日野コンテッサ1300小史

1952年〜1967年販売・製造中止まで)

日野コンテッサ1300小史(1952年〜1967年販売・製造中止まで)

 日野コンテッサ1300の歴史を語るには、その前身となる日野コンテッサ900の開発とその周辺の状況から理解することが望まれます。以下は、別稿の「日野の夢-コンテッサに託して」の取材に際して、日野自動車の関係者の歴史の証言をいただくためのデータとしてリストにまとめたものです。

 内容自体はその当時から一部修正を行っており、現在も進行中です。尚、そのソースは当時の一般的なメディア(新聞&雑誌)並びに日野自動車資料(社歴&社報)を含みます。

日本の工業国への転換、大衆車の生産、日野自動車の夢 -すべてはここから始まった!ルノー公団の提案...(1952年)

  • 1952年6月:ルノー4CV型組立工場、日本に設置する日野ヂーゼル工業株式会社宛提案
  • 1952年7月:4CV型組立工場を日本に設置する圏に関する日野ヂーゼル工業株式会社とルノー社との契約、交渉開始。
  • 1952年10月:(覚書) 4CV型自動車の部品の全部を五ヶ年以内に国産化することをルノーは基本的に承認する。日野はルノーに一定のロイヤリテーを支払う
  • 1953年2月:4CV型組立工場を日本に設置、日野ヂーゼル工業株式会社と国営ルノー工場管理局との契約
  • 1953年2月:技術援助契約締結許可申請書:大蔵大臣(向井忠晴)/通商産業大臣(小笠原三九郎)/運輸大臣(石井光次郎)
  • 19530326 Renault Hino 4CV w600
  • 1953年3月26日:ルノー4CV発売披露会を後楽荘にて開催
  • 1953年4月:ルノー公団ビニヤールとルノー4CV車国産化について第1回会議 (@ルノー公団)
  • 1953年6月:ルノー日野 CKD 1号車完成(記録写真に依る推定)
  • 1953年12月:「ルノー製4CV」CKD生産を開始
  • 1953年12月28日:日野ルノー 、国産化努力、300台達成に伴い、55,000円の値下げで740,000円に (工場渡) 。1月1日販売分より実施 (日野ルノー 販売)
  • 1955年2月:日野課題、4CV車設計変更の交渉(日本に於ける特殊事情による設計変更)
  • 1956年初め:コンテッサ900、具体的検討開始
  • 1956年7月16日:日野ルノー 、国産化率75%に達し、65,000円の値下げで675,000円に (工場渡、属品、工具スペアタイヤなし) 。 (日野ルノー 販売)
  • 1956年末:コンテッサ900、粘土模型より候補選出
  • 1957年2月5日:日野ルノー 、国産化完了、30,000円の値下げで645,000円に (工場渡) 、2月1日ユーザー渡しに遡る。 (日野ルノー 販売)
  • 1957年:日野コンマース、企画・設計に着手
  • 1957年7月:コンテッサ900手板金の実体模型完成
  • 1958年1月:コンテッサ900、試作1号車完成
  • 1959年1月10日:日野ヂーゼル工業株式会社製品の中央販売機関としてヂーゼル部門を日野ヂーゼル販売会社、ルノー 部門うぃ日野ルノー 販売会社が各々分担してきたが今般、日野ヂーゼル販売会社が日野ルノー販売株式会社を吸収合併、元売販売機関の一元化を図る。合併は昭和34年4月1日。
  • 1959年春:日野ルノー、東京 高輪警察署のパトロールカーに採用される (2台)
  • 1959年10月1日:日野ルノー車同好発足、会員400人、ルノー9台揃う。
  • 1959年11月30日:日野ルノー、国産化完了し品質改良が進み予定の生産台数を達成、12月1日より大幅値下げ。スタンダード車、575,000円に (東京) 。
  • 1959年末:日野ルノー値下げ断行、オートショーにて万能商業車「コンマース」発表
  • 1960年1月:コンテッサ900、試験開始2年後、社外テストに出る。
  • 1960年2月2日:ルノー技術援助契約の延長認可される:かねて日本政府に対し申請していたルノーと日野との技術援助契約の延長が2月2日附けで決定した。これで現在の契約の終了する昭和31年3月31日よりさらに向こう2カ年「ルノー」の生産が可能になった訳である。前回の契約との相違点は次のようである。技術援助の対価(ロイヤリティ)が従来より4割安くなった。補給部品のロイヤリティが免除された。従って今回の契約は日野にとって非常に有利となった。
  • 1960年2日:小型エンジン工場完成
  • 1960年2月:日野コンマース、発売開始
  • 1960年2月中旬:三井精機“ハンビー、タイに輸出契約に成功、280台、価格:約17万$ (約6,112万円) 
  • 1960年4月3日:走る看板ガーリックカー:日野ルノーをただで差し上げますと、発表して、多くのモーターファンから、三万通の申し込を受けたSB食品の走る看板、ガーリックカー百台の引き渡し式が、4月3日、東京日野自動車杉並営業所で行われた。
  • 1960年5月16日:日野ルノー値下げ断行、スタンダード、57万5千円から52万5千円、デラックス、62万4千円から57万5千円(東京地区)
  • 1960年6月21日:日野タイおよびビルマに "ハンビー" 引続き大量輸出成約、さらに1,300台の追加契約。価格78万5千$(約2億8300万円)
  • 1960年7月8~17日:日野ルノー、東京日本橋、高島屋の「台所から生まれる生活展」のポニー・ハウスに日野ルノー展示
  • 1960年7月13日:パリ祭の前夜際に、ルノー参加者無料招待
  • 1960年7月14~8.20日:日野コンマース、第九回江戸趣味納涼大会(上野忍ばずの池)の「新しい生活コーナー展」に日野コンマース展示
  • 1960年7月27日:ルノー、日本モータリストクラブが正丸峠往復試験
  • 1960年8月:ハンビー、300台、ビルマへ
  • 1960年夏:コンテッサ900設計完了後、イタリアに人を出し、カロッツェリアを全部当たる。そしてミケロッティにコンテッサ1300のデザイン依頼交渉開始する。
  • 1960年10月17日:日野ルノー値下げ、生産以来、量産体制の確立と合理化、そして今春完成の小型車専用工場の稼働に、増産の工場。スタンダード:498,000円、デラックス (ラジオ、ヒーター付):570,000円。店頭渡し価格 (スペアタイヤ、工具付) 、10月19日実施。
  • 1960年10月21日:東京日野自動車、16大学にルノーを贈呈(早稲田、慶応、一ツ橋、東京、専修、日本、中央、成城、成けい、亜細亜、法政、明治、立教、東京工、青山学院、拓殖の各校)
  • 1960年10月24日:第7回全日本自動車ショー(東京晴海の貿易センター),日野コンマース(キャンパー含む)、ルノー4CV展示
  • 1960月11年1日、日野コンマース、駐日米大使ダクラス・マッカーサ二世、日野コンマースのキャンパーを賞賛(19601201_日野新聞)
  • 1961年春:ミケロッティよりコンテッサ1300のデザインの契約の内諾を得る
  • 1961年2月26日:コンテッサ900、社員の社内見学会
  • 1961年2月27日:コンテッサ900、新聞発表(午前&午後の二度、経団連記者クラブ16社、業界新聞50社を工場に招く)
  • 1961年3月1〜2 日:コンテッサ900、品川プリンスで新車発表会
  • 1961年3月11-12日:ビルマ、ラングーン市のアーミーガリソンシアターで日野モーターショー開催(コンマース病院車を展示、その後、赤十字社に寄贈)。
  • 1961年3月:日野コンマース、タイに180台、ビルマに100台、香港に60台、インドネシアに30台に輸出
  • 1961年4月1日 :コンテッサ900、コンテッサ900並びにブリスカ発売開始
  • 1961年4月:コンテッサ1300のデザインをミケロッティに依頼
  • 1961年4月17日~5月7日:第4回東京国際見本市(東京晴海)にコンマース、コンテッサ、ブリスカを展示
  • 1961年5月4日:定例取締役会に於いて、広瀬会長は取締役から相談役、大久保社長は代表取締役のまま取締役会長、松方副社長は代表取締役ならびに取締役社長、取締役副社長に菅波販売会社社長が現職のまま就任へと。
  • 1961年5月日:コンテッサ1300、基本方針決定、設計に着手
  • 1961年8月:コンテッサ1300、配置計画図をミケロッティに送付
  • 1961年10月24日〜11月7日 一般 第8回全日本モーターショー、東京晴海埠頭の貿易センターで開催。コンテッサ、ブリスカ、ルノー、日野コンマースなど20台出展(大型車含む) No
  • 1961年11月:コンテッサ1300、ミケロッティよりスケッチ数種受領、幹部会議での採択
  • 1961年11月:中南部インド学術調査隊、神秘の謎をさぐる15,000km後援に日野コンマース2台と社員2名が参加する。
  • 1961年11月30日:36回定時株主総会及び取締役に於いて、販売会社専務取締役の内田一郎氏が常務取締役(輸出担当)に新任
  • 1961年12月:コンテッサ1300、最終打ち合わせの為、岩崎部長及び自販幹部がトリノへ。
  • 1961年12月:コンテッサ1300、ミケロッティより実寸図受領
  • 1962年はじめ:日野コンマース、インドネシア海軍にコンマース40台納入
  • 1962年2月:日野ブリスカ、ライトバン、ピックアップ、そしてパネルバんの新機種を追加o
  • 1962年2月〜5月:コンテッサ1300、ボデー担当者、ホワイト・ボデー製作の為、トリノに滞在
  • 1962年2月23日〜3月2日:コンテッサ900、バンコクのジャパン・モーター・ショーに出展
  • 1962年3月:コンテッサ1300、コンテッサ900の改造で予備的基礎実験開始
  • 1962年3月9日 :コンテッサ900、沖縄展示のため、横浜港より船積
  • 1962年3月19日:ルノー公団と間の4CV乗用車の日本での製造契約、2月末期限完了、さらにニカ年無償で生産継続の契約完了。
  • 1962年3月28日:コンテッサ900、各国展示のため、横浜港より船積
  • 1962年4月14日:エールフランス、1952年11月就航の東京パリ間の十万人目の旅客に "コンテッサ" の贈呈を決定。
  • 1962年4月14〜17日:沖縄の首府那覇市で日野の新車展示会開催。コンテッサ900左ハンドル7台、コンマース2台、ブリスカ1台を展示。なお展示車は現地にて完売。
  • 1962年5月なかば:マレー、シンガポール地区へのコンテッサ・キャンペーン開始、サンプルカー、2台を出荷
  • 1962年5月19日:日本におけるルノー4CVの国産化の継続に関する契約(生産の2カ年無償延長)、補給部品の国産化の契約(無期限製造権の買い取り)
  • 1962年6月:コンテッサ1300 コンテッサ900スプリント、ミケロッティ氏製作開始
  • 1962年6月(?):広告指定文字、コンテッサ、ブリスカ、ルノーについて製品名に「日野」を付け、企業イメージとして「日野」と製品名のデザインにする。
  • 1962年6月(?):コンテッサ900、香港に累計30台のコンテッサを出荷
  • 1962年6月(?):コンテッサ900、東パキスタン、ダッカ代理店、日本総領事にコンテッサ販売
  • 1962年6月(?):コンテッサ900、アラビア、クエート向けにコンテッサ10台を出荷
  • 1962年6月15日:小型車ラインの本工場からの分離完了。羽村工場への移行体勢完備する。
  • 1962年6月26日:日野ブリスカ、大阪市難波の南海電気鉄道へのバス納入200台突破記念に2台のブリスカを贈呈
  • 900 Thailand Victory Monument h600
  • 1962年夏:コンテッサ900、タイ、サリット首相にコンテッサを贈呈。9月迄に販売計画、累計120台
  • 1962年夏:コンテッサ900、東南アジア地区、コンテッサ販売推進のためにタイ、バンコクのテレビ(アーミィ:陸軍のチャネル)に2ヶ月スポット放送
  • 1962年夏:コンテッサ900、コンテッサ900、100台を輸出成約(タイ国三井物産経由でビクトリー・オート社)
  • 1962年7月:コンテッサ900、カンボジア(旧フランス植民地)へコンテッサをサンプル輸出。年内に60台の出荷が確実に。ルノー市場独占に切り込む。
  • 1962年9月:総セールスマン:従業員(五千人)およびその家族を対象とした販売奨励制度発足
  • 1962年9月20日:コンテッサ900、1,000台をCKDで輸出調印。フィリピン、オートセールス社(販売代理店)&コンソリデーテッド・アッセンブリー社(組立会社)。
  • 1962年9月24日:タイ国にコンテッサ100台船積。タイ、販売代理店ビクトリー・オート社と輸出契約。2時オーダーとして追加150台を予定、来年末mでに船積の見込み。
  • 1962年10月:コンテッサ900スプリント製作完了
  • 1962年10月:コンテッサ1300、第1号試作エンジン完成、本格的実験の開始
  • 1962年10月31日〜11月8日:コンテッサ900スプリント、トリノ・オートーショーに出展
  • 1962年10月25日:第9回全日本自動車ショー
  • 1962年11月:コンテッサ1300、技術幹部、ボディ・リファインの為、再度トリノに飛ぶ
  • 1962年11月:コンテッサ1300、ボディ構造設計完了
  • 1962年12月:コンテッサ1300デザインに関するミケロッティとの正式契約
  • 1962年12月1日:日野ブリスカ、新型FG30ブリスカ発売開始(旧はFG10)。キャブが2バレルに。
  • 1962年秋:コンテッサ900、カンボジアに7月のサンプル出荷の結果として、60台の出荷確定。
  • 1963年1月29日:日野コンテッサ900スプリント、10月から生産!日野自動車がイタリアのデザイナー、ジョバンニ・ミケロッティ氏と契約し、日野からエンジン、ミッション、足まわりなどを輸出して、イタリアでボディプレスと組立を行う新形式で”日野コンテッサ900スプリント”というスポーツカーを生産することになった。本格的生産は10月からで第1期5000台を予定している。EC諸国および米国市場に輸出。米国市場向、2,500ドルを目標とする。
  • 1963年2月:コンテッサ900、タイ、バンコック・モーターショーにコンテッサ900をサンプル展示
  • 1963年2月:タイに組み立て工場,ビクトリーオート社とJV、乗用車100台/月、大型トラック30台/月予定
  • 1963年2月9日〜25日:コンテッサ900、マニラ・モーターショーに出品(一日目に6台の販売契約)
  • 1963年2月23日:コンテッサ900のパトロールカー、日本相互銀行の小松川支店の開設を記念に日野自動車と日本相互銀行の共同で、警視庁小松川署に1台を寄贈
  • 1963年3月14日:コンテッサ900スプリント、ジュネーブ・オートショーに出品
  • 1963年4月11日:コンテッサ900、イースト・アフリカン・サファリにコンテッサ900出場(個人)
  • 1963年4月14日:コンテッサ900スプリント、ニューヨーク・オートーショーに出品
  • 1963年5月3日:第1回日本グランプリ自動車レース
  • 1963年夏:コンテッサ1300、量産設計完了
  • 1963年8月28日:ブリスカ大量輸出、南アフリカ共和国、ヴァンルー・モータース社との間に、FGのCKD輸出の契約締結。8/28より毎月100台出荷
  • 1963年8月:広島タクシーにコンテッサ900、187台納車
  • 1963年10月:コンテッサ900、1964年型発表とともに、スポーティ版 900Sを発表、これを機に全車種35馬力から40馬力にアップ
  • 1963年10月25日〜11月10日 :第10回東京モーターショー、ミケロッティデザインのヒノ・コンテッサ900スプリント公開
  • 1963年11月0日 :コンテッサ900、スポーティ版 S を発売開始、これを機に全車種35馬力から40馬力にアップ
  • 1963年11月:日野自工、トヨタとの合併問題を否定
  • 1964年1月:コンテッサ1300、最終仕様による試作車完成
  • 1964年1月:F-3 (次期フォーミュラ) 第2次設計完了 (Cooper FIII 購入前提)
  • 1964年1月13日 FIA-1265 Gr.T Hino Contessa (893cc) 
  • 1964年2月12日:アルピーヌ・エンジニアリング社とプラスティックボデー付スポーツカーのプロトタイプ開発 (パイプフレーム、サスペンション、ブレーキなど) と日野エンジンのOHCへの改造契約
  • 1964年2月15日:ミケロッティ事務所とスポーツカー開発契約
  • 1964年2月28日:日野コンテッサ 馬力アップ。全車種 (デラックス&スタンダード車) 35馬力から40馬力に。
  • 1964年月春:コンテッサ1300、量産試作(数十台)
  • 1964年3月26〜30日:コンテッサ900、イースト・アフリカン・サファリにコンテッサ900S4台出場
  • 1964年6月〜8月:コンテッサ1300、オーストラリアでの16,000km連続走行試験
  • 1964年7月:コンテッサ1300、コンベア上での本格的生産開始
  • 1964年8月27日: 第三研究部設立 (競技車両開発部門)、J494 プロト車設計着手
  • 1964年8月31日:コンテッサ1300、東京高輪プリンスホテルにてコンテッサ1300及び同クーペ発表会。ジョバンニ・ミケロッティも同席
  • 1964年9月1&2日:東京品川プリンスホテルで、新型車「コンテッサ1300」の発表会を開催。会場には大平前外務大臣含み政界、財界、金融界、学界等の著名人多数来場。
  • 1964年9月4&5日:大阪の大閣園をかわきりに全国各地での新型車「コンテッサ1300」の発表会を開催。
  • 1964年9月:コンテッサ1300セダン発売開始
  • 1964年9月25日〜10月9日 :第11回東京モーターショー
  • 1964年10月1〜11日:第51回パリ・モーターショー(コンテッサ1300セダン2台出品)
  • 1964年10月31日〜11月11日:第46回トリノ・オートーショー(コンテッサ1300セダン2台出品)
  • 1964年10月:クーパーフォーミュラⅢ T72 購入手配 (第三研究部)
  • 1964年10月10日:コンテッサ900GTでロバート・ダンハム リバーサイドGP(カリフォリニア)にてGクラス2位
  • 1964年11月1日 :コンテッサ900GTでロバート・ダンハム ウイロースプリングのヒルクライム(カリフォリニア)にて1100ccクラスの1.2マイルで優勝、ピート・ブロックの2位
  • 1964年11月22日:コンテッサ900GT、Bob Dunham Del Marレース出場、クラス1位、総合6位
  • 1964年12月:三菱、日野、プリンス各社、タイにノックダウン進出
  • 1964年12月:TOHC、エンジン1号機完成 (ウエットサンプ)
  • 1965年1月22日 :大久保正二氏(日野自動車工業会長)はさる1月22日、東京都新宿区市ヶ谷土砂原町の自宅で急性気管支肺炎のため死亡。69才。
  • 1965年2月:コンテッサ1300 グァテマラ国際見本市でコンテッサ1300出品
  • 1965年3月:GTP、1号車完成 (右ハンドル)
  • 1965年3月5日:GTP、1号車、フォーミュラIIIと共に社内展示
  • 1965年3月:TOHC、エンジン3号機完成 (ドライサンプ) 
  • 1965年3月11日〜3月21日:コンテッサ1300 1965 ジュネーブ・オートショーにコンテッサ1300セダン&クーペ出展
  • 1965年3月29日:日野コンテッサ1300、価格改定。スタンダード:563,000円 (3,000円) 、デラックス:654,000円 (4,000円) 、クーペ:855,000円 (5,000円) 、() 内は値上幅。
  • 1965年4月1日:コンテッサ1300クーペ発売開始、日野工場渡し価格:855,000円 (スペアタイヤ、工具付)
  • 1965年4月3〜11日:コンテッサ1300、第9回ニューヨーク・オートショーにコンテッサ1300セダン&クーペ出展
  • 1965年5月2日:東京池袋、東武デパート屋上に、「日野サーキット」、「日野ハイウエイ」オープン。
  • 1965年5月14〜29日:Cooper T72 搭載 BMC FIII エンジンのベンチ試験。目的は今後の日野製F-III (日野フォーミュラ) 開発のため。
  • 1965年6月5日:消火活動に新兵器 日野ブリスカの化学消防車。千代田自動車工業で研究開発。構造が簡単で故障がなく消火操作は誰でものでき車両価格は他の消防車に比べて安い。
  • 1965年6月:コンテッサ1300、オーストラリア向け船積み:すでに5月80台6月122台完了。今後は平均100台以上を毎月輸出。代理店はブリスベーン市にあるウエストコ社。次年度より月間月間200台を目指す。6月26日から7月4日に横浜港でウエんチヨ号に船積。
  • 1965年6月:GTP、1号車、谷田部で最高速度200km/hを記録
  • 1965年7月10〜11日:イタリアのサンレモに近いアラーシオ (Alassio) で開かれたイタリア自動車協会および交通公社共済の自動車エレガンスコンクールで「コンテッサ1300クーペ」が名誉大賞、「コンテッサ1300」が一等賞、デザインしたジョバンニ・ミケロッティ氏が功労賞を受賞
  • 1965年7月:日野モータースポーツクラブ (HMSC) 、発足。社内ラリー、ジムカーナなどを目的。
  • 1965年8月1日 FIA-1396 Gr. T Hino Contessa 1300 (1251cc)
  • 1965年8月9日:子供の天国、コンテッサ・ハイウェイ、池袋東武デパート屋上に完成。日野コンテッサ 1300の1/3のミニチュアカー、子供4人が乗車可能。
  • 1965年8月17〜27日:日野製FIIIエンジン (71.6X62 : 998cc, CR=11.0) 2号機のベンチテストを実施
  • 1965年8月18〜22日:デル・コンテッサ MKIII、大阪阪急デパートに展示。主要諸元、排気量:1,251cc、最大出力:80PS/7,000rpm以上、トランスミッション:コンテッサ 1300用4速フルシンクロ、ボデー:プラスティック、ブレーキ:前輪ディスク、寸法:全長/全巾/全高 4,000X1,450X650mm、ホイールベース:2,300mm、トレッド:フロント 1,300mm リア 1,280mm、車両重量:400kg
  • 1965年9月:ピート・ブロックも参加し、GTP 1号車、鈴鹿でテスト走行実施、7周目にメタル焼付き、特別仕様のコンテッサ1300クーペおよびR&Dで購入のBMC Cooper T72 FIIIの試乗も実施。
  • 1965年9月:GTP、3号車完成 (右ハンドル)
  • 1965年10月1日 :コンテッサ1300、日野車カリブ海諸島へ続々。コンテッサ1300の人気は爆発的なもので、ハイチにおいてはクロード・デバリエ大統領の愛用車として一般国民のアイドルである。プエリトリコへ50台、ハイチへ30台、キュラサオへ40台、ドミニカへ180台(内、コンテッサ900が150台)輸出  
  • 19650102 52th Paris Saln
  • 1965年10月7〜17日:コンテッサ1300、第52回パリ・モーターショーにコンテッサ1300セダン&クーペ出展  
  • 1965年10月8日:ギリシャのカメノス社 (KAMENOS, S.A. アテネ) と代理店契約、イスラエルのイリン社で製作のコンテッサ1300を輸出する。現在までにイリン社から100台程度を輸出。コンテッサ 1300クーペについては日野からカメノス社に直接輸出する。
  • 1965年10月:コンテッサ1300、かねてより欧州諸国への進出計画をすすめてきたが、このほどフランスのパリ市のE.DUJARDIN.S.A.と代理店契約を結び、コンテッサ1300を50台(クーペ、セダン各25台)を輸出することになった。なお、フィンランド、デンマーク、ノルウェー、スイス、イギリスについても近く輸出を開始する。
  • 1965年10月:コンテッサ1300、ギリシャの自動車デーラー、カメノス社と代理店契約を結び、イスラエルのイリン社で製作のコンテッサ1300セダンを輸出する。現在までイリン社を通じて100台程輸出されているがコンテッサ1300クーペについては日野からカメノス社へ完成車輸出を行うことになっている。
  • 1965年10月1日 FIA-213 Gr. GT Hino Contessa Coupe (1254cc)
  • 1965年10月20日:コンテッサ1300、第50回ロンドン・モーターショーにコンテッサ1300セダン&クーペ出展
  • 1965年10月28日〜11月11日:第12回東京モーターショー、コンテッサ1300、10台展示
  • 1965年10月:GTP、4号車、第12回東京モーターショーに出品
  • 1965年11月1日:コンテッサ1300S、新発売
  • 1965年11月3〜14日:コンテッサ1300、トリノショーにコンテッサ1300セダン&クーペ出
  • 1965年12月: 第三研究部を解消、ライン業務に編入
  • 1965年12月11日:欧州進出第1陣のフランスに続き、第2陣として、フィンランド (KONE TUKKUOY社、コンテッサ1300 セダン&クーペ 完成車各10台 、年間輸出目標:500台) 、デンマーク (DARLOV MOTOR社、コンテッサ1300 セダン 完成車10台 、年間輸出目標:500台) 、オランダ (AUTOMOBIEL FABRIEK社、コンテッサ1300 セダン 完成車30台 、年間輸出目標:数百台) への舟積を開始。イタリアについては交渉中 (PAOLINI SAに決定済み) 。
  • 1965年12月24日:レース委員会、1966年5月の日本グランプリ不参加決定
  • 1966年1月12〜2月3日:コンテッサ1300、ベルギーのブリュッセルにおいて、第15回ブリュッセル自動車ショー開催。コンテッサ1300セダンを2台、クーペを1台出品。この車はオランダの代理店のオートモービル・ファブリック社より出品。
  • 1966年1月16日 :コンテッサ1300、キプロス島(地中海東部)のハッピー・バァレー・ドライビングテストでコンテッサ1300総合優勝。ドライバーは現地代理店のトリミティコス社長。ちなみに同島にはコンテッサ1300は50数台輸出された。
  • 1966年1月16日 :コンテッサ1300、昨年10月より始めたキュラサオ(オランダ領アンチル島の中の最大の島)に毎月10台平均輸出。
  • 1966年1月:J494、2号車完成 (左ハンドル)
  • 1966年1月:J494、FIA (Federation Internationale de l'Automobile;国際自動車連盟) 、レース参加規則、1966年度から大幅改訂 (最低地上高、室内寸法など) 、これに伴い5号車以降の再設計
  • 1966年2月:コンテッサ1300、11月、スイスのフィリピネティ社と代理店契約を結びコンテッサ1300の輸出を計画していたが、この2月、ジュネーブ市の郊外のランシーに同社設立になる、日野オートモービル社が完成したのに併い、3月より本格的輸出を開始。
  • 1.輸出台数:コンテッサ1300、セダン・クーペ完成車20台(クーペ、セダン各10台)
  • 2.年間輸出目標:300-500台
  • 3.販売方式:フィリピネティ社傘下の代理店、ディーラーを通じて販売
  • 1966年2月:コンテッサ1300、ニュージーランドへコンテッサ(ノックダウン)輸出:ニュージーランドのオークランド社にある、キャンベラ・モーター社と代理店契約を結び、コンテッサ1300を契約第一陣として次の通り輸出する。a
    1. 輸出台数コンテッサ1300セダン300台
    2. 輸出方式 CKD
    3. 船積 3月開始、6月完了
    4. 年間輸出目標 300台
  • 1966年2月:J494、Hino Proto、5号車完成 (右ハンドル) 、FIA 新J項及び軽量化 (60kg減) 織り込む
  • 1966年2月1日 FIA-5062 Gr. 1 Hino Contessa 1300 (1251cc)
  • 1966年2月1日 FIA-1413 Gr. T Hino Contessa Coupe (1251cc)
  • 1966年2月1日 FIA-1416 Gr. 2 Hino Contessa S (1251cc)
  • 65:66 HINO TODAY Swiss Dealer w600
  • 1966年3月10〜20日:コンテッサ1300、スイスのジュネープ市で開催されたジュネーブショーに日野オートモービル社と共同で、屋内展示場にコンテッサ1300セダン、クーペ各1台、屋外に試乗車として同じくセダン、クーペ各1台を出品。
  • 1966年3月:J494、TOHC、改良型3号機、94ps/6500rpm達成
  • 1966年3月:J494、GTP、全日本選手権第1戦 (3月21日、船橋) 向けに2号車 左ハンドル) &4号車 (右ハンドル) にてテスト開始、しかし、3月19日出場停止決定
  • 1966年3月:J494、Hino Proto、6号車完成 (左ハンドル) 完成
  • 1966年4月:日野モータースポーツクラブ (HMSC) 、体躯部に。
  • 1966年4月13〜24日:コンテッサ1300、バロセロナ・オートショーに昨年に引き続きスペイン代理店タバコス社を通じて、コンテッサ13003M、4M、クーペを出品。日本から唯一の参加となる。
  • 1966年4月27日 :コンテッサ1300、ベネルックス諸国の代理店であるオランダ、オートモービルファブリエク社のスローベン工場の起工式が行われる。現在、同社には、毎月コンテッサ1300(完成車)100台他の輸出が行われている。スローベン組み立て工場が完成すると同時にl小型車のCKD組立が開始され、初年度、コンテッサ、レンジャー、THトラックあわせて500台以上の組立、販売が予定されている
  • 1966年4月:J494、YE28、1号機完成
  • 1966年5月:コンテッサ1300、オランダ、オートモービルファブリエク社へ6-9月1000台輸出、来年よりKD生産移行予定。
  • 1966年5月:J494、Hino Proto、全日本選手権第3戦 (8月14日、船橋) 向けにテスト開始、当日のベストラップ 59’04” 1.8kmコース
  • 1966年5月:J494、Hino Proto、6号車完成 (左ハ;ンドル) 、羽村テストコース走行中に火災発生
  • 1966年6月2日:日野コンテッサ1300セダン、オランダへ大量輸出。オランダ (AUTOMOBIEL FABRIEK社 (サブデーラー数:オランダ 40、ベルギー 20、ルクセンブルク 1) に6月以降、完成車 1,000台輸出開始、9月完了。10月以降、完成車輸出に加え、来年1月にCKD方式へと移行、1967年の年間輸出台数は、2,000台1968年より年間5,000台と予定。
  • 1966年6月27日 :「いすゞ・日野両社の合併」否定談話 (サンケイ朝刊)
  • 1966年7月4日 :日野コンテッサ1300 パトロールカー、江戸川信用金庫の協賛を得て、警視庁に1台贈呈、配属先は小松川警察署、日野コンテッサ900のパトロールカーと共に2台目の稼働となる
  • 1966年7月16日:コンテッサ1300、ベルギーのフランドル地方のノッケ市 (Belgium. Knokke) で、1966年国際自動車エレガンスコンクールが行われ、プロフェショナル部門(メーカーまたはデーラー出品)でクーペ、プライベート部門(個人出品)でセダンがそれぞれ名誉大賞を受賞
  • 1966年6月:J494、YE28、7号機にて 110PS/7500rpm達成
  • 1966年7月25日 :コンテッサ1300、スポーツキット発売開始
  • 1966年7月:J494、全日本選手権第3戦、船橋サーキットから富士スピードウエイの変更に伴い人員体制を変更
  • 1966年7月7日:J494、Hino Proto、7号車完成 (左ハンドル) 
  • 1966年7月20日:J494、Hino Proto、6A号車完成 (右ハンドル) 。
  • 1966年8月14日 : 全日本レーシングドライバー選手権第3戦 J494、Hino Proto、2台出場、山西車総合3位、クラス1位 (日野プロト 緒戦を飾る)
  • 1966年8月14日:リヴァサイド 6時間耐久レース - コンテッサ1300クーぺ - 驚異の逆転勝 
  • 1966年8月21日 :コンテッサ1300、ニュージーランドで組立られたコンテッサ1300の発表会が、オークランド市近郊のキャンベラモーターテーム社で行われた。
  • 1966年10月15日:トヨタ・日野自動車両社が業務提携発表 (参考:トヨタ自動車 75年史 - 第2節 モータリゼーションと貿易・資本の自由化:第4項 日野自動車との提携) 
  • 1966年10月26日〜11月8日:第13回東京モーターショー、Hino Proto、6A号車展示
  • 1966年10月28〜30日:コンテッサ1300、第9回タイムズグランプリ(米国カリフォルニア州リバーサイド)で優勝
  • 1966年11月1日:FIA-1444 Gr. 2 Hino Contessa Coupe L (1251cc) 3 extensions
  • 1966年11月15日:Peter Brock Project、1967年度についてトヨタとの話合い
  • 1966年12月:トヨタとの業務提携の結果、日野のトヨタ実習者、名古屋に向けて東京駅より出発
  • 1967年1月1日:取締役社長 松方 正信 氏、年頭の時 - 乗用車、国全体では上昇、しかし、当社は苦戦。トヨタ自動車は今全社を挙げて日野を暖かく迎え、日野の立て直しのために想像以上の行為と援助を与えてくれている。...
  • 1967年1月15日:コンテッサ1300、サムライ・クーペ(第9回タイムズグランプリ優勝車)、新春第一戦を飾る。
  • 1967年2月:トヨタ・日野自動車両社業務提携中間発表
  • 1967年2月1日:日野ベネルックス販売体制確立。オランダをはじめとしてベルギー&ルクセンブルク諸国向け輸出を推進してきたが、このほど増版体制確立のために、日野ベルジアム社 (HINO BELGIUM S.A、ベルギー、ブリュッセル市) と代理店契約、オランダ代理店 AIHN社 (AUTOMOBILE INDUSTRIE HINO NETHERLAND) の組立車コンテッサ1300 セダン&クーペ 月産50台を販売 (大型車もあり)
  • 1967年3月:コンテッサ1300、カルメーン(中央アフリカ西海岸)、3年前より、メンヨリモータースを販売代理店にコンテッサ30台輸出
  • 1967年3月19日 :コンテッサ1300、第一回(1967年)全日本スポーツカーレース、コンテッサクーペ、クラス優勝
  • 1967年3月:日野自動車羽村工場の完成、東京都下羽村町に小型車専門の組立工場を完成、すでに操業を開始している。この工場はトヨタ自動車の技術指導のよって短期間に竣工したもので、敷地789,000平方m、建坪88,000平方m、従業員1,300名で月産7,000台の能力をもつ、現在つくられているのは、トヨタ自動車の新小型トラック『ハイラックス』とパブリカバンで、エンジンの製造は行わないが、ボディ、塗装、総組立の作業を担当している。日野自動車がトヨタと提携して以来初の本格的な結実として注目される
  • 1967年3月31日:コンテッサ1300の実質上の量産ラインの停止 (本サイトオーナーの分析、参照:生産台数:小型車の全モデル)
  • 1967年4月:コンテッサ1300、これまでパキスタンにコンテッサ・セダン300を輸出
  • 1967年4月9日:コンテッサ1300クーペ、キプロス・スプリングシールドレースで優勝
  • 1967年4月13〜16日:コンテッサ1300、フィリピンルソン島1周耐久ラリーでコンテッサ・セダン1300優勝
  • 1967年5月12日 :生まれ変わったブリスカ、日野ブリスカ(FH100)からトヨタブリスカ(GY10)へ
  • 1967年6月2日:ベルギーの第4回サンミッシェル自動車エレガンス・コンクールで、コンテッサ1300クーペが3年連続名誉大賞(通算3回目の意味)、セダンは第3位を受賞。
  • 1967年7月29日:ベルギーのノッケ (Belgium. Knokke) で行われた1967年国際自動車エレガンスコンクールで、プロフェショナル部門に参加したコンテッサ1300クーペ、またも名誉大賞(通算4回目)
  • 1967年9月18日:ベルギー&ルクセンブルク向け輸出のため、ファー・イースト・オートモーティブ社 (SA FAR EAST AUTOMOTIVE COMPANY) と契約締結、8月、ブリュッセル市を中心として日野車のパレードを実施販売計画:コンテッサ1300セダン&クーペ、月間50台 (大型車もあり)、これまで乗用車、400台の輸出実績あり
  • 1967年12月:生産終了 (国内での在庫車両&在庫部品での生産・販売は投資精算のために継続)
  • 1969年末:国内で最後の販売が10月に、これまで129,227台の日野車の販売があった。輸出も同様に終了、16,799台が世界の各地に散らばった。合計:146,026台だった。

HINO vehicles can't talk..., Their owners can. And from the way our sales are growing, a lot of people listening. - HINO Today ’65/’66 1.

(日野車は語るには難しい..、しかしそれはオーナーは可能です。 そして、弊社の販売が伸びているように、多くの人は判っているのです。)

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