愛知県西尾市在住の鈴木さんのクーペLが昨年 (2004年当時) 遂に完成し、しかも何とロードライセンスまで取得されました。サムライのクーペLの姉妹車を所有する(写真1:チームサムライ 1967年シーズンに向けて!)ボクとして心からお祝いします。この鈴木さんのLは80年代末、まだロサンゼルスにあったころから行方を見届けていました。本稿はエールを送る意味でも書いてみました。コンテッサ1300クーペLについては多くの事実が知られてないのではないかと推測します。単に「L」、すなわちライトウエイト (軽量) だけではない多くのナゾに秘められた事実がああります。これらをボクなりに検証して見ます。
Lの検証
世の中にLを車両名称に与えられたのは一般車ではコンテツ以外はポルシェ911ぐらいではないでしょうか?そんなことを出来てしまうエネルギーが当時の日野自動車のどこにあったのでしょうか?
1966年の1月に2台の特別製のクーペ (写真2:コンテッサ、チームサムライに夢を託す!) がチーム・サムライのブロックレーシングエンタープライズ (以後、BRE、所在地はロサンゼルス空港脇のエル・セグンド、オーナー兼メカニック兼ドライバー:ピート・ブロック (wiki - Peter Brock) 、ドライバー:ボブ・ダンハム (wiki - Robert Dunham) 、他) へと米国西海岸でのセダンレースの素材として船出されました。
1965年末の契約の際のBREの要求は、FIA (国際自動車連盟) のホモロゲーション (公認、所謂ホモロゲ) にはこだわらないものの極限まで軽量化したクーペを望んでいました。しかし、その時点でそのようなもものは望むべくものではなく、結果的に簡素化した艤装と900ベースのバケットシートの900Kg弱の市販クーペの特別製でした。BREではこの標準ボデーをベースにSCCAセダンレース仕様に仕立て上げました。1966年のシーズンは、結果的にエンジンとシャシーの熟成だったようです。最終的に1966年10月のLAタイムズGPのセダンレースに於いて、打倒ミニを果たし勝利を得ました。一応、契約の最低条件&目標をかろうじて達成しました。
このBREのプロジェクトと並行して、国内レースにも標的を置いた重すぎるボデーの軽量化の検討がとにもかくにも行われていました。
その仕様(*1他)は以下のようなものです:
- 競技用目的である。
- クーペのスタンダードの類別とする、しかし前照灯は4灯とする。
- 車重は極限まで軽量化する(公称830kg、レギュレーションで815kgまで可能)。
参考:「L」の検証 - コンテッサ1300クーペ L (続):軽さを秘密を検証する - 高速走行のためにシート形状を変更。
- 運輸省登録&販売に於いては旅客運送目的とはしない。
これは何を意味しているかというと、ホモロゲのためのペーパーワークであり、一般市販はしない。 - 等など。(仕様参照)
Lの製造
1966年当時(夏前と推測)、ある時間、一般のボデーの生産ラインを停止し、「L」を造るためにプレス含めて、必要な部分に0.9mmに代えて0.7mm厚を流し、20台の軽量ボデーを作り上げ、 軽量化対策の艤装(左ハンドル車含む)を施したのです。そして、一般車両とは別管理され、おそらく多くはシャシーナンバーも打刻されず、工場のとある場所に保管されたと推測します。この理由、すなわち現物検証は、Lの一号車は、シャシューナンバー:1900番台、そして最終は3000番台と少数生産の割に拡散しているためです。
これらの情報は1970年前後、ボクらの仲間うちでまことしやかに流れていた噂でもsりました。20年を経た後のオールドタイマー誌「悲劇の伯爵夫人」連載執筆プロジェクトの際に、日野の当時の担当者から話を直にお聞きする機会がありました。その噂は当事者の証言と大きく異なることはありませんでした。
そしてカタログも何とちゃんと制作されていたのです (これもホモロゲのためである) 。4ページのカラーカタログ、R124-66.7 (LP) は1966年7月に制作&印刷されたのです。20台のLはこの直前に生産されたことに間違いない訳です。たった20台のためにカタログが制作したことをどう評価するか?「販促」が目的ではなく、(ホモロゲのたのに) 「存在」が目的だったと分析します。
Lのオーナー
さてこの20台の「L」はどのように市場に出ていったのでしょうか?
まずは国内の所謂ワークスである塩沢商工へは、当時の資料によれば1966年9月の末、4台送られました。2台はGRエンジンでレーサーとして活躍した筈です。コンテッサの販売を完全に中止した1968年には、更に残る1台はトヨタのV8をミッドシップに搭載したレーサーとなり、ある時期グループ5として富士で参戦していたようです。もう一台はGRエンジンの場所にV8を搭載したデルダンディツーリングに化けたのです。
一般ユーザーにも流れ、多くはプライベートなレーサーが購入されたようです(写真3:諦めず!第5回富士ツーリストトロフィーレース 500マイル 耐久)。また、コンテツの中古が多く出回っていた1970年のある時期、ボクは四谷のG自動車(日野乗用車専門店)で1台のLがあったことを目にしています。あの「L」は、今どうしているのか気になるところです。理解もされず解体の運命となったのでしょうか?
Lのバリエーション
もし当時のトヨタとの合意がとれて、コンテッサを継続生産&販売をすると言う前提が必要ですが、それはコンテッサの市場撤退が前提条件としていた1966年10月にトヨタとの提携発表直前まで、社内の現場レベルで非常に短い期間検討されていました。おそらく、1966年8月14日の富士での日野プロトの勝利、また奇しくも同じ日の米国リバーサイドでのBREの初勝利 (後に取消となってしまったが) もあり、社内的に更なるレース活動拡大に行く手阻むもの無しの雰囲気があったのではないかと分析します。
ノーマルエンジンの「L」に加えて、クーペSL("S"はスポーツ)としてYE27 (参照:日野のエンジン) 、日野プロトに搭載されたYE28 (参照:日野のエンジン) とは異なる言わばノーマル仕様のGR100発展型ツインカムエンジンであります。その時点ではまだ80馬力に満たず、市販にはあと15~20馬力以上の努力が必須だったものの5速ミッション、強化大径ブレーキ&対向型ピストン (住友ダンロップ製、Dunlop MK2系) 、14インチホイール&ロープロファイルタイヤ装着と言ったものだったと推測します。これは実際、おそらく熟成中の現物もあり、その気になれば翌春にこぎ着けることが出来たでしょう。SLの想定販売台数は「L」と同様20台でした。
Lとチーム・サムライ
すでにお分かりのように米国で1966年に実績を残したレーシングコンテッサはすべて軽量ボデーでないすなわち「L」でない標準ボデーであった訳です。
マーケティング上、1966年度の米国西海岸でのセダンレースの結果は大成功であり、1967年での西海岸を中心にしたクーペ販売も夢でなくなったと予感させるものでした。そこで「レースはクルマを売る」のセオリー通りに、コンテッサ生産中止の嵐の中にも関わらず1967年度のプロジェクトが日野の中の一部にあったのです。
1967年レース活動に向けてのBREの要求は4台の軽量化クーペとFIAのホモロゲーションでした。ピートとボブに2台、2台のスペアであり、その1台は左ハンドルでドライバーをつのる、所謂金を払ってチームカーでレースをする人をつのる方法です、残る一台はスペアでした。(*2)
この要求書にあるクーペがすでに生産が完了していた「コンテッサ1300クーペL」だったのです。
実際には、シャシーナンバーPD300-103308と3309を標準クーペの生産時期のそれに矛盾のない連番の番号を打刻した2台(共に右ハンドル)の「L」が1966年末ないし年明けにBREのもとに送られたのです。BREではこの2台の「L」を1967年のレースシーズンに向けてチームカーの製作並びに初期テストを進めました。日野側ではシーズン開幕に間に合わすべく、FIAのホモロゲーションを極短い期間に注力することになりました。
このFIAのホモロゲ (*3) にはいささかの疑念があます。当時のグループ2に必要な1年間1,000台生産の条件があり、それは現実的ではないのです。書類上では1965年4月 (実質的に標準クーペの販売開始) から1966年3月までにそれが達成されているのです。すなわちその期間に1,000台もの「L」が誕生していたと解釈しなければなりません。しかもシャシーナンバーの開始はPD300-100061です! 事実上、それは標準クーペの初期ロットです。運輸省への届け出の「L」の生産開始はPD300-1001920からであり、しかもそれは1966年の春以降と推測するものです。。
いずれにせよホモロゲの取得を済ませ (写真4:軽量ボディー車、FIA申請!) 、BRE要求の4台ものLによるチームカーは実現しなかったものの、まがりにも1967年の春には戦闘準備が整ったのです。しかし、日野のM監査役を中心とした当事者達が望んだクーペだけは存続させる且つ米国輸出をすることは、トヨタ戦略の下では存続出来るものではなかったのです。
日野自動車の米国進出頓挫
米国でのレース活動は消滅し、その財産は様々な処理がなされ、部品の多くはチェフィ・カレッジ (Caffey Colloge、ロス郊外のオンタリオ) に寄贈(これは税金の関係らしい)されました (写真5:BREのコンテッサ資産、カレッジに供す!) 。
PD300-103308の「L」は1967年9月のサンタバーバラでのレースを最後に、おそらく米国での参戦はこれのみ、エントリーはボブ) に日本に帰国しました。ロバート・ダンハムや山西 喜三夫が数少ないが富士のレースに参戦し、また第1回東京レーシンガーショー (1968年3月) に展示しました(写真6:最後の晴れ舞台、第一回東京レーシングカーショー!)。ここまでの活動は日野の資金のもとに進められました。その背景には1967年末の日本での生産終了での市場での混乱を避けるべく、すなわちローンで多くのコンテッサ1300が販売されている訳で、その対策の一つとしてレースの場にコンテツを残したのです。
その後のある時期にボブは、当時の極東商会の社員であり、個人でもコンテツセダンでレースをしていた友人に売り渡しました(この時期、オートスポーツ誌に売却広告もした:写真7:終焉、運命の分かれ道!)。その購入者は3308を当時の日野の関係者の手を借り、レーサーそのままの状態で2シーターとして新車登録を手にしました。規制がゆるやかな昨今と違って大変は努力だったと考えます。その後、1976年の末、縁あってボクが譲り受け、現在に至ります。当時、その方がおっしゃった「このクルマは警察から何度質問を受けるか分かりませんヨ」を今でも鮮明に記憶します。
ピートがドライブすることになっていたPD300-103309は、1968年末と推測するが、3308の様に帰国せずに、Southern California Import Dismantlers社(ロサンゼルス郊外、解体・引取屋兼投資目的の輸入車専門のビジネスみたいなもので、ポルシェ356など長期キープした後、有望顧客(ローカルや日本など)に売りさばく、3309もそんなものの一つと推測)に引き取られました。そこのオーナー、Daleの話によれば彼が何度かレーストラックに持ち込んだと言っているが、結果的にその社に長く鎮座していたと推測します。その後、1980年代末には日本への販売の打診があり、多くの業者が手を出したようです。当時の日野コンテッサクラブの中でも複数の話が横切っていたし、その一つとしてカーマガジン誌の中の当時の広告は400+万のプライスタグでした。結果的に3309は鈴木さんの手に落ちました。その当時、この3309の行方が気になっていたが、鈴木さんのところで落ち着くところに落ち着いたとホッとしたのを今でも記憶します。
Lのドライビング
新車当時のフィーリングは知る由はないが、BRE製の「L」を持つ身から簡単に述べて見ましょう。純レーサーであることのメリット&デメリットを除いて、一言で運転がし易いということです。それは軽い故、発進&加速に無理がない、止まるも同様だ。標準ボデーで加速したい場合、一速でかなり慣性をつけないと、二速の加速につながりません。それが全くないと言ってよい、「L」の場合、例えば、2速 (富士用) で気持ち良くすぐさま100km/hに到達、止まるも同様、瞬時です (これらは標準クーペとの比較) 。当時、友人のサニー1000クーペ (今でもボクは欲しいと思っているベストなライトウエイト・クーペ) を乗った際の軽快さのようです。また、上半身が軽くなっているので重心が低いことも良い印象の要因の一つです。
なぜ日野が最初からこの重量でコンテツを世に出さなかったのかと思うものです。すくなくとの同時代のルノーR8は競技用でもない一般車で同じ大きさ&エンジン容量で800kg前後だったのです。当時の日野自動車の技術としての限界もあったのでしょう。
数少なく生産された「L」も運良く当時以上の状態で奇跡的に2台共に残存します。鈴木さんの「L」は当時以上に体力強化を図られたようで今後の活躍が楽しみです。ボクの「L」も当時以上なスペックにすべく手を入れています (決してレストアではない)。完成したらボクの身の程に合った走れるイベントに再び参加させたい (2004年当時の記述、写真8:20年を経て、再び晴れ舞台、第31回東京モーターショー(1995年)!) 。
以上は、複数の当時の関係者の話、様々な角度から入手した資料、また実車をもとに、分散してしまった事実をボクなりの整理&推測で一つのソースとして纏めてみました。
纏めた後の雑感
サニー1000クーペのことを書いたが、その当時としてクルマづくりの違いを大きく感じます。すなわち、コンテツは時代がとても古いと言うことです。また、1969年に出た三菱コルト、特にAIは73/77mmロングストロークの1300cc、ボデーもコンテツサイズ、しかし車重は810kg、馬力は88HP!これは明らかに新たな時代に突入したことを意味したのです。羨ましくも思いました。日野自動車がコンテッサマークIIをもってしても、それは小手先のグレードアップに過ぎず、市場では戦力不足であったことは間違いありません。しかし、今となってはそんな比較や危惧の不要です。コンテツは1964年発売のクルマであります。その時代での技術の比較であり、その後新しいコンテツの歴史に無いのです。その1964年当時では不可能だった技術を、今新たに自分達で詰め込むことが出来るのだから!(写真9:半世紀を経て、旧車は "走ってこそ” !)
【参照資料】
- 資料1:日野PD300型(類別追加)、一部構造変更届出資料(対運輸省(当時))
- *2:1967 Racing Season for BRE (R. Dunham)
- *3:FIAホモロゲ資料、FIA Recognition No.1444
- その他参照資料:日野デーラー・ノート(生産&出荷時期とシャシーナンバーの対応を裏付ける)
【関連ページ】
写真1:チームサムライ 1967年シーズンに向けて!
1967年シーズンへのBREのチームカー。この写真は1967年の3-4月にBREのオフィス(後によく知られたBRE510や240Zレーサーがこの場所で誕生する。ロサンジェルス国際空港近郊のEl SegundoのOregon St.,(当時から長い間レーショングショップの聖地でもある、画像の場の参考:グーグルマップで見る)で撮影されたものと推測。理由は2台の車両がまがりなりにも完成していること、且つそこにはヒノサムライプロト無いこと(4月末に完成)。
手前の73(ピート車)が3309、55(ボブ車)が3308である(共にローダウンシャシー)。
その次の58が標準ボデーベースのスペアカー(左ハンドル)、そして日野KMバン(エンジンはシボレーのV8に換装)、これら2台は現在もそれぞれ米国の愛好家が所有。
写真2:コンテッサ、チームサムライに夢を託す!
BRE向けのスタンダードグレード車をべースにBREの要求に沿って足回りや計器、艤装類など競技用にしたクーペ。日野工場にて、1965年末あるいは1966年始めと分析する。
写真3:諦めず!第5回富士ツーリストトロフィーレース 500マイル 耐久
当時のプライベータの「L」、須永選手の個体。
この当時、このクルマのシャシー&パワートレインは、結果的にボブの計らいでBREそのものだった。シャシーはローダウン、エンジンは日野のベンチでもテストされたBRE製ストローカーの1,446cc (72.2X88.4mm) 、そして日野製富士用5速ミッションへと進化していた。
末期にはビニール製のリヤサイドウインド、テールレンズは赤く塗った電球と壮絶な状態で、公認期限ギリギリまでホンダ1300と善戦していた。
この個体は次のオーナーが想いあまって八つ裂きにして解体屋に葬ってしまった。全く残念だ。
画像は1970年11月3日 第5回富士ツーリストトロフィーレース 500マイル 耐久 富士スピードウェイ 総合順位 39位 クラス 2位 ドライバー 須永 淳/吉田 勝久
写真4:軽量ボディー車、FIA申請!
クーペLのFIAホモロゲーション用のサンプル車。これは左ハンドル車。
写真5:BREのコンテッサ資産、カレッジに供す!
チェフィ・カレッジに長年あったワンオフの特製クランクを含む大量のコンテッサのレース用部品(1977年10月撮影)。
これら部品は後に、Southern California Import Dismantlers社へと、そこのクーペL (PD300-103309) の資産価値アップのために売却 (等価物々交換) された。学内の実験室に行くとそこにもコンテッサの部品が床にゴロゴロしていた。
この写真の奥には未使用のトヨタ2000GTのツインカムもあった。最近 (2015.7) の調査では、1967年のBRE&トヨタ契約以前にトヨタからBREに事前送付されていたエンジン単体であり、コンテッサの部品と共にチェフィ・カレッジに渡ったと分析する。
写真6:最後の晴れ舞台、第一回東京レーシングカーショー!
第一回東京レーシングカー・ショーにて (1968年3月、東京、晴海国際展示場)
写真7:終焉、運命の分かれ道!
時のオートスポーツ誌、1969年1月号にあったボブの広告より。場所は富士のピットと推測する。右手が3308のL。
左手のオープン・コンテツ(俗名:コンテッサ7)はロサンゼルスタイムズGPの優勝車(標準ボデー)である。因にスペシャルのエキパイは小川さんの手曲げである。その小川さんが四半世紀以上を経て、米国帰りのレーシングLの姉妹車全ての鈑金&塗装を行うとは誰が想像出来ただろうか?
写真8:20年を経て、再び晴れ舞台、第31回東京モーターショー(1995年)!
第31回東京モーターショー(1995年)、テーマ館「夢と冒険を乗せて走ったくるまたち」にて。ボクの「L」は日野の依頼でショー出展と相成った。写真の搬入の際に、日野の関係者も「ちゃんと走る」コンテツに熱い眼差しだった。その後の会期中はおそらく数えきれないくらいシャッターを切られたことだろう。
ボクは出展に向け、外装を総剥離&パテ使用無しで再度塗装を小川さんにお願いをした。 色は正確を期すために、当時の塗装職人のデーブ・ケント (Dave Ken: BREの一連のコンテツ並びにヒノサムライのペイントを含む名だたるレーサー&カスタムカーを造ったロスの鈑金&塗装職人、今は天国で相も変わらず酒浸りかも) に色見本を作っていただいた。
その白は、彼曰く「白よりも白い白」であった、その意味は、南カリフォルニアの深い紺碧の空の様な下でのみ、その「白」が映えるのである。小川さんもその白を見本から創るには結構苦労されたようだ。
タイヤ&ホイールは温存していた日野プロトにも使われたこの個体に “AS-IS” の当時のファイアストーン・スーパースポーツ・インディ (Firestone Super Sport Indy) を強化スティールホイールのワイド(7J、コンテッサ7に使用した)に装着した。
写真9:半世紀を経て、旧車は "走ってこそ” !
生産から四半世紀あまり、今だ年六戦の現代車のジムカーナシリーズ戦に仲間入りさせていただいている。
完全に走る現物保存をもって歴史的&文化的意味のために外観&内外装・艤装は当時の状態の維持に努力、しかし性能と安全性のために電気系、シャシー&パワートレイどは極力現代のテクノロジーを活用を心がけている。
いずれにせよ、"旧車は 走ってこそ” であり、それなりに走らさなければ “タダの1/1のプラモデル” に過ぎない!
(SE, 2004.2.28, Original)
(SE, 2019.1.8, Updatedl)
(SE, 2019.11.26, Improved)
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