Hino's Dream, Entrusting to Contessa
当時のカタログ (R123-50*66.1 (L.P)) より:モータリゼーションの大衆化を目論んでいたのだろう。
日野コンマース以来、日野のカタログにはこのような時代を先取りしたモータリングの愉しさを導く手法が多かった。
日野コンテッサは日野自動車工業において大型商用車と共に世界にはばたくべく二本柱の一本となる筈だった。それは日本が経済大国に突入する前だった。しかし、美しい伯爵夫人=コンテッサは日本経済発展のための企業再編成と言う時代の波によってひっそりと世を去らなければならなかった。
日野自動車工業(以下、日野)は、1964年9月、乗用車先進国の西欧社会にも自信をもって輸出可能な待望の小型乗用車コンテッサ1300を世に出した。それは「星子イズム」に育まれた日野の創業時からの夢だった。
日野自動車は1959年(昭和34年)にその社名を日野ジーゼル工業(株)から日野自動車工業(株)と改称、これは総合自動車メーカーを目指すことであった。純国産小型乗用車コンテッサ900の開発完了を前にした1960年、早くも待望の上級車、コンテッサ1300の開発が始まっていたのだ。
コンテッサ1300は1961年5月、日野自動車工業はコンテッサ1300に関する基本設計を決定し、その8月にはボディ設計を依頼したミケロッティ宛に大まかな要望書を送っていた。次期エンジンは大きなエンジンのため、冷却という熱の問題に対する技術陣の熱い戦いでもあった。
日野自動車は乗用車のプロダクション・モデルのみならずプロトタイプ車により技術の挑戦の場としてサーキット・トラックでの活動を積極的に進めたメーカーであった。日本初のフォーミュカー、デル・コンテッサなどにみられる様に優雅な伯爵婦人の名から想像も出来ない壮絶な姿がサーキットにあった。
日野自動車工業(株)は1966年当時、技術の挑戦の場と対米輸出を進めるためにチーム・サムライを結成、コンテッサ1300クーペで米国西海岸のセダンレースに参戦。その2台のコンテッサのボデーに「いざ征かむ、めにものみせん、青い目の大和魂、コンテッサ駆り」と「先陣は我がコンテッサ、青い目の大和魂、手綱さばいて」と描き、打倒ミニに燃えていた。
第4回日本グランプリも押し迫った1967年4月末、コンテッサ1300クーペのGR100エンジンを搭載した流麗な空力ボデーのサムライプロトはピート・ブロックとともにロサンジェルスから日本にやって来た。しかし、グランプリレースでは8万余の観衆の待つ中、富士スピードウエイのトラックを1mも走ることなく去ってしまった。
悲劇の序章の如く起こった第4回日本GPでのサムライ事件。コンテッサ1300の運命をあたかも無言で語ったようなノンフィクションドラマだった。直前の1967年4月には日野自動車のコンテッサ1300の生産ラインから既にその姿は消えていた。世界にはばたくべく心血を注いで世に送り出したコンテッサ1300は、1964年に1号車がラインオフしてから、わずか2年と7カ月、美人薄命の如くあまりにも短命だった。
日野コンテッサ1300は、発売開始 (1964年9月) から生産停止 (1967年12月) まで、約3年3ヶ月と実に短命だった。
この間に実に多くのイベントがあったが、自らかあるいは業務提携の関係であった市場撤退と言う結末は明らかにされてないと考える。
少なとも当事者の日野自動車からは明確な言葉はないように思える。
当サイトオーナーの独自の調査、独断と偏見も含めてそれら多くのイベントを検証してみたい。