Car Graphic誌は、50年弱の歴史でしょうが、昨年、創刊以来の二玄社もさすが見切りをつけたようです。新たな経営陣&編集陣、場所で株式会社カーグラフィックと再出発となったようです。いわば、ブランドは守った格好です。ある意味で、昨今の自動車出版界のリストラの一部のようにも見えます。このチェンジの流れの中でライター諸氏も身を守るために必死のようです。そんな中、CG誌は伝統の重石のせいか、方向を見失ったかのような長い年月に止めを刺し,失うものも無い新たな門出となったようです。当初は焦点が定まらないような印象を受けましたが最近では新たな且つ過去のしがらみを背負うことの無い新鮮なコンテンツ&文体となり楽しみにしております。
その新風の中、コンテツあるいは日野エンスーにとって、とても貴重な新しい連載が新生CG誌に最近登場しました。それは、CG誌、2011年5が都合にある連載「速く、遠くへ」というタイトルによる武田 秀夫さん (ハイスピード・ドライビングの翻訳などでも有名) による初代のホンダF1のエンジニアとしての手記あるいは回顧録です。何故、コンテツあるいは日野エンスー?それはこの武田さんこそが若き技術者の時代に日野自動車でルノー4CVの国産化後の日野コンテッサ900のシャシー技術者だったと分析しているからです。ルノーと決別を図ったコンテッサの独特のシャシーを創る立役者だったのです。そして日野コンテッサ900スプリントのニューヨークショー出品後、伊ミケロッティ社での最終チューンアップ(走行含め)に従事されたと分析しております。コンテッサの歴史の中でも最重要人物と考えています。
しかし、ある時期、日野を去り、ホンダに移籍して、その後、「この速く、遠くへ」のようにF1の開発、そしてホンダ1300をはじめ、一連のホンダ車の開発に大きな貢献をしたようです。その様な関係のせいか、日野コンテッサの歴史からは欠落しております。日本の自動車メーカーでは人、あるいは個人というものは脈略をもって語られることがないのは(あるいはメーカーの極秘事項?)残念なことです。今回、この誌面の著者プロフィールで「1956年日野自動車に入社して日野ルノー、同コンテッサの設計、技術フォローに従事、...」とお書きいただきましたことは誠に感謝するものです。
因みに、氏が登場する過去の貴重な資料を参考文献に記しておきます。特にCARグラフィック、1970年4月号のHONDA 1300のインタビューは氏の実直な受け答えが印象深いものです。コンテツ&日野エンスーにとってそれらは歴史を知る上で欠かざるドキュメントです。日野コンテッサは誠に短命ではあったものの、歴史の脈略はホンダ車に受け継がれていると考えます。
と、いうことでここに紹介させていただきました。今年 (2011年) は氏が設計した日野コンテッサ900が発売されて50年を経た年でもあります。近い将来、可能であれば氏とお話が出来ればと思うものです。
ここに登場するホンダF1カーの開発者が
日野コンテッサと同じと思うと歴史の運命とか儚さを感じます。
仏アルピーヌ社開発のコンテッサ1300のGR100ベースのツインカム・エンジンを
日野レーシングのGTPプログラムのレーシング・エンジン向けに発展した技術者も
同様に後々ホンダに移籍して行ったと分析しております。そして、日野プロト、J494の
エキセントリックなYE28Eエンジンを開発技術者もホンダに移籍、空冷F1もエンジンを開発した。
参考文献:
- CARグラフィック、1970年4月号、163~166頁、HONDA 1300 設計者との対話、本田技術研究所 馬淵 亮三/取締役次長,武田 秀夫/主任研究員、入交 昭一郎/研究員、CARグラフィック,小林 彰太郎/編集長
- モーターマガジン、1959年9月号,118~122頁、日本アルペンラリーレポート、来年こそはの記,武田 秀夫・小林 彰太郎(註:日野ルノー4CVにて参加)
- ホンダF1,設計者の現場、スピードを追い求めた30年、田口 英治、二玄社,2009年3月25日 初版発行、"入交 昭一郎さんに聞く"、他
(江澤:サイトオーナー、オリジナル:20110416)
(Renewed, 2019.10.13)
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