巴里に咲き、巴里に散ったロマンと野心

コンテッサ1300の輸出戦略 – パリ・モーターショー (1964~1966)

修復中

 日野コンテッサ1300のスタイリング (インテリア含め) &ボデー設計 及びプロト (コンテッサ900のシャシーベース) 製作は、コンテッサ900の設計完了直後の1960年夏、イタリアのミケロッティ社 (Michelotti Studio) に打診&交渉から始まりました。
 それは第二次大戦後の日本の自動車産業衰退を復興すべく、フランスのルノー4CVのノックダウン生産&完全国産化を進め、その結果生まれたコンテッサ900、さらに進化させた初めての純国産であり、日本の経済発展を担うべき「輸出適格車」という十字架を背負う運命でした。
 それはロマンと野心に満ちた壮大なプランだったのです。
 日野自動車は、まず欧州進出のために、1964年のパリ・モーター (以後、パリサロン) 出展に挑みました。その大志は、最終的に残念ながら歓喜に満ちたの終楽章 (フィナーレ) のない物語 = 交響曲でありました。

第一楽章 – 希望 :第51回 パリサロン (1964年) 

 日野自動車はコンテッサ1300の国内販売を1964年9月1日 (昭和39年) に開始し、その2ヶ月後の11月2日、第11回東京モーターショーでミケロッティ氏デザインのトリネーゼデザイン (イタリア風デザイン) として技術の先進さと共に発表しました。
 実はそれにかなり先行して、「輸出適格車」のコンテッサ1300は、フランスはパリで自動車専門のコンサルタントを起用し、欧州デビューを目論んでいました。その指揮を取られていたのが、当時の役員であった内田一郎さんでした。自ら名付けた「コンテッサ」、そして「輸出適格車」構想の生みの親でした。
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第二楽章 – 展開:第52回 パリサロン (1965年) 

 2年目となる1965年のパリサロンに向けての出来事を整理してみましょう。
 日野自動車の小型乗用車の師でもあるルノー 公団 (当時) の本拠地、フランス&パリで4CVから進化した純国産車であるコンテッサ1300を発表&販売すると言う壮大な夢はどうなるのでしょうか?
  1965年のハイライトはやはりここのテーマである第52回パリサロンです。何といっても前年の1964年含めも当時の日本のOEM各社は日野自動車以外 (1965年度はホンダが出展) 、この場には居なかったのですから!しかも、フラグシップというべきコンクールで名誉大賞を得た “コンテッサ1300クーペ” が出展できるようになったのです。
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第三楽章 – 断腸の念:第53回 パリサロン (1966年)

 1966年に入り、兼ねてからの代理店、E. Dujardin SA社に加えて、周辺諸国での代理店設定、完成車輸出、各地のモーターショーへの出展、さらに走るイベントやエレガンスコンクールなど、壮大なプラン本格化してまいりました。これも1964年以来の足跡の結果を示すものです。
 1964年、1965年、そしてこの年、1966年は日野自動車にとって3年目の第53回パリサロン、コンテッサ1300セダン (PD200) 、クーペ (PD400) のフランスでのホモロゲーションは取得しました。欧州での実り多くの1966年のイベント、そして次なる第四楽章、すなわち華麗なるフィナーレを迎えられたのでしょうか?
 主なイベントをハイライトしてみましょう:
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終わり:総括

 記録にはない記憶に残るネットのこの画像は、1965年パリサロンと称されるものの、その際のクーペの奥に位置するセダンと比べると周辺環境からみて整合性がとれない!
 また標準仕様ではないルノー R8 ゴルディーニのようなルーフアンテナも一致性がない。確かなる検証が必要である。このセダンにも  “MADE IN JAPAN” が誇らしげに掲げられている!
 日野コンテッサ1300には、日本国内での情報やナレッジだけでは語れないヒストリーが多くあり、その一つが1964〜1966年のパリサロンです。
 私たちは、壮大なビジョンと戦略をもって、その実現のために心血を注いだ注いだ関係者がおられたことを忘れてはなりません。また、残念ながら (自ら) 抹殺するような行為には大いなる抵抗を感ずるものです。「記憶を持たない民族には未来もない (陸 秋槎) 」のように、自らの過去の否定は、自らの将来がないことは歴史をみても明らかです。
 日野コンテッサ1300の輸出や1300スプリントについて、オールドタイマー誌の取材活動のインタビューを通じて、記述にように歴史を否定するような知らぬ存ぜぬの態度が感じられました。これこそが問題であり、トヨタ自動車との業務提携などを通して、日野自動車として高いレベルのビジョン (日本を豊かにする) を追求することから、「牙を抜かれたライオン」の如く単に技術だけを求める日野自動車へと変化してしまったのかのようでした。
 同インタビューの中の日野自動車の一連のガソリン小型車の計画を築いた岩崎氏の思い、「薫陶を受けた日野自動車の日本を豊かにすると言う小型乗用車製造という社会を変えるビジョン、しかし開発現場は徐々に技術中心へと変化」と憂いを語っていたことがオーバーラップする訳です。
 後々、自慢のジーゼルエンジンに関する技術もコモンレール技術などに見られるように完全に欧州勢の後塵をあびることになったと考えます。それは何故でしょうか?ひいては昨今の排ガス不正など、実はその根っ子は企業文化の根幹に触れる根深いもののような気がしています。つまり、“葉っぱや花など陽のあたった部分に水、すなわち栄養を与えても生物は枯れるだけで、根っ子を腐させるこくなく如何に健康で正常に育てるか” ということと感じます。
 以上ですが、日野コンテッサ1300の話しが企業倫理のようにもなってしまいました。日野コンテッサ1300の背景には、日本を豊かにする、そのためには世界に通用する乗用車を創る、それには強固な意志があったという当時の日野自動車の松方社長や役員であった内田一郎さんたちが何を思い、何をしたかの事実を1964〜1966年のパリサロンを通じて記述してみました。
 松方/内田両氏の意志は残念ながら実現しませんでした。それはまさに断腸の思いであったことは間違いありません。また、当時の日野自動車に期待していた日野コンテッサ1300を販売をすすめたE. Dujardin SA社や各国の代理店の思いはどうたったのでしょうか?
 これについては事実して現地で語られていることは、日野自動車はその事業継続をしっかりと支援したようです。つまり、トヨタ車をもって事業転換、これについては、ニュージーランドの生産・販売も同様で、「日野自動車の内田さんには大変感謝している」と今でも語り継がれています。
 縁あって2010年6月、パリでの日野コンテッサ1300を辿る旅、以下はその際の画像です。フランスの代理店、パリ12区にあったE. Dujardin SA社 (323. RUE DE CHARENTON) 、そこを尋ねると、今はトヨタの看板がかかっておりました。この建物は当時からのものだそうです。おそらくE. Dujardin SA社は、日野車からトヨタ車に転換したことを想像できるものです。
 このトヨタのガレージショップでは、残念ながら昔のことはわからないというでした (つなぎ姿の修理工?) 。しかし、オフィスに中には、画像中央のように「錦鯉」のパネルがありました。これは日野の時代からあったのだろうか…なんて、日野コンテッサ1300たちがここに佇んでいたのかなど、もろもろ思い巡らした次第です。文化の歴史とはこのようなもので、決して消えてしまうことはないと確信した瞬間でした。
 (終わり)
20030604 Origina
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