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前回、本稿アップしたのが9月、大分時間が空いてしまいました。少しギアアップしてシリーズの完結に向かいしょう。今回は1965年のパリ・モーターショーです。
前回の1964年編はエッフェル塔を前にしたコンテッサ 1300セダンでした。
今回の冒頭の画像はルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Arc de Triomphe du Carrousel) の前のコンテッサ1300セダンです。この画像も当時のプレス向けに多用されました。
画像の女性は先のエッフェル塔と異なりますが、コンテッサの個体は3047 WW75のパリの仮ナンバーを持つコンテッサ1300セダンであると分析します。
また、おそらく1965年の初めには待望のクーペも到着したようで、雪景色ではあるものの、恒例のブルーニュの森での撮影があったようです。
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国内仕様のようにサイドの日野マークはなく、代わりにJM、すなわちミケロッティ・マークが付いている。また、フロントにサイドミラーはないのも実にスッキリしている!
さて、日野自動車の小型乗用車の師でもあるルノー 公団 (当時) の本拠地、フランス&パリで4CVから進化し、純国産車であるコンテッサ1300を発表&販売すると言う壮大な夢はどうなるのでしょうか?実は1964年のパリーショーでのデビューの際から、フランス人コンサルタントを起用した様々なアクションが見られます。その第一歩がフランスでの代理店設定だった様です。
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左のお方が日野自動車のフランス進出プロジェクトに雇われた自動車業界コンサルタントのM. Garnier氏と分析。撮影場所はAutodrome de Linas-Montlhéry (オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリ) と呼ばれるサーキットの正面ゲート前に間違いない (Google マップ参照) 。右のお方は、おそらく人相&服装からこの施設の担当者だろうか?他の場面でも登場する人物である。
そしてPR向けのメディア対策、フランス自動車雑誌のナンバー1のL’AUTOMOBILEの1965年5月号に有名ラリードライバー&ジャーナリストにより “HINO… une japonaise“ として、日野コンテッサ1300セダンは、OPE: REORDやFIAT 124と肩を並べて大々的に試乗レポートと共に詳細な紹介記事となりました。
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評価には、ロードホールディング良し、しかしブレーキングに不満、エンジン音が騒がしい、サスペンション が硬すぎる、ギアのシンクロが温まると障害あり…などが書かれています。自分の感覚とドンピシャです!詳細はこちらを参照:196505_L'AutoMobile_Hino.pdf
販売チャネルについては、E. Dujardin SA社 (パリ12区、323. RUE DE CHARENTON) と契約できたようで、以下の様な広告も上記のL’AUTOMOBILE誌にも掲載されるようになりました。
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HINO - ROBUSTESSE FINITION JAPNAISES、英語ではROBUST JAPANESE FINISH、つまり "堅牢仕立ての日本車" であろう!オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリでの白いセダン (7152 W 75) は、”MADE IN JAPAN" がドアに描かれている。”信頼の品質の日本” みたいなものがM. Garnier氏の戦略だったのだろうか?
1965年は、実車の販売に向けて大きな進展がなかったように見えます。その背景の一つには、フランスでのホモロゲーション、日本で言えば、運輸省の型式認定に相当するものが得られなかったと分析します。もう一つの問題は日本からどうクルマを送るのかの問題も根底にあったと考えます。
しかし、そして1965年のハイライトはやはり本稿のテーマである第52回パリ・モーターショーです。何といっても前年の1964年含めも当時の日本のOEMは日野自動車以外、この場には居なかったのですから!
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第52回パリ・モーターショーの日野のブースには当時のシャルル・ド・ゴール大統領 (18代、Charles de Gaulle) の来られ、コンテッサ クーぺを見学されたようだ。中央の大統領の右横には、日野自動車のコンサルタントのM. Garnier氏がおられる。大変、貴重な歴史の記録と考える。
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このレイアウト図から診ると、上のクーペの画像の向こうにはGLASが正しく見える。想像が膨らんで面白い。手元にある他の画像などの分析をすると、日野の右隣のSBARAは出展しなかったようで、そこにはコンテッサの白いセダンが鎮座していた。
1965年、このように販売チャネルや価格設定もされたものの、販売開始は至らなかった様です。それについては、次回に記述しましょう。
以上、紹介の各種、画像や雑誌、これら多くはパリの例のクルマ専門の古本屋で入手したものです。それも一回で集まったものでありません。以下の白いコンテッサセダン (1009 W 75)、L’AUTOMOBILEの1965年5月号の試乗に使用された個体、この写真もこの古本屋で入手しました。その裏には、なんと “L’AUTOMOBILE” も印 (参考までに、画像に貼付け) が!寸法などいろいろ表記があり、おそらく編集に使われたものと分析、そんなものが流れて来る、パリの古本屋です!
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冒頭画像のルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Google マップ参照) に、ビジネストリップの縁があり、ついでに自分の足で出向きました。この前でコンテッサ1300と当時の日野自動車の内田 一郎さん (素晴らしきカー・ガイ達) たちは欧州進出を目指していたのかと、勝手な妄想をし、感無量でいたことを昨日のように思い出します。実はその後も機会あればこの地を訪問しています。自分にとって、幾つかある日野コンテッサ1300の聖地なようなものなのです。
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