時折、コンテッサってどんな姿が美しいのか自問自答することがあります。それは特に旧車としてコンテツも一応もてはやされるになっても尚更です。昨今ではやはりノーマル純正が一番だとか、また前期型、後期型などの誠に子細な議論が当時の思いとは裏腹にも奇異にも聞こえて参ります。もしそのような議論を好むならばそのよう方はこの頁をスキップしましょう。どうでしょうか?そんな議論が現役時代には想像もつかなかったのです。当時は、正確には生産中止以降となりますがどうだったのでしょうか?
金太郎飴でなかったオーナーの個性をもったクルマたち
記憶にある多くのコンテツは目的をもったドレスアップというかチューンナップでしょうか、個人の趣向での主張があり、二つと同じものがありませんでした。オーナードライバーとか法人需要が大半を占めた販売当初や成長期はそうではないと思いますが、あまりにも唐突に終止符を打った後のコンテツを興味深くを追ったものにとっては少なからず実に個性的なこだわりがある何がしらの主張をそれぞれのコンテツがしているように見えました。
オーナーの職業も自由業、デザイナー、芸術家、建築家、はたまたタレント(多くは自称ですが)と社会の一般的尺度には収まらない自由をモットーとした皆さんが多かったようです。ビジネライクな例えばトヨタなどの80%はクルマなら何でも良いという退屈な選択と違って、80%はコンテツでないと駄目と言う筋金が大いに入ったようなものです。そう、「退屈へのレジスタンス(*.1)」がピッタリです。これを思うと昨今のコンテツに対するよくある旧車社会の「純正」議論や仔細なつっこみなどは滑稽にも感じてきます。コンテツを所有するものにとっては、当時から自分なりのモディフィケーションをしたコンテツが一番であったのです。
ボクは今でもそのような自由闊達なコンテツが好ましいと思っておりましたし、それは今もって変わりません。正に「退屈へのレジスタンス」であります。自分自身のコンテツもそうであり、もちろん当時のスピリットのままで進化させたいと思います。
以下のその当時の純正何のそのの「退屈へのレジスタンス」への個性的なコンテツの幸せな光景です:
トランク&バイクキャリア
当時、この個体は英国車などではやったトランクキャリアを装着しました。ロングテールに良く似合う。またダサいオーバーライダー(通称、カツオブシ)を取払い、マフラーは社外品のデュアル、結構ドスの効いたサウンドでした。更にホイールはエルスターの一般的なPCD114.3を日野コンテッサ1300の特殊だったPCD120に追加穴明け加工したものでした。ボデー色はフレンチブルー、安易にはいすゞの当時のエルフと同じカラーでした。
自転車をリヤに吊るす方式のキャリアです。当時、そうしたら白バイから注意を受けたことは一度ではなかったようです。今ではそんなに厳しいおとがめもないでしょう。
サンルーフ
当時、マルエヌから発売開始したばかりのサンルーフ を装着(昭和47年(1972) 3月、米国DAS社と共同開発のサンルーフ「オープントップ」の製造販売を開始)、これは初期の製品だったせいか、強度不足だったようで、ラフな場所ではボデーの振動とともにルーフが左右に心持ち動いていたような気が、いや明らかにそのように見えました。
こちらは上記より1年後の装着、ちゃんと強度補強の骨格を入れるタイプになりました。ルーフが振動で動くことは無くなったことを記憶します。
ナポレオンミラー
一件、ノーマルなクーペでもよく見ると、ブラックボデーのナポレオンミラー(田中製作所、現タナックス)を、さらに定番のホイールキャップレスにし、ホイールをブラック塗装です。決して、純正のミラーやホイールキャップが無くてしてるのではありません。
これもナポレオンミラーを装着例です。メタリックグリーンなのでメッキボデーのミラーがお似合いです。また、オレンジのフォグがそれなりにメタリックグリーンに決まっています。トータルなコーデネイトが重要です。
これまた、ナポレオンミラー!コンテッサには誰が見てもボデーのラインとピッタリ。この個体、ホイールに注目、これはミケロッティのデザインによる日野のショーモデルの14インチです。当時、誰もが欲しがっていたものです。
駄目押しのナポレオンミラー。ボデー色に合わせ、ホワイトボデーを装着してとてもお洒落でした。さらに、シビエのタンゴ・フォグランプ、カバーも付けて全体のコーデネイトが心憎いと今でも感じます。
セブリングミラー
当時、セブリングミラー風(もどき、ほんものの画像はこちらを参照)のサイドミラー(確か、ナポレオンミラーと同じ会社だったと思う)が一世風靡しました。コンテッサクープにも例外なくちょっとしたこだわりが見えます。ボデーのフレンチブルーにブラックのミラーもメリハリがあって結構良く見えます。そして片方だけのフォグなんてのしゃれてます。
タルボミラー
当時のドイツのレーシング&スポーツカーで定番だったタルボミラー(画像はこちらを参照)も日本でそっくりさん(3.5インチの小径のTalbot Jr.のコピーと推測)が流行しました。これが結構本物そっくりに良く出来ていた。このようにフェンダーとドアに装着するというある意味で流行ったものです。そしてブラックのライトリム、グリーンのボンネットのストライプ、その他とすっかりレーシング気分、このクーペは実際、富士のクラブマンに参戦していました。
これは1300Sにタルボミラーもどきを装着。定番だったのです。それもボデーのストーングレーメタリックと同色のペイントを施しました。よく見るとフォグの左右が異なります。当時は解体屋で手頃なものを入手、左右一式なかっただけです。左右違うのもファッションのうちだ!
これはサイドビュー。ホイールキャップを外すのはスポーティカーの定番。これでドンなセダンの1300Sでもプリンス2000GTBにも負けないと言う気合い?だったのです。
シビエ
楕円のランプは日野製を利用可能でしたが、日野製のそれは当時、仲間うちでプジョー204が元祖ではないかと話題になっていました。それでは日野製ではなく、ホンモノを入れてしまえとばかり、シビエ(画像はこちらを参照)の輸入元であった今は無き当時のエクセル自動車(東京、麻布)に出向き、運良く最後の一組を手にしました。
ボデーごど板金&改造しました。このランプの性能は偉大でありました。なにせ55/65wながら100メーター先の壁にロービームでちゃんとランプの位置と同じ高さで上下はくっきり現れたのには感激しました。やはりホンモノは違うなだと言う話になりました。残念ながら日野製はストックの4灯式以下の性能だったのです。おそらくコンテツの組込むために奥が浅く有効な最適な焦点のポイントを得られなかったと推測します。
マーシャル
当時、行きつけの解体屋でマーシャル(画像はこちらを参照)のスポットランプを格安で見つけました。それをバックアップランプに応用しました。理由は、品川ナンバーであるものの住いの駿河地方の田舎の真っ暗な田んぼ道では日野の20wのランプでは何も見えなかったのです。このスポットは威力は偉大でした。100m以上も先が明るく照らしだされました。
結構、迫力ものの面構えです。センターにスポットと推測する天下のマーシャルを据えています。そしてフォグを二つと当時としてはラリーなどの定番だったスタイルです。ライトのプロテクターのBREのチームサムライのそのものです。そしてセンターのオーナメントも全体のカラーを考慮して細工をしているようです。
キャレロ
コンテツはやはりイタリンアン、そこでヘッドランプはイタリアンスポーツ御用達のキャレロ(画像はこちらを参照)にと、さらのホイールもイタリアンのFPSを装着。共に当時は高嶺の花でした。この個体のFPS(ご参考:FPS Fratelli Pedrini Sarezzo、Hemminsより)はシビック向けのデモ用に輸入した2組の一つだったようです。13インチ、5J、オフセットが25ミリと正にコンテツ向きで、重要が4.4キロと軽量だったことです。これは正真正銘の極初期のMade in Italyであり、JWLマーク制定以前のものだったと記憶します。その後のFPSはフィリピン製となりました。ドアミラーはBMW2002風でこれもナポレオンミラーの会社が製造・販売したと記憶します。ただ本物のBMWと違って両面テープと鉄板ビスで簡単に固定すると言うものでした。
BMW風ミラー
誰かがドアミラーに挑戦すればすぐ伝搬しました。その一つがこれまた田中製作所から発売されたBMWもどきのサイドミラーでした(本物のBMWのサイドミラーの画像はこちらを参照)。1970年代の当時はこのようなドアミラーでさえ、正確な意味で道交法違反であり、街で取り締まりの対象にもなりました。
下記の個体はシビエの楕円ランプに加え、さらにセンターの日野エンブレムを取り去り、フェンダーも奇麗に穴埋めをし、ドアミラーを取り付けると言う結構な手が込んでいます。今で言うスムージングみたいなものの先駆けでしょう。
元祖、カスタム
このクルマはもともと一台だけで終わったデル・ダンディ・ツーリング (市販を目指したトヨタ・クライン・エイトのエンジンを搭載) です。一般の手に渡った後もオーナーの手で様々のドレスアップが試みられました。トランクフードのエアーインテーク (全くのダミー) とメーターフードなどまったくのギミックを始め。タイヤとホイール (エルスター改) はフロントが細身の6.15-13&5J、リアはファットなA70-13 (グットイヤー:画像はgoodyear polyglas tireを参照) &5.5Jと正にホットロッド仕様です。そしてBMW2002風のドアミラーとこれまた定番でした。そしてこの派手なグリーン・メタリックが最大のポイントです。当時のウイリー沖山さん(ヨーデラー&カントリー歌手)がある雑誌のグラビアに愛車のコンテッサのカスタムを紹介しました。それがあまりに衝撃的であり、格好良かったです。その後、何台かはその影響を受けた筈です。このグリーンメタリックとメッキホイールはそのグラビアからの忠実なパクリでした。その意味では、「元祖、カスタム』は、ウイリー沖山さんでしょう。
レーシング
硬派のコンテツ、足は強化サスにコニのSpecial D、13インチの強化ホイールを7Jにワイドアップし、フロントは185-70、リアは195-70、共に今では懐かしいブロックパターンのRD102。そしてマフラー(イミテーションではなくポルシェ用の実に軽量のもの)はサイド出しでエキパイも4-2-1のスペシャル。オイルクーラーはフロント、ロールバーが入った状態で何と2シーターで新車登録をしていました。もちろん、830kgの軽量ボデー車です。
これも硬派のコンテツ。派手にロールしながら富士スピードウェイのジムカーナに挑むナンバー付きの左ハンドルのクーペ "L" 。フロントに大穴を明けたラジエータへのエアインテーク、サイドのグリル、ハイビームライト、バンバーもつけてません。数少ない個人所有の軽量ボデー車でした。日野の市販スポーツキットをもってしてもこんなにロールしてしまうハードなドライビングでした。
日野自動車のコンテッサ1300市場撤退後もプライベータは愛車で楽しんでいました。この個体は調布をベースに富士スピードウェイを中心に活躍していました。
インパネ
例外的に出来の良かったインパネも標準の仕様では収まらなかった証しです。1966年モーターショーのショーモデルのコンテッサクーペのスポーツクーペ (80hpツインカムエンジン搭載) の三連のセンター部分を模したものです。ついでに出始めたばかりの最新のAM/FM&カセット付きのオーディをインパネを加工してマウントしました。ステアリングは誰もがした簡易なブラック革巻きアクセラリーを取付ける訳ですが、さらに細身の握りをより太くするために革の下に水道のビニールチューブを入れていた強者もいました。またスアリングのポジションはスペーザ(ワッシャ利用)で好みの高さににセットしてました。この個体、よく観察すると、サンバーザーは新車時のビニールカバーがまだ付いてます。そして、シフトノブは社外品のコンテッサのロゴ入りの木製の握りの大きなものを装着しています。
ローダウン
一見、おとなしいノーマルクーペに見えるが結構さりげなくモデファイが施されていた個体が実に多くありました。画像の個体は、スプリング・カットで2~3cmのローダウン、大口径ディスクローター(10.5インチ)&住友ダンロップMKII系キャリバーと14インチホイール、エンジンは日野がプリンス2000GTBを仮想コンペティターと見立ててテストし、日野ワークスだけが使用出来た74mm高回転型ピストン&ビッグバルブ付きの新設計のヘッド/エキパイが組込まれていました。ノーマルのクーペがサードにシフトダウンを余儀されなくなる上り坂もトップのままで登るという太いトルク、しかし、耐久性はストックの比ではありませんでした。 ミラーはもちろんナポレオン、そして目立ちませんがフロントピラーにアンテナを移しています。
*.1:「退屈へのレジスタンス」は2000年ごろからルノー・セニック他のADに出て来るキャッチコピーです。 (参考例:webCG))
(SE, 2009.5.3, Original)
(Reised, 2018.7.6)
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