2005年も早桜の季節となった (2005年3月当時) 。日野コンテッサクラブも33歳となるのでしょうか?その間には紆余曲折や危機を目にし、今日に至っています。最近ではおそらくクラブが出来上がる黎明期のことを知る人も少ないと思います。昔話をするつもりは毛頭無く、しかしこんな風に出来たということは、伝えておいた方が良いと考えます。皆さんに顔を会わせてない身としては肩身が狭いが、こんな背景だったと記憶の片隅にでも入れていただければ幸いです。
クラブ結成以前のクラブの存在
日野コンテッサクラブは元々「PD300コンテッサクーペカークラブ」の名称で発足したことは皆さんご存知でしょう。実はその前に日野コンテッサに関するクラブが創られていました。しかしゴーストだったのかも知れません。それは1971年の後半でした。ボクはその当時、メタリックモスグリーンのクーペとともに静岡県三島市の三島大社のすぐ近所の場所に住み、沼津ICに近い職場に勤務していました。
東京に3日遅れのモーターファンの中の記事に目に飛び込みました。何と日野コンテッサに関するクラブ設立の案内でした。発信人は神奈川県川崎市、仮にA氏としましょう。会費まで書いてありました。早速、手紙 (今の様に電子メールもない、電話もボクのアパートは無い) 手紙を書きました。その後、A氏のお住まいに伺うことになりました。確かその近辺の某電気メーカーの独身寮でした。
話をしてみると、A氏はかなりのコンテツ病のようで、ボクは話にはついて行けなかったと言うのが正直な第一印象でした。GRは馬力がないからと,日産のA型に載せ替えるとか、メーターパネル関係を全部電子化にするとか雲の上のような話でした。
A氏に入会金と会費を支払ってその場を去りました。その後の手紙のやり取りはありましたが、集まりもなく時間が経過しました。
八王子近辺の動き
一方、その当時ボクはYE28エンジンが捨ててあると言う巷の情報をもとに、日野市近辺の徘徊を繰り返していました。今,考えればそんな時間がよくあったと思うものです。残念ながらYE28は発見出来なかったものの八王子のS車体に行き当たりました。S車体は土地がら日野自動車のカタログ用のクルマのペイントとか日野自動車をよく知る立場にあることを知りました。
そこのオーナー氏と色々話をし、それからの何年かはボクのクーペのエンジン交換とか足回りの改造とかをコンテッサに未熟なボクはずいぶんお世話になりました。そこには近隣のコンテツオーナー、今思えば暴走族に間違えられそうな好き者が週末に時間つぶしをしていました。新井さんと出会ったのものそこであり、1972年でした。
今考えると共通した話は、「コンテッサ1300クーペ」を今後もどう維持したらよいかの一点のみ!その当時すでに日野自動車からの支援は皆無になっていました。現実に東京日野の葛西デポに部品を買いに行っても「何もありません」と倉庫の中を見せられる有様だったのです。S車体に出入りしているコンテツのオーナーに日野自動車の社員もメンテのために何人かいましたが、コンテツをおおやけに好きと自慢していたのは新井さんくらいでした。他の多くは社内で「コンテッサは禁句」になっているとかそんな言い方で、寂しい限りでした。コンテッサ1300の不採算が経営をおかしくしたのがその背景にあるようでした。しかし、そんな日野自動車の事情に関係なく好き者同士でコンテッサクーペ維持が話題の中心となり、自然に「コンテッサクーペ」のクラブ結成の話が持ちあがり始めたのです。
混沌&つばぜり合い
クラブ結成について、すでに先行していた川崎のA氏、そしてS車体出入りの連中の二者があったのです。そんな中、ある日A氏からクラブ結成断念の手紙がボクの支払った現金とともに届きました。電話をすると、A氏のもとに八王子から赤いクーペのツインカム車に乗った方が来られ、クラブをやるなら一緒に (おそらく八王子のメンバーに入れ?) やったらどうかと,言うことらしいと理解しました。A氏は結果的にやる気を失ったらしく、ご自身でのクラブ結成&運営は諦めたのです。両者間でどんな話があったかボクは今でも全く知りません。いずれにせよ、クラブ結成は八王子組のみとなりました。幸い、ボクは両者との付き合いがあったのです。
クラブ誕生:第一回ミーティング、しかし。。。
好き者だけが利害関係なく集まっていれば話は簡単でした。1973年の夏、集まろうということになりました。一応「クーペのクラブ」結成&第一回ミーティングとなりました。その時に声を掛けた全員が平日の夜、調布市の甲州街道沿いのスカイラーク (今で言うファミレスのパイオニア、調布店は由緒ある一号店のようだが。残念ながら今はない) 、愛車で駆けつけたのは、福生の広岡さん、青梅の三吉さん(当時、新潟)、三鷹の阿久津さん、八王子の新井さん、尾沢さん、立川の西原さん、調布の石井さん、大田区の羽藤さん、横浜の青木さん、そしてボク(江澤)の10人でした。
そこではお決まりの自己紹介、そしてボクを含めてS車体出入れの連中が口にしていたコンテッサ1300クーペ維持のための部品の件が話の中心となりました。日野自動車にどうのこうのと言うよりは、自分たちのアイデアで流用したり何とかなるのだと (結果的にこの精神が現在に継承されていると思う) 、そしてツーリングなどと夕食そっちのけで時間はあっという間に過ぎました。確か、「PD300コンテッサクーペカークラブ」にこだわった名称もこの時でした。そして会長は我々若い連中でなく、人生経験の長さと常識人でもある阿久津さんにお願いしました。
終了後は当然即席ツーリングとなりました。当時の調布ICから国立ICまで列を成して走行、八王子&立川組はその場で家路につきました。東京に戻る連中は勝手に走行と、こうなると飛ばすヤツはそれなりにと、競争意識も加わりました。かなりのハイペースとなりました。ボクの後ろにピッタリとついていた当時のポルシェ・ホワイトをペイントしたシャコタンクーペは、ここぞとばかりアット言う間に調布IC方向に消えて行ったのは、今でも鮮明な記憶となっています。実はそのクーペ、ドンガラ状態にパイプフレーム&ピローでチェリーのフルチューン・パワートレイン (A型1300cc) をミッドシップに載せたとんでもない代物だったのです。
さてその後、クラブ運営はどうかと言うと、当の言い出しっぺは新潟営業所勤務だったためか一向に進展しませんでした。何度か新潟に電話してお聞きしたが「その内やります」の繰り返しで一年以上を経過しました。一応クラブ結成はしたが、実は何も起こってなかったのです。まッ、皆で何時か集まるだろうと八王子組は楽観していました。
PD300クラブ活動へ:第二回ミーティング
ボク個人は折角集まったし、誰しも待っていることが気になった。そこで新潟に再三連絡、1975年の年が明けてだろうか、恐る恐る「こちらでやるから任してもらえないか」と切り出しました。幸いにもご本人も自責の念があったのか、ある時期オーケーとなりました。
そうなったらすぐ集めるしかありません。早速場所と日時を決定し、手分けして連絡が始まりました。時は1975年4月、場所はクラブ結成をした思い出の調布のスカイラークです。レストランとの事前の打合せが候をそうしたのか、日曜日にもかかわらず裏の駐車場は我々コンテツに貸し切り状態となりました。
第一回の出席者は全員集合したことは当然、加えて新たに高田さんを初め、遠くは静岡勢と人数も増えました。また、噂にあった京都近辺のグループにも声を掛けましたが、残念ながら時期早尚との利用で参加の実現には至りませんでした。ミーティングの内容は、クラブの趣旨を明確にし、賛同を得ることと、会長&役員の選出、そして今後の計画でした。
クラブの趣旨については、独断と偏見でそのために用意した内容は,お決まりではあるがツーリングとか走行会、部品の安定確保など、そのお手本として当時は今のように旧車のクラブなんてないので、CCCJとか参考になるものは少なかったのです。しかしCCCJはちょっと格式が高すぎるしと、ボクの本音は旧い時代のJMCクラブ (参考画像:旧いJMC参照) なんかでした。そう社会的なポジションを持ち、走る (それもスポーツとして) ことを楽しみ、会員の親睦があることでした。結果的に、身近な九段の東京トヨペットに行き、トヨペットクラブの案内書をいただき、参考として当日見ていただいた記憶があります。
会則については、これまた参考になるのがありません。上記のトヨペットのものと、JMCを頭の中に浮かべながらクルマだけにしたくなかったので、何と我が家の町内会規約から大分パクることになりました。今あるかどうか知らないが本人結婚/第一子誕生お祝いや事務局を会長宅なんかはそこにあったものです。これらはまた独断と偏見の成せる技でした。そして会則趣旨にあるような、クラブ行事として、「会報の発行」、「ドライブ会」、そして「コンテッサクーペ整備研究」の三つを掲げ、特典は「部品の安定確保」と「マシントラブルのメンテナンス」としました。
さて、事前の打合せ通り、会長選任も阿久津さんで満場一致となりました。そして8月の箱根ミーティングを約束し、スカイラークでのミーティングを終了しました。後は、有志でツーリングへと、調布から代々木に向かい,首都高速を経由、用賀出口のレストランで解散しました。
第3回ミーティング
ミニマムな会則も出来、会費の徴収させていただき,まがりなりにも「PD300コンテッサクーペカークラブ」の基礎が出来始めました。会務は会長の阿久津さん他3名(羽藤、三吉、江澤)でした。そして会報の第一号も出来上がりました。(参考画像:会報 1号参照)
当時、阿久津さんは毎週末のように松戸のボクの家にお寄りいただきました。ご自宅が所沢なので恐縮ではありましたが娘さんが隣町の柏に嫁いでいたこともあり、白いクーペを駆って毎週のようにお出でになり、短時間にとりとめのない話ついでに打合せをし、柏へと向かって行きました。また、大田区の羽藤さんも色々手を割いていただきました。でももっぱら彼とは話をすること以上に、あちこちを (お互い爆音を奏でながらかなり派手に) つるんでいたというのが実態だったかも知れません。
第3回のミーティングは当然、まがりなりにも「走る」イベントとしました。今では事前に警察の許可を得なければならないと思うが、先輩カークラブの例にもある「エコラン」を決行しました (所謂、低燃費競技) 。それもボクの大好きな (地元のようなものだったので) 箱根に決めました (参考画像:芦ノ湖一周ツアー案内参照) 。
コマ図を創るためにボクと羽藤さんは彼のコンテツで箱根へと事前の下見に向かiました。彼のコンテツはまだ軽かったころの「L」だったせいか、それともエンジン絶好調なのか、箱根ターンパイクでボクのコンテツはサードでなければ登らない場所を難なくトップでも加速するのには参りました。これもここではどうでも良い話ですが。
そんな準備をして、8月の箱根ターンパイク・大観山駐車場で集合をし、芦ノ湖一周、箱根峠の日石スタンドを終点に70kmのエコランとなりました。この日は新たに浜松のコンテツ大先輩、鈴木 隆さん (ルノーから歴代の日野オーナーで当時の雑誌にも登場。当時でも若くなかったと思うが自己紹介では「信号GPでは絶対に先頭、それがコンテッサだ」と温和な紳士もはばからなった!)一派も参加、総計15台のエントリーでした。エコラン優勝はそんな鈴木さんで15.1km/リッター、山坂道なので大したものです。表彰式は沼津IC近くのレストラン・トレビで行った。 (写真2参照) この日のミーティングはドライバー誌 (1975年10月5日号) に1頁ではあるが「永遠の“伯爵婦人”を愛する男たちの集い」として取り上げていただきました (参考画像:PD300 コンテッサ・クーペ カークラブ - 永遠の “伯爵夫人” を男たちの集い参照) 。
その年の秋には再びドライバー誌 (1976年1月5日号) に「国際エレガンス賞に輝くRRの名車、コンテッサクーペ大集結!」として大々的なグラビア特集で取り上げられ、「PD300コンテッサクーペカークラブ」は全国デビューと相成りました。その後はもうみな皆さんも良くご存知だろうと思います。「Old day is good day」の旧い話はこの辺で閉じましょう。
まとめ
以上の旧い時代を書きながら、次のようなことを念いいだきました。ボクはミーティングにもう出てないし、今は何もしてないし、墓場の影からの言葉だと思ってください。
ただの好き者の集まりもすこし大勢になればそれなりのルールが必要でしょう。しかし、発足当時、なぜクラブに足を運ぶのだろうかとよく考えたし、そんなことについてよく議論していました。
やはりそれは普段我々は会社組織や顧客と言った商売をしている中に居る訳であり、そんなことから隔絶したしがらみのない、しかも上下関係もない、お互い敬称無しで「さん」付け(外国ではファーストネーム)で呼び合える雰囲気を求めていたのではないでしょうかか?しかし、今はどうでしょう。これはコンテッサクラブだけの話でなく、世間一般論でもあるが、何かピリピリ感を感じます。
そう、会社組織のようなルールが知らない内に芽生えているのでしょう。ある人が言っていた「ぬれ落ち葉乾けば燃え上がる」と、昨今のNPOについて皮肉ったものです。それは、会社人間が会社組織を離れNPOを創っているが、多くは会社組織のしがらみとか方法をそのまま引きずっており、本来の目的から離れ、そこに居るためのルールを作りたがるとか肩書きを得たことで仲間意識が芽生えて安心感(安堵感かも)を得るということです。
人が集まればルールが出来ます。しかし趣味のクラブなんかはそんなものは最低限あれば良いのではないでしょうか?
最近英国で実験されていることがあります。それはある街の中の信号機を含む道路標識を全部取除いたことです。すなわちルールを撤廃したのです。この狙いは何か?社会はクルマ優先になり、すなわち強者優先のルールに成ってしまい,ルールが新たなルールを作り、交通事故の原因がそこにあると分析されたことです。今度は人間同士 (歩く人、クルマを運転する人) がアイコンタクト (目で合図。昔はみなそうだった) で相互秩序を保つことになったのです。これは将来に向けて相当なチャレンジではあるものの、一人一人のモラルを変えなければならないところが本質であります。これは今のところ成功のようです。問題は外から来た人達にまだ慣れが出来てないことだそうです。
この話を考えると、上記のNPOとか最近の旧車クラブ (コンテッサクラブ含む) の運営がオーバーラップします。会社組織の延長の様なルールだの小学校のような風紀委員ではあるまいということです。要は、JMCの話に戻ってしまいますが、クルマをどれだけ楽しむかだけの話です。そこにはかったるいルールを持ち込む必要はありません。アイコンタクトで十分ではないでしょうか。
コンテッサクラブはここ何年か「伝統ある」などとあちらこちらで語られているようだが、陽に当たる花だけに目をうばわれることなく、その根っ子も確実につまんでいただきたいと日頃考えており、その一端をここに書かせていただきました。
(江澤 智、2005.3.31)
参考画像:旧いJMC (1959年5月)
参考画像:会報 1号参照
参考画像:芦ノ湖一周ツアー案内参照
参考画像:PD300 コンテッサ・クーペ カークラブ - 永遠の “伯爵夫人” を愛する男たちの集い (ドライバー誌 (1975年10月5日号より)
本テキストは2005年3月に当時の日野コンテッサクラブの機関紙:PD誌に寄稿したものです。年の終わりの機関紙でコンテンツに総会の案内だけと当時の発行&編集担当の高田さんと話していました。それでは一筆書こうとすぐさま書いたがこの「 PD300コンテッサクーペカークラブ立ち上げの思い出」でした。
これを書くことになった背景は内容の末尾の「まとめ」にある趣味であるクラブに変な暗黙なルールあるいは明確な制度が次々と芽生えて来たようで息苦しさを感じていたためです。そのためにどうやって、なぜクラブができたのか、ルーツを知ってもらいたいとまとめてみたものです。
これで雰囲気が変わったかは未知数です。一応、立ち上げ当時のことをまとめておいたのは自分としてはよかったと思います。「まとめ」にある内容の気持ちは今でも変わるものではありません。
(2018.11.13 江澤)
(SE, Original, 2011.11.28)
(Refined 2018.11.13)
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