2019.8.31:アウト ガレリア “ルーチェ” - 小林 彰太郎展
8月も末に迫ったこの日、先の4月の幕張メッセのオートモバイルカウンシルの場で ”カーグラフィック誕生のプロローグ - CAR GRAPHICの誕生と小林彰太郎” 主催のアウト ガレリア “ルーチェ” のオーナー氏に公約した現地見学を果たすことができました。
友人と共に会場に入るとライレー (右の画像) とともにそれは適切に走っていることを証明するいいオイルの香り (これはこのばに居なければ絶対に分からない) とその展示のオーラに圧倒されました。何がすごいか、展示の車そのものの個体はここ何十年か各所で目てしているので一同に介していることはすごいですが、特に会場の史実の各種資料のコンテキストの整理に驚くとともに大いなる感動を得ました。こじんまりとした会場を何度か周回してそのために懐かしいものあるいは発見がありました。
この展示に数ヶ月も貴重なクルマ個体をオーナーからお借りする努力も大きなタスクだったでしょう。しかし、それ以上にこれだけ特定の歴史にフォーカスした史実をまとめるには相当なプロジェクトだったと推測します。アウト ガレリア “ルーチェ” とその関係者の皆さんにこのようなものを見学できたことに本当にお礼申し上げます。
さて、立場上、どうしても会場で展示があった日野自動車ネタに、それらを以下のようです (最後の画像は小林 彰太郎さんが自らつくばサーキットをドライブした際ものです:2006年9月23日撮影):
日野コンマース、第一回日本グランプリ、1963年5月。CARグラフィックの取材車だった!
欧米のレース上でよく見る光景、ルーフでのレース観戦、
日野コンマースは万能ミニバンのさきがけであったのだ!
日野コンマースを壁にモチーフ、日野車エンスーのみならずものすごくインパクトある展示方法だ!
ルノー日野4CVでの第一回アルペンラリー (1959年7月10日) 、
モーターマガジン、1959年9号、日本アルペンラリーレポート、来年こそはの記、武田 秀夫・小林 彰太郎の参考閲覧
右の武田さん、日野のシャシー技術者、日野コンテッサのルノーを
真似してないラジアスアームの設計者、
後にホンダに移籍、一連のF!のシャシーの設計、ホンダ1300のクロスピーム、
最後がオデッセイRB1開発と分析する。
ホンダ車内ではカリスムと言われていたとお聞きしている。
氏の足の設計は柔らかいと、ホンダ車の足は氏が現場を去った後は再び硬い方向に、
コンテッサも同様、900まではよかった、しかし1300は不自然な足に、
オーバー&アンダーが同時に発生する奇妙なクルマと外国では評された。
日野コンテッサのロードテスト、1961年3月22&23日。
モーターマガジン、1961年5号、ロードインプレッション:コンテッサ デラックの参考閲覧
氏のコンテッサデラックスへの評価はすこぶる高く、
80km/hまでの加速が15秒とか、特に操縦性について、
「現在の国産中、操縦してもっとも面白い軽快な操縦性をもっている」と、
コンテッサべた褒めである。なるほど、これでは、それなりの操縦技術を持った
つわものばかりの1963年の第一回日本GPでのダントツ優勝は納得である。
2006年9月23日、筑波サーキット (TC2000) 、CCCJ/SCCJのInterClub、パドックでの一コマ。
このライレーで優雅に走行されていた光景は今でも脳裏に焼き付いている。
2019.8.25:ミニ生誕60周年 - 座右の書
昨日土曜日 (8/24) の朝日新聞の夕刊をみて気がつきました。ミニ生誕60周年の記事が日本市場の立役者こと丸山さん (最近ではCOBRA DAYTONA CSX2602のオーナーとして世界的に有名) をフォーチャーして大きく報道されていました。日本ではFISCOでこの土日に二日間の大イベントが行われたようです。FaceBookの友人たちもFISCOからリアルタイムでアップしています。本家の英国でもMini's 60th celebrations in 2019を開催、現行MINIのMini Cooper 60 Years Editionが発売されて生き絶えることなく今後も成長するのだと意気盛んで実にうらやましいものです。
このミニ、1959年8月末に販売されたようです。まさにこの8月末は60年目の記念すべき時なのです。画像の左のThe Autocar, AUSTIN SEVEN、28 AUGUST 1959は、その記念すべき一冊です。運良く、今から数十年前にカリフォルニアの古本屋で他のThe Autocar何冊かとともに手にしていました。この号にミニ、すなわちAUSTIN SEVENについてサプライヤ含めてそのすべてが解説されています。今でも時折ながめるのが楽しい一冊です。たまたま手にしていたのがラッキーだと思っております。
さて画像の右のhow to Modify your MINIはエンジンのチューンアップ本です。これも何十年から参考にさせていただいております。同じOHVのロングストロークなので共通点が多くあります。燃焼室、CAM形状など多々参考になります。とくにストローカーのセクションは詳細な手法が書かれており、何度読んでも勉強になります。
昨日の朝日新聞の記事から思ったことをメモしました。それに今だメンテ&スープアアップ部品が豊富で、個体も世界に数知れず生息し、進化を止めることのないミニに嫉妬を感じるものです (参考:CRANKSHAFT 84MM STROKE EN40B STEEL CRANK) 。それに比べればコンテッサなんで何十万分の1の個体数、部品もノウハウも無い無いずくし、そんな環境で進化したいなんて頑張るには、実に無駄な努力と思うものです。
2019.8.24:本日のデリバリー - SIMカード
ここ何年かは現地のT-MobileのショップでSIMカードを購入していました。しかし、ここのところ段々値上がりをして、ツーリスト用の最低価格が30日間有効と長くなり40米国ドルを超えるようになりました。
そもそも30日もいらないわけです。以前からAmazonで出国前に購入可能なものがいくつもあるのを知っていました。今回は “MOST SIM - アメリカ SIMカード インターネット 7日間 高速データ通信無制限使い放題 (通話とSMS、データ通信高速) T-Mobile 回線利用” の7日間というものを購入してみました。
価格も割高な米国内のT-Mobileのショップに比べておよそ半額です。アクティベーションなどは事前登録してやらねばなりません。
2019.8.20:松戸 戸定歴史館、徳川 昭武蔵のステレオグラム
この日は米国の親類が家族一堂、親子四人で来訪しました。
松戸の由緒ある何かをと戸定邸およびその歴史館を案内しました。
歴史舘では、”坂川・江戸川水景色” と題して、100年以上前に徳川 昭武の撮影の当時の松戸の日常の風景が数多く展示されて居ました。
その中で、興味を注いだのが画像のようなステレオグラム (立体写真) でした。松戸のみならず世界を回った際に多くのステレオグラムを残したようです。
貴重なものを米国から一家共々見させていただきました。
2019.8.17:久しぶりのエンジン始動!
我がコンテツが5月22日に浅間台に行って以来、ガレージにエンジンも始動せず鎮座してました。
本日、3ヶ月近くを経て、充分なバッテリー充電後、始動してみました。オイルが下がっているのでまずは燃料カットで映像のように5〜6秒の空回し、これを4〜5回繰り返し、このエンジンの規定の40PSI (2.8k) 弱になりました。
油圧が出たその後、燃料オンにして始動、この際はすぐに回転が上がってしまうアクセルを開くことはせずジッと我慢、数回の後のアイドル状態で始動、水温自体が猛暑の中で35度程度なので800回転程度で安定状態です。そのまま1200回転にして数分、結果的にはこの回転では冷却機能の方が上回っているようで水温75度程度以上になる気配はありません。
結果的に水温、油圧、発電系、これらはオーケー、エンジンからのメカ音良し、変なノイズもありません。取り敢えず、久しぶりのエンジン・オンの儀式は完了しました。
ガレージ内外の不要物の整理、昨年、メガーヌから外したエアコンコンプレッサの原因解明などやること満載です。一つ、気がついたのがエアコンプレッサ、エアを空にしてなかったよう6k程度を指しており、前回の使用から2ヶ月半以上も経てるので空にならないというのが機能的に良いのですが、毎日使う訳でないので、原則は使ったら空にすべきです。気を付けましょう。
それにしても今日は今まで出来なかったことを色々手を付けました。やはり、クルマいじり含めて、このような作業は歳をとってもエネルギーチャージに絶大と感じた次第です。健康とは良いものだとつくづく感じております!
2019.8.16:本日のデリバリー - 今仙電機、Knightホーン
今仙の当時 (1960年台半ば) の120mmサイズのベンツタイプのハイ/ローのKnightホーンです。
日野コンテッサクーペに採用されていたものと同等品です。ただ、こちらは市販品でメッキ仕上げ、それに対して日野のものは簡易的なブラック塗装です。個人的にはこのメッキ仕上げに軍配を上げております。
偶然、ヤフーで発見、クリックをして落札をしました。本日、届いて手にしてみると、当時の新品ということはわかっていたのですが、想像以上にまったく劣化のない極上の一品でした。正に感動ものです。
価格は決して安くなかったものの、個人的にが落札価格i以上の価値と感じております。
これをすぐ使うか?というとそれは別です。取り敢えず、落札の喜びであり、このような良品に対して文化的価値を感じるものです。
2019.8.15:BRE 510 @1971 Trans Am Race
昨日の ”8月14日、それは日野車エンスーにとって記念日!” で日野コンテッサのフロントウィンドウ無しのレギュレーション違反でせっかくのクラス優勝も失格になったピート・ブロックさんのことを書きました。
それから数年、日野自動車の仲介で日産 (米国ではなく東京) と契約したBRE、1971年のTrans Amレースでは2.5リッタークラスのチャンピオンになりました。そのシーズンの一コマが以下の映像です。
2ndドライバー、Mike Downsさんのフロントウィンドウがレース半ば破損しました。すぐさま、替わりのテンポラリーのモノを素早く装着しました。おそらく日野の時代の経験が役立っていると分析します。
ここにはMac Tilton (現、Tilton Engineering) さんやJohn Knepp (John Knepp, 1942-2017 - Electramotive = 最強のVG30) さんがメカニックとしてちらっとですがご活躍しています。
本ビデオの “Against All Odds Nissan Datsun” の510の活躍も御覧ください。当時の米国日産のPRビデオと推測します。YouTubeでいくつかアップされていますが、肝心のオープニングや米国日産の教育プログラムの紹介が入っているのですがカットしてしまったようです。自分が温存しているビデオはしっかりと入っています。
2019.8.14:8月14日、それは日野車エンスーにとって記念日!
今日は8月14日、毎年、この日を楽しみにしております。と、いうのは今から53年前の1966年8月14日は日野車が日米同時にレースフィールドで優勝を飾ったからです。
日本では、新しい日野プロト (J494) が富士スピードウェイでの全日本レーシングドライバー選手権第3戦でSPクラスで一位、総合でポルシェカレラ6 、フォードコブラ に続く3位の快挙でした。また、米国カリフォルニア州 Riverside International Raceway での6時間耐久レースでBREの日野コンテッサは、クラスウインを得ました。衝突転倒の結果、ボデーの大きなダメージとなりました。しかし、かなりの周回数の遅れを取り戻しても結果だったようです。しかし、フロントウィンドウ破損での走行により、レギュレーション違反となり失格となりました。
富士スピードウェイの日野プロトは、『日野プロト 緒戦を飾る 全日本スポーツカーレース(日野社報、昭和41年9月)』に、また、JAFの記録にも明確な記録がされています。
カリフォルニアでの日野コンテッサの活躍は、『コンテッサ1300クーぺ - 驚異の逆転勝(日野社報1966年9月号別冊)』に、しかし一般文献 (当時の雑誌やプログラムなど) では目下のところ、確認ができません。また、ネットの中の検索でも出て参りません。かなりのローカルなイベントだったのかもしれませんが、調査は続けたいと思います。
FISCOのスターティンググリッドに向かう山西選手の日野プロト
レースを終え、ピートさんの自宅 (推定) に戻った戦闘で傷ついた日野コンテッサ!
2019.8.11:日野コンテッサ、日本GP 第一回 vs. 第二回 ゲイン検証
昨日の “第一回日本GP (1963年) の日野コンテッサ900のドライバーは偉大だった!” で日野コンテッサ900をストックのままで最速ラップやクラス優勝など当時の105マイルクラブのドライバーの偉業に注目しました。
ここでは第二回日本GPで更なる制覇を目指しスープアップした日野コンテッサのドライバーたちはどの程度のゲインを果たしのか予選タイムをもって検証してみましょう。
第二回日本GPはT-3とGT−1でのエントリー、レギュレーションに沿った軽量化&排気量アップなどでエンジンの高出力化、T-3は55馬力/6000rpm、GT-1は70馬力/6500rpm程度とだったようです。ストックの40馬力/5000rpmに比べて大きなゲインです。ミッションはもちろん四速となりました。
ドライバーの予選タイムのデータから均してみるとT-3では15秒程度のゲイン、そしてGT-1ですとさらに10秒アップと大きなゲインを得ていることが分かります。前年度のストックに近い車両と比べて大きな結果を示しています。
第二回日本GPに於いて日野コンテッサは相当なる進化を示しました。技術陣の努力の賜物であります。しかし、残念ながら新たに登場した三菱コルト1000の完全なる後塵を拝する結果となりました。如何ともしがたい技術力の差であったと分析しております。それはレースの現場での進展&動向を読む力とも視ます。
1963年第一回日本GP | 1964年第二回日本GP | |||||||
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1963.5.3 | 1963.5.4 | 1964.5.3 | 1964.5.4 | |||||
クラス | B-1 (13周) | C-3 (10周) | T-3 (10周) | GT-1 (12周) | ||||
R.ダンハム | 14 | 3'30"9 | 4 | 3'37"9 | 8 | 3'19"5 | 8 | 3.09"3 |
山西 喜三夫 | 6 | 3’36"3 | 3 | 3'48"6 | 6 | 3'23"7 | 6 | 3"11"7 |
立原 義次 | 15 | 3'39"0 | 6 | 3'47'4 | 2 | 3'29"2 | 2 | 3'11"8 |
小島 常男 | 13 | 3'40"2 | 7 | 3 | 3'25"4 | 3 | 3'12"6 | |
塩沢 勝臣 | 16 | 3'33"9 | 15 | 3'56"8 | 5 | 3'22"1 | 5 | 3'11"5 |
塩沢 三子夫 | 7 | 3'45"1 | 8 | 3'43'3 | 7 | 3'23"6 | 7 | 3'15"9 |
塩沢 進午 | 9 | 3'59"6 | 1 | 3'35"7 | 1 | 3'18"4 | ||
クラス名称 | スポーツカーレース | ツーリングカーレース | ツーリングカーレース | GTカーレース |
2019.8.10:第一回日本GP (1963年) の日野コンテッサ900のドライバーは偉大だった!
最近、表題のコンテッサ900について、どのような車両だったのかを真摯に分析をしました。なにしろ資料的には手元には皆無であります。最初は第2回日本GP (1964年) など比較的資料が残っているものをベースを推測立てましたがどうしても納得の行かなかったのミッションなどの装備でした。
当初、ミッションは幅広いコンテキストをベースに4段と決め付けましたがどうもコラム三速に間違いないと分析するようになりました。その決めてが下の画像のようなものです。さらにシートはベンチシートだったようです。キャブもストックのものでした。
このようなほぼ市販車程度でB-1 クラスでは優勝を逃すものの15番のコンテッサ (立原 義次選手) が3分28秒2 (平均時速103.818キロ) で最速ラップを獲得しました。 同様にC-III クラスでは上の画像の6番のコンテッサ (立原 義次選手) が優勝しました。当時の日野自動車としてはダントツの高性能車、コンテッサをアピールしました。
それにしても凄いと感じさせるのはおそらく三速ミッションのストックに近い車両で日本GPに挑み好成績だったと言うことです。それには当時のコンテッサの好成績を支えた105マイルクラブのドライバー達の技量が支えたものと分析するものです。
ご参考:
内外のスポーツカーと競い優勝す - 第1回日本グランプリ自動車レース
1963年日本グランプリ (4輪) wiki => https://ja.wikipedia.org/wiki/1963年日本グランプリ_(4輪)
JAF 第1回日本グランプリ自動車レース B―1 レース情報(決勝)
=> http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1428&window_flg=1
JAF 第1回日本グランプリ自動車レース C-III レース情報(決勝)
=> http://www.jaf.or.jp/CGI/msports/results/n-race/detail-result.cgi?race_id=1438&window_flg=1