車を駆って飛び出して行った。私の車はコースの混みぐあいにより、2分3秒ないし5秒のラップタイムで走リ統け、1時間の後には遂に2台のワーンを抜いて第3位に上った。この項になると、先行するアングリアは次第にペース守れなくなり、速度を落として走り始めた。そこで吾がクーぺは徐々に追上げ開始し、午后6時少し前、とうとう私はピット前を通過するジョンソン君に「P2」のサィンを褐げ、今や吾がコンテッサが第2位であることを知らせたのだ。一方ミニクーパーのチームは依然その勝利を確信して自信満々、迫上げられる危険など全然気付いてもいなかった。
午后6時かっきり、ジョンソン君はその驚嘆すぺき素晴しい走行を終えてピットに帰って来た。2時問にわたる周回の大部分のラップタイムが僅か1/2秒以内の差異しかをいという抜群の正確さ、しかもそれを回転計なしでやってのけるとは!私の車は-否、私の車の残骸はというべきだろう-何もかも完壁の状態だった。そこで私はほんの僅か車を止めただけで、す早くハンドルをとり、このレース最後の1時間半を走行すべくスタートした。事故の後、再出発した際のミニに対する遅れ17周の中、これまでに既に12周を取返していたので、私の追付かねばならない遅れはあと5周だけだった。
私の妻は日野KMパンの屋上に陣取って、懸命に周画表を記入し統けていた。このおかげで吾がチームは、レース中の自分のポジションを刻々正碓に把握していた。これに反してミニチームの方は、競技場の公式記録に頼っていた模様だが、この公表順位がポストに掲げられるのは、計時買による確認その他の関係で、いつでも約20分程も発表が遅れるのだ。時間は刻々と経過し、2-3ラップはまたたく間に過ぎて行く。もう直ぐだ、今一度ミニにくっついてやる。この頃になって、さすがにミニチームもようやく心配になって来たらしい。彼等のピット・サインは走行中のドライパーに「もっと急げ」と告げ始めた。その心配がいよいよ高まると、彼等はわが方のピット・サインをえらく気にして注意しだした。ラップ毎にどれだけ相手との差をつめたか私に正確に解らせるために、ピットからジェフが各ラップの迫上げタィムを秒で示したサイン・ボードで私に知らせてくれていたからだ。
午后7時少し前、ミニチームほ車をピットインさせ、速い方のドライバーと避手交替を行い、また若干の燃料補給をやったらしい。だがおそらくこれが、彼竿にとって結局命取りになったのではなかろうか。彼等がピットインしている間に、私は殆どまるまる1周もミニとの差をつめてしまったのだから。ジェフからのサインと、自分の頭の中での計算から、この瞬間私はあらん限りの全速走行を開始した。最后の突撃だ!吾がクーベのエンジン音は全く快調、しかも夕幕れと共に気温は急速に下り、加えてレー入も終幕に近づいて今や残存する車の影もまばらとなり、最早コース上の混雑も殆どなくなっていた。
遂に奇跡の逆転勝 - 数メ-トルの差でトップに
[ボプ]
思いもかけぬレース展間に、ピットはただ狂気のような声援だった。先すピートはいとも強力且つ無類の冷静な迫走で、選手交替までに同クラスのその他の車をすぺて抜き去り、いつの間にか第3位にまでで上って来た。ここで交替したジョンソン君が、これまた2時間のまさに驚嘆すぺき見事な走行をやってのけ、最后に第2位のフォード・アングリアを抜き去って、このぐしやぐしやにつぷれた日野クーペを遂に第2位の地位に進めてしまったのだ。そこで再びピートの出場、あとは5ラップを先行するミニのみ。しかもミニは燃料補給か必要なのに、わが方は新規の大型タンクのおかげで補給なしで走り切れる筈なのだ。レース終了まであと1時問、ピートはミニに遅れることニ周半とつめ奇った。ミニは必死で逃げ、その走行は依然強力だが、ピートは更に力強く、今や1周5秒の割で猛烈な追上げを間始した。余すところあと15分、ピートは遂にミニと同一ラップを走つている!
[ピート]
なおも私は襲撃を続けた。そして最後にはコーナーでのアウト・ブレーキングによってミニをかわそうとし始めた。(注、カーブ前で減速せず他車に先んじてコーナー深く突込み、そこで軽くブレーキして急角度に廻る、危険だが有効なコーナリングテクニック)ミニはまるで気でも狂ったかのように、エンジン全開で今一度私のそばをすり抜けた。第6コーナーにさしかかったとき、彼は二車身ほど私の前を走っていた。その瞬間別の車が油で滑るトラックの上で横すべりを起し、危機一発の混戦の中を私が辛うして抜け出す間に、ミニは更に二車身ほど差を開いて先へすり抜けて行った。ひやりとする一瞬。だがもうあと2周しかない!日野から送られら貴重な腕特計はもう直ぐ7時30分を指そうとしている!ミニは何とかして逃げ切ろうとこん身の力をふるっている。それでも私は最終ラップで遂にミニの直後に迫いついた。バックストレッチの直線コースでは、彼はなお終始私に先行した。彼も私から逃げられず、私も彼を追抜けない。そのまま遂に最終コーナーに突入。私はアクセルも祈れよと踏み続けつインサイド深く突込み、アウトブレーキした。トラックはひどくつるつるで、私の車はほんの僅か横すベリして、ミニにつき当った。ここで何であれ私が奇りかかれるものがあったことは実に幸運だった。さもないとミニはこのカーブから立上りざま、私の車を抜き込したかも知れないのだ。しかし事実はこれがすぺてだった。最終ラップの最終コーナーでミニを抜き去り、数メートルの差で、私は遂に勝ったのだ!
エピローグ
[ピート]
嵐のような熱狂した感激の声だった。それに混じって抗議だ失格だ等々の叫びも上ったことは云うまでもない。だがたとえ後日発表される公式結果がどうあろうと、私たちは大観衆の目の前で遂に最初の大きな勝利をなしとげたのだ。この日野コンテッサ・クーベが、炎熱の下、酷極まる6時間もの長いレースを通して、終始一環比類なき完ぺきな状態で、ものの見事に走り統け、しかもなお、更に統けて6特間充分走れる程の申分ない快音を響かせて廻っている、そのことだけが何よりも増して重要な事実なのだ。
[ポプ]
あのようなひどい事故のあとで、此の勝利がなし遂げられるとは果たして誰が信じられたろう。私たちも到底信じられなかった。そのうちにこの車の写真を東京に送ったなら、日野の皆様はこのまるでスクラッブのかたまりのような惨たんたる車が、完走ばかりか優勝するなど一体あり得ることか驚かれるに違いない。幸にしてサスペンションが壊れなかったことと、これに加えてエンジンが素晴しいスタミナを持っていたことが、これを成し遂げたのだと思う。しかし最大の要素は敢闘する精神力。おそらく日野の皆様も、このような災難とこれに伴う絶大な不利とを克服して、吾がチームを今日の勝利に導いたこの精神を、私たちと共に誇りに思われるに違いない。真のファイテング・スピリットを持つ者の言葉『今日われ至難事を敢行せば、明日われ不可能事を成就し得ぺし』とは決して誇張ではないと思う。
ピートは公式発表では失格とされるかも知れない。だがそんなことは間題ではない。彼が開発とレースに示した比類のない闘魂と共に、私たちの心の中で、そして日野の皆様の心の中で日野コンテッサは見事に優勝車として燦然と埠くのだ。
(1966年8月)
(日野社報1966年9月号別冊より抜粋)
(SE, 2013.5.18)
(Updated 2019.8.10)
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