巴里に咲き、巴里に散ったロマンと野心

第二楽章 – 展開 :第52回 パリサロン (1965年)

 2年目となる1965年のパリサロンに向けての出来事を整理してみましょう

 1964年のエッフェル塔を前にしたコンテッサ 1300セダンと共にルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Arc de Triomphe du Carrousel) の前のコンテッサ1300セダンです。この画像も1964年以来、当時のプレス向けに多用されました。

 画像の女性は先のエッフェル塔と異なりますが、コンテッサの個体は “3047 WW75” のパリ市の仮ナンバーを持つコンテッサ1300セダンであると分析します。

 さて、日野自動車の小型乗用車の師でもあるルノー 公団 (当時) の本拠地、フランス&パリで4CVから進化した純国産車であるコンテッサ1300を発表&販売すると言う壮大な夢はどうなるのでしょうか?

国内仕様のようにサイドの日野マークはなく、代わりにJM、すなわちミケロッティ・マークが付いている。また、フロントにサイドミラーはないのも実にスッキリしている!

1965年、秋のパリサロンに向けての足跡! 

 実は1964年のパリーショーでのデビューの際から、フランス人コンサルタントを起用した様々なアクションが見られます。その第一歩がフランスでの代理店設定だった様です。
左の方が日野自動車のフランス進出プロジェクトを担当した自動車業界コンサルタントのガルニエ (M. Garnier) 氏と分析。撮影場所はAutodrome de Linas-Montlhéry (オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリ) と呼ばれるサーキットの正面ゲート前に間違いない (Google マップ参照) 。
フロントドアには、”MADE IN JAPAN” が強調されている!右の方は、おそらく人相&服装からこの施設の担当者だろうか?他の場面でも必ず登場する人物である。
 そしてPR向けのメディア対策、フランス自動車雑誌のナンバー1のL’AUTOMOBILE1965年5月号に有名ラリードライバー&ジャーナリストにより “HINO… une japonaise“ として、日野コンテッサ1300セダンは、OPE: REKORDやFIAT 124と肩を並べて大腿的に試乗レポートと共にユーザー目線での同じ評価基準によっての紹介記事となりました。
 評価には、ロードホールディング良し、しかしブレーキングに不満エンジン音が騒がしいサスペンション が硬すぎるギアのシンクロが温まると障害あり…などが書かれています。自分の感覚とドンピシャです!
コンテッサ1300はやはりは走行シーンがベストで美しい! (詳細はこちらを参照)

待望の販売チャネル – 堅牢仕立ての日本車

  待望の販売チャネルについては、E. Dujardin SA社 (パリ12区、323. RUE DE CHARENTON) と契約できたようで、以下の様な広告も上記のL’AUTOMOBILE誌に掲載されるようになりました。日本の日の丸を背負って非常にシンプルかつクリアな表現だと思います。

HINO – ROBUSTESSE FINITION JAPNAISES、英語ではROBUST JAPANESE FINISH、つまり “堅牢仕立ての日本車” であろう!

オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリでの白いセダン (7152 W 75) は、”MADE IN JAPAN” がドアに描かれている。”信頼の品質の日本車” みたいなものがM. Garnier氏の戦略だったのだろうか?

 その後の日本車のマーケティング戦略の先駆者は日野自動車のコンテッサ1300だったのた!

1965年7月:日野コンテッサ1300クーペ 名誉大賞!

 1965年7月10〜11日、フランス,ニースに近い紺碧の地中海に面したイアリア、アラッシオ (Alassio) の国際自動車エレガンスコンクールで、日野コンテッサ1300クーペ名誉大賞(Premio d’onore)セダン一位に輝きました。ミケロッティ氏のデザイン技術と日野のエンジン・シャシーなどの実装技術が欧州で評価された瞬間でした。
 欧州進出への市場の注目を得るための重要なイベントであり、日本車として過去にも先にも例のない快挙となりました。

名誉大賞(Premio d’onore)の記念してコンテッサクーペのCMフィルムも制作された

 

 1965年は、実車の販売に向けて大きな進展がなかったように見えます。その背景の一つには、フランスでのホモロゲーション、日本で言えば、運輸省の型式認定に相当する当局のHomologationが得られなかったと分析します。もう一つの問題は日本からどうクルマを送るのかの問題も根底にあったと考えます。しかし、これらの課題解決には、輸出の責務を一手に担う内田 一郎氏たちは日夜奔走していたのです。

1965年10月1〜11日:第51回 パリサロン

 そして1965年のハイライトはやはりここのテーマである第52回パリサロンです。何といっても前年の1964年含めも当時の日本のOEM各社は日野自動車以外 (1965年度はホンダが出展) 、この場には居なかったのですから!しかも、フラグシップというべきコンクールで名誉大賞を得た “コンテッサ1300クーペ” が出展できるようになったのです。

 このレイアウト図から想像が膨らんで面白い。手元にある他の画像などの分析をすると、日野の右隣のSBARAは出展しなかったようで、そこにはコンテッサの白いセダンが鎮座しているように見える。分析が正しいかどうかはなんとも言えないが…

 ここでも “MADE IN JAPAN” と銘打った日野コンテッサ1300クーペ。それはフランス人コンサルタントの戦略には間違いない!

 上の画像のクーペに感じたことが、意外と小ぶりに見える、西洋人の大きな身体のせいだろうか?でも何か好ましく感じる!

第52回パリサロンの日野のブースには当時の大統領、シャルル・ド・ゴール氏 (18代、Charles de Gaulle) は日野の展示ブースを訪問、コンテッサ クーぺを見学された。
中央の大統領の右横には、日野自動車のコンサルタントのガルニエ (M. Garnier) 氏がおられる。大変、貴重な歴史の記録と考える。
 日本のメディアでは、カーグラフィック誌が1965年12月号の特集=世界4大ショーのパリショーの中で、日野自動車について一コマ取り上げています。これは上記二つの画像を合わせて一致性があり貴重なものと思います。

 ただ、記述の中に、『コンテッサも初めてパリ・サロンにデビューした。』とあり、これは完全な誤りであり、何時の時代もメディアはエビデンスもなくリサーチもなく物事を書き上げるのだと、実に残念なことであります。読み手が真実を見極める必要があるということです。幸いなことは画像は嘘をつかないということでしょう。

 1965年のパリサロンについては、CG誌のほかに毎日グラフ 66 新型乗用車特集 (1965年12月号) にがホンダ S600と共にリポートされています。
 1965年、このように販売チャネルや価格設定もされたものの、フランスでは販売開始は至らなかった様です。それについては、1966年のテキストに記述しましょう。

【検証 – 1965年】

 以上、紹介の各種、画像や雑誌、これら多くはパリの例のクルマ専門の古本屋で入手したものです。それも一回で集まったものでありません。
 画像の白いコンテッサセダン (1009 W 75)、L’AUTOMOBILEの1965年5月号の試乗に使用された個体、この写真もこの古本屋で入手しました。
 その裏には、なんと “L’AUTOMOBILE” も印 (参考までに、画像に貼付け) が!寸法などいろいろ表記があり、おそらく編集に使われたものと分析、そんなものが流れて来る、パリの古本屋であります!
 冒頭画像のルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Google マップ参照) に、ビジネストリップの縁があり、ついでに自分の足で出向きました (下に参考画像) 。
 このカルーゼル凱旋門の前でコンテッサ1300と当時の日野自動車の内田 一郎さん (素晴らしきカー・ガイ達) たちは欧州進出を目指していたのかと、勝手な妄想をし、感無量でいたことを昨日のように思い出します。
 それはGoogleマップなどのバーチャルな世界では絶対に得られるものではありません。その後も機会あればこの地を訪問しています。自分にとって、幾つかある日野コンテッサ1300の聖地の一つとなっています。

【参考&参照文献】

20211219 SE Original
20230430 Re-Organized with Improvement
20251226 Reovered & Renewal