2024.11.18 日野プロト J494 6A号車のその後? 1966年、日野自動車はYE28エンジンを搭載した日野プロトの新型 H494を船橋サーキット、そして富士スピードウェイで熟成し、8月14日の全日本レーシング・レーシング選手権第3戦のスポーツカー選手権レースに6A&7号車の2台が出場、7号車 (山西選手) は総合3位 (1位:カレラ6,2位:コブラデイトナ) を獲得しました。 しかし、日野コンテッサ1300市場撤退、レース活動も頓挫しました。左ハンドルの7号車はその後、DEL RSB (後にケロヨン号) に化けました。しかし、右ハンドルの6A号車は、地方の展示イベントには供されましたがその後は謎につつまれていました。 ここ1年余り、行方について確信できるのが画像の個体です。CARグラフィック 1969年6月号、1969年4月6日、富士スピードウェイ 第一回富士300kmレースの出場者で北原 豪彦さんの「北原スペシャル」です。ボデー&ロールバーの形状から見ても日野プロトのトップをチョップしたものです。 これはCG誌の記述 (画像のキャプション) を分析すれば容易に日野プロト (6A号車) の成れの果てであることが明らかであります。何十年かの謎が解けたようです。みなさんはどうでしょうか?また機会あれば北原さんに直接お聞きできればと思うものです。 北原③も、北原スペシャルを自ら造り上げてきた。コンテッサのシャシーにクーパーF3のサスペンションを組み合わせ,日野のウェバーキャプレターつきDOHCエンジンを搭載したこのプロトは、期待されながらも2つのシリンダーが圧縮不良のためとバルブの調子が悪かったために、ラップタイムは2分55秒11と振るわなかった。この車の車重は590kgだが、今回のレースに間に合わせるため、鉄板をボディの各所に使用したので,そのすべてをFRP製とすれば20~30kgは軽くなるという。…..期待の北原③はラップ9,彼自身の7周めにオイル漏れおよびエンジン・タペットつき上げなどの理由でリタイアした。今度はこのボディにセンチュリー用31V8を載せて出場するという。