日野自動車のコンテッサ1300の米国進出を目的として1966年の1年間、ロサンゼルのBRE (Brock Racing Enterprises社にコンテッサ1300のセダンレースの開発並びレース出場に当時としてかなりの金額の投資を投資しました。その間にBREオーナーのPeter Brockさん自らのアイデアで米国でもイタリアンカロッツェリアに負けないデザインができるなど自らの投資でボデーのデザインし、市販シャシーを利用し日野コンテッサ1300用のGR100 OHVエンジンを搭載したのが、俗称 “日野サムライプロト” 、正式には “The SAMURAI” であります。(参照:ピーター・ブロック (Peter Brock) 物語)
一般にかなりミステリアスな諸説が語られています。それは特に日本だけでのことではないかと分析します。世間一般にある単なるプロトだけで終わったクルマ (例えば、1965 DeTomaso Sport 5000 prototype (Googel Images) や1964 Bertone Alfa Romeo Canguro (Googel Images) など) などはミステリアスであるかも知れません。すなわちビジネス上の投資と意図の下に製作しただけで、その際のデザインなどの評価だけで終わり、その後、クルマ本来としての実力をもって何の活躍もなく、スケールモデルがごとく保存・展示などのために未だ生息をし、俗に名車と呼ばれるものがあります。
しかし日野サムライプロトはそれに比べればミステリアスな部分は一切なく、明確な “車生” 、すばわちクルマとして人生が明確にあります。また、1/1のスケールモデルのようなデザインだけのプロトではなく、1966年のたった1年間のBREの日野コンテッサ1300のレース活動の契約の完了後、いわゆるクルマとしてハリボテ状態でBREから放出された個体は、個人のただならぬ投資と努力でさらにクルマ本来の走るための性能を付け加え、地道に進化を図っておりました。
それを世代別にすると以下のようです:
ゼロ世代 - アメリカ人によるイタリアンカロッツェリアへの挑戦
クルマの完成個体は存在しないものの日野サムライの発展の経緯を考察する上で重要な点について分析を基に記します。ボデーの製作はロサンゼルス近郊のCulver Cityの Dick Trutman and Tom Baranes (T-B、Google Images) のショップで製作されました。Scarab sport-racing (Googel Images) や Chaparral 1 Sports Racing (Googel Images) はT-Bのもっともよく知られた作品です。
ここでゼロ世代、すなわち第一世代の前世とした訳ですが、それは最終的に製作されたボデー形状がデザイナーのオリジナルに意に沿わない部分があったようです。どこがどうということは別として、第一世代として世に出た (あるいは日本にやって来た) 物理的な個体の形状は、T-Bの意 (あるいは解釈の違い) に沿ってしまったものが具現化されたあるいはおよびコスト&時間的制約の複合要素と分析しています。すなわちオリジナルの形状と若干異なった妥協的産物だったと見ます。しかし、これは正確な図面がある訳でのありません。確認のしようもありません。ただ、そのような証言があるということです。
さらに二台製作すると計画があったようです。実際,2台目の完成個体はないものの、それを進めた経緯を物語るのが以下の画像です。複雑な外板パネルについては製作されていたこと示すものです。
第一世代 - ショーカー誕生
上記のようにBREに於いて自身の資金で製作、そして1967月4月のトヨタの業務提携によりレース事業からすでに撤退してしまった日野自動車としてではなくBRE個人として1967年第4回日本GP (wiki、JAF) にエントリーしました。ボデー前面の ”SAMURAI” のロゴの下に”HINO MOTORS LTD.”のロゴとありました。
しかし何の準備もない走行テストもしてない日野製GR100 OHVエンジンを搭載した個体はレーシングカーとして当然のことながらまともに走れるものではありません。競技目的であるべき試験を全くしてない個体は富士スピードウェイですぐにその洗礼 (最終的に車検失格) を受けたことは当然の結果あります。本来はデザインを鼓舞するショーカーの舞台に出るべきとその場に居合わせた識者の言葉を思い出します。(参考:日野サムライの車検失格について:サムライ・スピリットは何処に?)
その後、米国でのレース会社:BREは日野との関係を解消、すなわち契約切れとなりました。すぐにすべての資産が処分されました。これは企業として当然のことで、所有して居れば資産として税金が発生します。資産は分散され、多くは近郊のカレッジに寄贈されました。所謂、税金が発生しないということです。(参考:「L」の検証 - コンテッサ1300クーペ L、国産まれに見る競技専用車 - BREのコンテッサ資産、カレッジに供す)
日野サムライプロト&関連部品は近隣のトライアンフのデーラーのオーナーに売却 (物々交換?) 、この段階・世代の個体自身はレーシングカーとしては全く戦力のない “ハリボテ” のままだったと、言わばコンセプトカーのようなまともに走れない1/1スケールモデルだったと分析します。
以上のような事実があります。しかし、当時はメディアの分析なき報道にしか情報を得ない日本特有な社会であったと思います。この時代の情報が結果的にもっともミステリアスかと思います。それが今でも続いていると分析します。今で言うネットのFakeみたいなものでメデアは言質をとることなく、さらに自ら事象の元を検証することもないのです。この困った現象は今日も変わってないようです。
第二世代 - ショーカーからの脱皮:非力だった戦闘力なき時代
個人の手に渡った60年代後半から70年代初期、カリフォルニア州リバーサイドインターナショナルレースウェイ (Riverside International Raceway) でのタイムズGPなどの前座でレーシングカーとして個人の投資で走るようになりました。色もある時期に白のアメリカンレーシング(正確にはパールホワイトか)に実践的に大きくイメージを変えました。PolyToysの1/43 (Politoys #580) がなぜ、白なのかということ(赤も少なくあるけど)がここに理由があります。
結果を見ればレーシングエンジンとして真の熟成にほど遠かった日野製GR100エンジン、言い方を換えれば、その時代としては競争力の低い、そしては付け焼き刃的に載せ替えた日野コンテッサ1300の改造 GR-100-YE28Bエンジンも実力発揮に至らず、いずれも全く戦力不足だったことは間違いありません。
(当時のレースプログラムから - LOS ANGELES TIMES - 14th Annual GRAND PRIX)
第三世代 - 真のレースカーに:全体を変え成功した必然のREBORN戦略
70年代に入り、新たな個人の手で日野GR100からFIAT 124 ツインカム・エンジン (Google Images) 換装するもののこれまた戦力不足、最終的にやはり戦力のありそうな日野製GR100-YE28Aをメルセデス系のレースエンジン経験のあるエンジニアとともに大幅な改造を施し熟成を進めました。日野のベンチでは110馬力程度だったものが数年を経て140馬力、アルファロメオの部品や新たなカム (Isky) によりパワーバンドはたったの7,200〜8,200rpmへと進化しました。
同時にシャシー製造元のルグランド社でシャシーの強化とリヤサスペンションの根本的なアーキテクチャ・チェンジを進めました。また軽量化と簡素化を進め、高速バンク対策を図りました。そして数年、1975年前後、SCCA SWリージョンに年間シリーズ戦に50戦弱戦い、3年連続オーバーオルチャンピオンを獲得しています。
結果的に年間シリーズチャンピオンを称える栄光のカーナンバー "1” (画像を参照) を複数年にわたり所有しています。SCCAの内部ではこの時代がもっとも知られています。ただし、ナショナルのレースではありません。ポイントはこの時点で、すなわち制作から10年を経て、クルマそのものが当初のものから大きな進化をしたことです。つまり外観形状は似ていても内部の機能は非なるものと解釈します。それは走るクルマであるレースカーであり、時代とともに進化したのです。決してオリジナルには戻すことは無意味であり、それは敗退を意味すると考えます。この辺が冒頭に記述した単なる見せるだけのプロトタイプであった1965 DeTomaso Sport 5000 prototypeや1964 Bertone Alfa Romeo Canguroと大いに異なるのです。決して同じ土俵で語ることはできません、あるいはすべきではありません。
そしてオーナーはビジネスの関係で1980年代中まで納屋にストレージしていました。オーナーは売却を決意、日本の日野自動車に正式に問い合わせしました。すなわち日野自動車が所有するのがベストであると考えた訳です。しかし、日野自動車の役員レベルでの決定は、そのような意思はないと棄却され日野自動車への売却はもろくも短時間に消えました。
この日野自動車の決断は正解だったと考えます。例えば、2018年に修復され公開されたダイハツ P5 (Google Images)の場合は、投資と制作が明確にダイハツであり、社の技術の継承 (先達に学び、そしてその再現を現物で実証、つまりそれは社にクローズされたもの) として大きな意味があります。しかしはThe Samuraiはそれとまったくレベルの違うものでマーケティング的に "Hino" のロゴをしょったものの主要且つ直接的な投資&製作 (および最終的に機能の構成要素の全て) は日野自動車の関与がないことです。また、例え、日野自動車がこの個体を所有しても (実際にその機会は与えられたが残念ながら辞退した) 、今の日野自動車の旧い保存個体をみれば、答えは明らかで、歴史&文化として正しいモノに出来ないと考えます。また、修復方法にしてもその技術は皆無に等しいものです。もっとも文化としてこの個体を理解できることが前提条件であります。
日野自動車への売却に頓挫しましたがオーナーはピートさんと相談、ピートさんが一時あずかることでオーナーを探すことに、その話はすぐに決着し、次の第四世代のオーナーに売却することとなりました。
(参照:HINO SAMURAI By Ron Bianchi)
第四世代 - オリジナルには戻れない:更なる別物になったREBORN “The SAMURAI”
80年代半ばから10数年のストレージを経て、レストアでなく、第三世代に続くさらなる進化のための修復、リノベーションを進められています。ほとんどが事実上全くニュー&現代の技術のシャシー&ブレーキの強化、ジオメトリーの変更、ボデーパネルの大幅強化 (オリジナルのハリボテ構造ではなくなった) 、その他含め、新たに一台制作をするようなプロセス&努力です。
ミステリアスと称されるデ・トマソやアルファロメオ・カングーロのように量産エンジンではなかった日野製GR100-YE28Aエンジン、ツインプラグ&ディストリビュータ、ダイレクトギアドライブのウォーターポンプ&オルタネータ、ドライサンプと当時としては日本製としては先進的なメカニズムでありました。何処にも存在しない唯一製作された世界でたった一機の日野製YE28AエンジンのOH&さらなる進化・強化には苦難が予想されています。日本に来た1967年当時のGR100 OHVエンジン搭載に比べてとんでもないほどのプロセスが必要であり、しかも情報が皆無に等しい、しかし第三世代のオーナーが同じ条件でできたのですから出来ない筈はないでしょう。
日本GPにやってきた時のようなGR100エンジン搭載は簡単なことですがそれでは全く魅力がないことです。走ることが求められないショーカーならそれで十分でしょう。第一世代と第二世代半ばまではコンテッサクーペ用の単なるOHVエンジンでしたが、第三世代の後期の戦歴を上げた時代からは本当に走るために日野製GR100-YE28Aエンジンを個人オーナーの莫大な努力で大幅に進化させていたのです。それを継承&進化させることに尽きると考えます。
まとめ
以上のようにいずれもの世代でも走るための進化をしております。オリジナルからの発展・進歩を明確にしており、特に第三世代以降は個体そのものが大きく異なります。簡単ではありますが、これはこれで上記のデ・トマソやカングーロなどとはまったく異なる “車生” であり、すなわち、プロトだけに終わらず、実際に走って貴重な戦歴がその後の人生、いや “車生” により大きな部分 (ヒストリー) があり、その意義を理解する必要があります。
(Updated, 2018.10.4)
(Renewd, 2020.5.11)
(Renewd, 2021.6.18)
(Refined, 2021.10.26)
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