古の書から見えるもの、新たに考えること!
日野コンテッサ1300は熱かった!(その1 – AUTO SPORT 1968年1月号)
今ではボロボロに なっている古の雑誌、AUTO SPORT 1968年1月号であります。この号には直前の1967年11〜12月頃のモータースポーツの現場がリアルタイムの如く垣間見ることができます。そこには実質的に販売中止の運命になり生産もままならくなった日野コンテッサ1300クーペ&日野レーシングの勇姿が多く掲載されています。
ブログ:「2024.1.20:我が家の図書館 (6) – オートスポーツ 1968.1、コンテッサ1300が最も輝いていた時代」にさわりを記述しましたが、ここでは画像を中心に、当時の日野コンテッサ1300クーペや日野レース活動が如何に熱かったかを書きとめたく思い、ここにまとめてみました。
日野コンテッサ1300の製造終了は公式的には1967年12月末となっています。一方、ワークスとしての国内レース参加の予算は1968年3月末まで続いたとお聞きしています。1966年10月のトヨタとのコンテッサ1300市場撤退を前提とする業務提携発表ごは販売台数は下降、またサプライヤーへの発注も停止したと巷の話題となりました。
そのような受難をしょってしまった日野コンテッサ1300、本稿で示すようにそれをもろともせず、最後の力を振り絞るようにレースシーンで全開走行をひたすら続けていたのです。走って結果を出すことが使命のワークスチーム、ビジネスではありますが、コトを遂行した皆さんの思いはどうだったのかと思うと実に複雑であります。
古の雑誌、これから得られるものはなんでしょうか、それはただ一つ、日野コンテッサ1300クーペはやはり、走らさねばならない、それも全開走行でと。今、参加しているジムカーナシリーズ戦、たったの60秒でも全開にできない自分が情けなくなります。教訓はそれであり、少しでも努力をしたいと思います。
末尾には雑誌の画像ではなく当時の関係者の皆さんからいただいた貴重な画像、敬意を評して載せました。
(1) 1968年に賭ける国内ビッグ・チームの精鋭、日本オート・クラブ(NAC)
DEL RACING&塩沢商工、塩沢進午さん率いるNACの面々、黎明期の日本のレース活動を牽引した立役者でした。日産やトヨタの大手OEMではなく小メーカーの日野自動車と契約し、レース現場での活躍、またフォーミュラ、GTP、コンテッサの車両開発にも貢献しました。
ホンダのF1フォーミュラとまったく同時期に日野自動車とともにフォーミュラカーを開発、いわば、日本初の偉業でした。
画像のフォーミュラカーは、DEL MkIIIAです。日野コンテッサ1300のエンジン、ミッション、ブレーキなど活用しています。当時の世界の最新鋭機、英国のCooperを日野自動車が開発&参考用に購入し、それをベースにDEL MKIIIが制作されていたようです。その後は、ホイールなどは除いて多くは自社制作になったようです。
いずれにしても、実に格好いいものを日本人の手で制作されていたのです。それも大メーカーではなく一桁台のチームによってです。それが大手と違う日野レーシングチームなのです。
画像の一番奥の方が、米国人のロバート・ダンハムさん、当時の米国のレース文化を多く日本に取り込んだ貴重な方だったと分析しています。また、自分が米国に長期滞在した際に一度だけ電話でお話をさせていただきました。
その右が山西喜三夫さん、浅間の二輪出身で、RR車乗り、また元祖ドリフト走行の達人です。日野自動車の技術者からは、エンジンを壊さないでエンジン内部検証のために戻してくれる達人だったとお聞きしています。
山西さんには80後半〜90年代前半に我がサムライコンテッサを多くのTACS筑波イベントでドライブしていただき良き思い出となっています。
参照文献:196801_AS_1_グラビア 68年に賭ける国内ビッグ・チームの精鋭、日本オート・クラブ(NAC)(P14)
(2) 富士12時間自動車耐久レース (1967年12日3日)
1967年12月3日、午前3時スタートの12時間レース、参加台数:75台、出走台数:72台と記録されています。
日野コンテッサ1300がS1クラスに2台、T1クラスに2台、計4台参加、市販台数の割合から考えれば実に多くの出走台数だと考えます。
画像はいずれもS1クラスのR.ダンハム/山西喜三夫組です。記録によると209周回 (トップが247周) 総合25位、クラス4位となっています。
それにしても209周、およそ1,300km弱、耐久でも全開走行はたまげるばかりです。
4台のコンテッサ1300、プライベータ含めいずれも1,000km以上も走っており、正に尊敬の念です (JAF 富士12時間自動車耐久レース 12時間 S1 リザルト、T1 リザルト) 。
(3) 富士チャンピオン・後期第5戦 (1967年11月23日)
公式のデータが見当たらない、当時の「富士チャンピオン・シリース」、JAFのトップコンテンダーのレースではなかったようです。
このレースにロバート・ダンハムさん、初出場、クラスA 三位と記録あります。画像ではスタート時の勇姿もみることができます。
下の画像ではマイペースと、20数周のスプリントなので軽く?だったのでしょうか、それでもその周回を全開走行は尊敬の一言です。
参照文献:196801_AS_4_記事 富士チャンピオン・後期第5戦(11/23)(P142-143)
(4) キング・オブ・ザ・マウンテン (ヒルクライム) コンテッサクーペ総合優勝 (1967年11月9日)
当時、NAC所有の伊豆ハイスピード・クライム・コースでのダートのヒルクライムのようです。当時、噂のあったNACが計画していたサーキットの土地で今は日本サイクルスポーツセンターの場所だと分析しています。
上位排気量車をやぶっての総合優勝、真田勝彦選手!ジャンピングスポットの日野コンテッサクーペ、最高の姿だと思います。これこそがというものです。コンテッサ乗りとして尊敬します。
このコンテッサクーペ、画像でよく見るとただものではありません。と、いうのは足回りが完全なレーシング仕様と分析、おそらく周到な準備をしての参加&出走だったと、それがすばらしい結果を生んだのだと考えます。
参照文献:196801_AS_6_キング・オブ・ザ・マウンテン (ヒルクライム) コンテッサクーペ総合優勝 (P140-141)
(5) ZFCCハイスピード・ジムカーナ (1967年11月19日)
ベースは日野プロト、DEL RACINGでモデファイされて姿を変えたDEL RSBです。
日野 1,300cc YE28エンジンに換え、トヨタ VG10 アルミ製 2,600cc V8エンジンになりました。ミッションは日野製5速、ブレーキもコンテッサ系、シャーシーはそのままでカウルを換えオープン2座となりました。
ドライバーはその後、日野パリダカールラリーの覇者、菅原義正さんです。オープンクラスでの優勝だったようです。
この小ささ、カッコイイですね。車重 600kg台、V8 150馬力、こんなクルマ、公道仕様で乗りたいなと思うものです。どうでしょうか。
参照文献:196801_AS_5_記事 ZFCCハイスピード・ジムカーナ DEL RS-B 菅原 義正 選手(P144)
(6) ”危険なガソリン”を締め出せ!、ロバート・ダンハム
ブログ「2024.1.18:公道復帰10年、経年劣化修復プロジェクト (30)」に掲載した冒頭の画像です。
1966年10月のロサンゼルスタイムズGPの勝利を勝ち取った日野コンテッサ1300クーペの凱旋帰国のお披露目の姿です。
この船橋サーキットでの全日本自動車クラブ対抗レース大会でも優勝をもぎ取りました。まさに栄光の勝利だと言えます。
その船橋でのレース画像を末尾の載せました。
参照文献:196801_AS_3_記事 ”危険なガソリン”を締め出せ!、ロバート・ダンハム(P93-96)