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TACS筑波ミ−テング
(1988.3.12)


 今年も予定どうり参加した。そして、結果はキザな言い方であるが、レ−スとはこんなものさ...とでも言おうか。何れにせよ、ドライバ−に怪我が無かったのが不孝中の幸いであった。

 その朝は前日の天気予報が的中し豪雨であった。こんな事は初めてである。その朝5時すぎ山西さん一家は我家に到着し例によってテスト・ドライブを兼ね、山西さんがドライバ−になりややふけないエンジンと感じつつツクバに向かったのだ。そんな中我々は3位以内には入りたいな等と会話をしていたと記憶する。

 Pクラスの予選は朝早く8時過ぎに行なわれた。この時点でトラックは未だ雨混じりの朝霧に被われていた。その前に行なわれたRクラスの予選ではスピンやアウトオブコ−スが多く何台かはその餌食になっていた。タイムも延びずRクラスにも係わらず20秒を切った者は無かったようだった。

 それ見ていたせいか当のPクラスのタイムもあまり延びて無かった。また、トラック内のスピンした車を取り除く為にペ−スカ−が長い時間入っていた。そんな訳で平均的に全車タイムが思ったように上がらず苦労していた様であった。

 我等山西選手はどうであったか?それは他の選手と同じように苦戦していたのであった。これは、後でビデオを見て分かった事であるがそれはヘアピンで大スピンの連続であり、車を懸命にコントロ−ルするにも車が言うことを全く聞いていないように見えた。早い話がドライバ−にとって乗りにくい車に仕上がっているのだ。

 そんな中、途中ペ−スカ−が抜けた後、早速第一コ−ナ−で赤いホンダ1300ク−ペをインからパスしようとした。これは何時ものパタ−ンである。しかし、ピットから見ていたかぎり明らかに接触をしていた。それもやや激しく。それから何周かしただろうか。タイムは相変らずであった。車もダメ−ジを受けてない様に見えていた。

 そしてピットインをして来た。きっと何かがあったのだろう。コンテツは左半身ダメ−ジを受けていたのだ。思ったより大きい。Lボディ−の為か紙をつぶした様にくしゃくしゃになっている。しかしステアリングを握ったままの山西選手日く「トルクが全く無い。パンチがない。どうしたらいい? とりあえず、プラグ見たら?」...(当方、「これでも未だ走る気?」と言いそうになった。) 気持ちを察したかドライバ−はドアから出てきた。そして予選はすべて終わったのだ。

 それからが大変。山西さん含め、みんなで鈑金屋に早変わり。フェンダ−をひっぱたり、たたいたりの大騒ぎ。筑波に来て工具がこんなに役だったのは始めてあった。しかもEarl'sのセフェティ・ワイヤ−がブランブランのバンパ−を固定するのに役立つとは思いにもしなかった。皆の協力の甲斐あり作業も手早く完了し、車を保管場所に戻し、タワ−下の予選結果を見た。結果的に19番手であった。

 決勝までの時間はパドックで山西さんと浅岡さんの楽しいお話しを聞くことができた。そして高速域のトルクに対処するためにジェットの交換をしておいた。

 さて空も晴れて決勝。今日はこんな調子ながら山西選手は「頑張ってくるから見てて頂戴。どこまで上がればいい?」と、走るときはいつも嬉しそうだ。そして段々厳しい表情になるのである。やはり元プロ。そう、これがたまらないのである、来年も必ず来よう、何があっても。

 グリッド・スタ−トで1周目がスタ−ト。トップのホンダ1300は1周で2番手に4秒以上の差をつけていた。Pクラスでは何とも速すぎる!

 決勝のグリッドは走りに徹した車又は年式の新しい者が圧倒的に上位を結果的に占めている。ホンダ1300、スバル1300G、サニー1000、チェリーX-1等は時代が全く異なる車なので本当はクラスを別にしてもらいたいところであるが仕方あるまい。

 さて決勝は晴天になり全車安定した走りをしている。我等山西選手は周回を重ねる事に一台ずつパスし結果的にチェカ−・フラグを受けたときは13位まで上がっていた。今回は20-21秒の間で周回を重ねていた。昨年に比べて1.5秒ほど落ちた。これは当方の責任である。パンチのないエンジンに仕上がっていたのだから。やれやれと決勝も終わりツクバを後にした。今回はお手伝いをしていただいた皆さんもやや疲れたことだろう。感謝。

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予選でのダメージももろともせず決勝で力走!
1コーナーでホンダ1300と接触、前から後ろまでダメージ、幸いモノコックには影響なし
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(江沢 智、1988.8.26(オリジナル)、2005.1.30(改訂))