ミケロッティの贈り物 - コンテッサ 900 スプリント
コンテッサ・スプリント...,何と響きのある名ではなだろうか!さらにもう少し正確に呼ぶなら「コンテッサ900スプリント」です。コンテッサ1300の開発当初の前後、日野自動車の依頼先であるミケロッティ・ステューデォが、コンテッサ900をベースにデザインした軽快なグラン・ツーリスモ・クーペです。1962年秋、イタリアのトリノでのSalone International de la Automobile(第44回)に出展されました。当時の記事をみると以下の様です。
ミケロッティの作品としてはむしろ新鮮味に乏しいと言わねばならないが、フロント・エンドにはよく原型のイメージをとどめており、さすがにプロポーションは美しい。デザイン的にはフロントより、横線を基調としたテイルの方が面白い。本格的なGT風のルームにはナルディのステアリング・ホイールも備えられている。平坦なフロアの中央に独立して立っているセンター・コンソールは珍しい。メカニカルには全面的にエンリーコ・ナルディのスピード・ショップで改造が施されている、エンジンは900ccで45hp/5500rpmも出し、マキシムは150km/hに達する。フロントにはナルディのディスク・ブレーキが装備されている。
当時の諸々の資料では、上記のショーではスプリントは、人気の大半をさらったそうです。連日押すな押すなの盛況だった由です。
さてその美しいクーペは、イタリアで生産を行うべく交渉が開始されました。そして、1963年春のニューヨーク・ショーのデビューを果たし(Times Magazine - wheels of fortune)、日野本社に送られ、1963年の東京モーターショーに姿を現すことになりました。この頃にはイタリアでの生産はホボ不可能になったようです。理由は、ECの反対と、まことしやかに伝えられたが、今となってはそれは真偽のほどでを確かめることはできません。勿論、スプリントは日本で生産する意図はまったくなく、それでさえも逆輸入で入手を考えていた熱狂的なコンテッサ・ファンがいたほどでありました。当然の事ながら、196e3年の東京モーター・ショーも大好評でした。当時の国産車とまったく異次元のクルマづくり、すなわち、本場モノのスタイリング、同様な内装、そして足回り、エンジン・チューンでした。具体的には、三角窓無し、ピラーにもパッド付き、ナルディのステアリングを通して見るVeglia製 (グーグル検索画像 “Veglia” ) の機械式の回転計、センターコンソール、トランクルームまで内ばり付き、バックアップランプは内蔵されたテールランプ...語り尽くせない程、素晴らしいクーペであったのです。多分、後のいすゞ・ピアッツァあたりを見る、いやその何倍以上のオドロキにあったことは想像できるものです。
しかし、900スプリントはその後、消えて無くなったのです。それはある意味で、コンテッサ1300へのデザインの発達・進展過程のベース車両だったのかも知れません。900スプリント自体は、まぎれもなく ミケロッティから提案された = “ミケロッティの贈り物” である日野の真のスポーツカーとなるべくしたプロトタイプと考えます。
日野の野心 - 日野スプリント1300GT
さて、ここで更になぜか、ミケロッティは1300版 (日野スプリント1300GT) をデザインしています(勿論、日野の依頼である)。これについては、私自信もいささか不可解であり、デザイン的にみるべきものがあまりないと長期に渡って考えていました。しかし、数年前にミケロッティ氏の一連の作品の系譜を調査・展開してみると、それは改めるべきものとなりました。900はプロポーションが完全な迄にバランスがとれている、しかし1300は、そうではない、どうみてもアンバランス気味としたのは今では明らかな過ちと考えています。当時はミケロッティ氏の作品を理科すれば当然このデザインに帰結するもと新たに考えを変えました。これについては、別途、記述します。
しかしながら、日野スプリント1300GTはそのスペックを見る限り、その当時、1966年頃として非常に楽しいものです。4輪独立、且つ4輪ディスク・ブレーキ、リヤはスイング・アクスルではない(註.1)。そして、日野GR100ベースのアルピーヌ・エンジニアリング開発のツイン・カムなのです。もうウナッテしまいます。なぜ、日野は販売してくれなかったのか?...何年か前 (1970年代後半) 、ミケロッティ・ステューデォの方にお会いした際、氏のお話では、氏自身、ヨーロッパを数万Kmテスト・ドライブした由です。1300b版の場合、一般に公表されることなく、静かに世間から消えたしまいました。1966年当時の日野自動車の事情、すなわちトヨタとの業務提携のために日野コンテッサプログラムは消滅せざるを得なかったのです (参考:トヨタ自動車75年史 - 日野自動車との提携) 。
コンテッサ・スプリントに惚れ込んで
さて、以下にある一人のコンテッサ・スプリントに狂ったメモを、スプリントのその後と共にリポートしてみましょう。
900スプリント自体、リアルタイムで当時のモーターショーで見た訳でもありませんが、古いCG誌にある記事は、何時見てもそのスタイルは素晴らしいと思っていました。仲間同志でも同意見でした。そして、それから1~2年経った頃でしょうか?昭和47年の第5回東京レーシング・カー・ショーに、スプリントの1300版が出展されたのです。その約1年後、私はコンテツで未だレースをやりたいと言う友人の手伝いをしていた関係で、日野の中でレースに狂った言われているG氏のもとに、(デルの関係者の言いつけで、)「74」のピストン(これについては,別途記述予定)を取りに行く事になりました。その際に、氏は私に、「私は(1300番を)を持つ資格なし、買いませんか?」という事でありました。しかし、まったく「金額」で歯が立たずと言った訳で、その後、その個体は別なファンが持って行かれたようです。その時、(最も気にいっている)「900スプリントを出しませんか?」と切り出しましたが、「あれは絶対に出しません」とG氏の弁(本当はこの方が良い)。そして、その後はスプリントに関して頭から離れずじまいであった。
そんな中、再び新情報がやって来ました。もう一台のスプリントの1300版の持ち主のもとに行きました。ここでは、所有の話よりも車検を取るにもとれず、「誰かやる人はやるヤツはいないか?」、と言うところが当のH氏の悩みでありました。それならばお手伝いしましょうという事になり、全面的に任されたのでした。この時は、毎週の様に(スプリント1300版を)いじくりに通ったのでした。さて、そんな状態で車検をとるべく調査やら実測やらを続けた訳ですが、こちらも長期海外出張が入ってしまいました。さて翌年帰ってみると、N君という学生(T美大由)から連絡が入り、トラブルの始まりとなりました。いずれにせよ、クルマについての人間的な感情のトラブルは、(クルマに)可哀想なので、避けておく事にしました。そのまま現在迄続いています。時々、どうなっているのか思い出すのですが...。
さて、900スプリントは一台だのみ作られ、残っている訳ですが、当初、日野の本社に飾ってあったそうです。最近では、置くところもままならず、新田工場の片隅に追いやられ、サビだらけなんて話もあります。情報によればブルーかなんかに一応ペイントしたとこのであるホットしております。やはり、日野さんは残しておく気があるのでしょう。そうそうルノー、コンテッサ900、コンテッサ1300セダン&クーペの一号車など保管してるそうだ。ここでG氏の「あれは絶対に出しません」を思い出されます。まあ、いずれしろ、大事にしてもらう事を望む訳であるが、一方、スプリント1300版の方はどうか言うと、前述のように、実際3台(1台が鉄板(註.2)、2台がファイバー)作られたようですが、2台は放出され、1台は某所で解体された(註.3)様です。
色々と、たわごとを述べさせていただきましたが、やはり美しい状態(見ても、走っても)で残してもらいたいものです。最後の1300版の構造図(実測)、フレーム図、簡単な資料(実測ベース)を添付しましょう。別途、当時の記事を振り返ってみましょう。
註.1:これについては旧い時代の関係者の証言であるが、検証、すなわち現物の裏付けが取れてない。調査中。(2008.2.3)
註.2:これについては旧い時代の関係者の証言であるが、検証、すなわち現物の裏付けが取れてない。裏付けが取れているのは1台だけである。もう一台については調査中。(2008.2.3)
註.3:これについては旧い時代の関係者の証言であるが、検証、すなわち現物の裏付けが取れてない。調査中。(2008.2.3)
以下は特に大切にしている記憶に残る画像や資料です:

Contessa 900 Sprint:ミケロッティ氏のオリジナル・デザイン:Style Auto No.1より

Contessa 900 Sprint - ミケロッティ・スティーディオでの完成後のイタリアでのお披露目
(トリノでのSalone International de la Automobile(第44回:1962年)の前後)と思われる
(自動車ジュニア1963年2月号に掲載された筈である)

Contessa 900 Sprint - 日野本社でのお披露目:絶大なる歓迎を受けた様である。
当時の日野の欧米スポーツカー市場への本格的参入の心意気を感ずる。
縦幕のBIENVENIDAはおそらくスペイン語のWelcome、歓迎を意味する。
これからからも相当なる熱い気持ち、期待をもってもてなされたことが判る。
イタチア製のコンテッサ・スプリントをもってすればイタリア語のBenvenutoとなるのでは?

Contessa 900 Sprint - 日野本社でのお披露目のアップ画像

Contessa 900 Sprint - Veglia製の機械式の回転計:
これは1970年代は筆者がコンテッサの部品をある愛好家から購入した際に含まれていたものである。
その愛好家によればそれは「Contessa 900 Sprint」のある由で、その後、我が家の宝物になった。
しかし、1990年代のある時期、日野本社の受付に展示されたいたスプリントを見て驚いた。
そこにあった回転計は日野コンテッサ1300クーペの電気式のものが取り付けられていた。
そこで日野の関係者にこの大切な「Veglia製」を必ず元に戻すと言う約束でお譲りした(寄贈?)。
ただ今もって、そのお約束は実ってなかった。そこで、昨年(2007年)、
広報に確認させていただき近々、本来のVeglia製で動作することになる筈である。完成が楽しみである。

Contessa 1300 Sprint - 1967 Automobile Club d'Italia, World Car Catalog:
1966年のパリーショー出展後、67/68年の年間に掲載している。
一方、1967 Automobile Year Bookは、パリショー後にHINO SPRINT GT 1300としている。
当サイトオーナーはこちらの呼称を採用している)

スチール製1300版 - AUTO SPORT(1972.5.1号)、第5回東京レーシングカーショー

上記の1300版 - 岐阜県恵那市の愛好家に引き取られた直後:ファイバーの1300版の後方からの
エア吸入ではなく、ルノーR8の様なボンネットからエアを得る方式だったスティール製のボディ。
いずれも完全なるプロト (当サイトオーナーはこのスティース製は
デザイン検証&ファイバー版制作用のモデルと分析している) であった証だ。
しかし、これだけの外気吸入面積で高性能なツインカムを冷却出来たのだろうか?
もう一つの大きな課題はこの方式はルノーR8が既に採った方式であり、
日野が市販化するにはは現実的な法的な問題含めて多くの困難さが想像される。
R8と若干異なったセンターを分割するくらいは済まされない課題と推測する。
この個体はこの後、長きに渡って何の保護もなく天日にされされることとなった。

ファイバー製1300版 (1966年パリショーでのHINO SPRINT GT 1300) 、
本来のアルピーヌ製TOHC&4輪ディスクの足回りに換え、ストックのGRエンジン、
セダンの足回りとなっていた。ボデーのペイントはアルピーヌ・エンジニアリングのオリジナルのままであった。
上記の1967 Automobile Year Book / Automobile Club d'Italia にある車両そのものである。
残念なことにこのクルマはある日、当時の所有者の知らない間にこつ然と姿を消えてしまった!
その後、都内を走行、そして四国での目撃の情報を得るに至った。

1300版の構造図(実測)(目下、CG中)

1300版のフレーム図:Alpine A110と同様な構造である

1300版の主要諸元
(S.Ezawa、1982.9.18 (オリジナル))
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