Hino's Dream, Entrusting to Contessa
3. ジョバンニ・ミケロッティ氏との出会い - トリノの常識人
日野自動車は1959年(昭和34年)にその社名を日野ジーゼル工業(株)から日野自動車工業(株)と改称した。これは大型車メーカーから小型乗用車を加えて総合自動車メーカーを目指すことを自他共に認めるものであった。そうした中、純国産小型乗用車コンテッサ900の開発完了を前にした1960年(昭和35年)、早くも待望の上級車、コンテッサ1300の開発が始まっていたのだ。
若々しさを否応なく感ずるミケロッティ自筆のコンテッサ1300イメージ・スケッチ。
自筆のサインと共に日付が12/18/61とある。
3,1 トリノのバーにて - ミケロッティとの出会い
1960年(昭和35年)、当時、生産管理の研究にためにパリのルノー公団に駐在していた日野自動車工業(以下、日野)の山内常範は東京の家本潔(当時、専務取締役工場長)からの電話による業務命令を受け取った。それはイタリアのトリノに出向いて次期新型乗用車のために有能なデザイナーを探すことであった。
家本達はパリの自動車技術会の会長であったムッシュ・エッフェルから、トリノのデザイナーに関し情報を得て、山内はその年の9月にトリノを訪問した。そこで多くのカロッツェリアを訪問し、当時、新進気鋭のミケロッティが第一の候補に上がって来た。山内はこの最初のトリノへの旅でミケロッティとの接触を計るもののイギリス出張中のため失敗に終わった。
二度目の訪問では予定より大分早くトリノに到着し、山内は街のとあるバーに入り時間を過ごした。カウンターに身を落ち着けると、隣の客からいきなり話しかけられ「お前さんは日本人か?」と聞かれ、何とサントリーのダルマを棚から出してきた。そしてのその客は「ウイスキーはこれが最高なんだ」と言いながら山内に語りかけ一緒に飲み始めた。
話がはずみ、「トリノの何処に行くんだ?」と問われ、山内は「ミケロッティ氏の事務所に」と答えると、その客は「ミケロッティは私だ!」と相成った。その後のその場での話は当然のことながら盛り上がったに違いない。
偶然ともいえるこの旅でのトリノのバーの出会いである。ミケロッティはプリンスとの契約があり、2000cc以上は出来ないが、それ以下のものは可能ということで、日野との契約の内容や費用などを山内に詳細に語った。そして、ミケロッティは山内を前にしてその場でウイスキー片手にスケッチを書いたのである。これそのものが日野がミケロッティにスタイリングを依頼するきっかけの大きな材料となったのである。
山内にトリノ行きを指示した家本は「何時決めたかということについては、そのスケッチを見て決めた。それで無しにその後の契約には至らない」と語る。
日野はコンテッサ900のデザインに関し、その手法は全くゼロからの出発であり、暗中模索であった。同時に発表した同じエンジンを持つ小型トラック、ブリスカは社外の工業デザイナーを起用した。しかし、デザイン上、走る道具としての機能美ともいうべきものが十分ではなかった。また、コンテッサ900については、社内の大きな努力の成果はあったもののデザインの一貫性に関し反省が残った。
一方、プリンス自動車はスカイライン・スポーツでミケロッティ、日産自動車はブルーバードでピニンファリーナといった様にイタリアのカロッツェリアを利用する方向にあった。
この様な状況にあった日野は、極く自然な成り行きとして次期乗用車のデザインはイタリアでいったことで、まず山内が契約打診のためトリノ行きとなり、ミケロッティと偶然の出会いとなったのある。
謙虚なトリノ人 - ジョバンニ・ミケロッティ
ミケロッティは1921年10月、世界の自動車デザインの地、北イタリアのトリノ市に生まれた。トリノ市はその1/16がフィアットの労働者といわれる様に当時、ヨーロッパの自動車工業都市の一つであった。祖父は馬車職人、父はフィアットの鋳物技師と生来の自動車人である。6、7歳の子供の頃からから自動車に興味を持ち、1937年、16歳の時、見習いデザイナーとしてピニン・ファリーナの兄のジョバンニ・ファリーナの経営するファリーナ社に入社した。
そこでまず、カー・デザインの基礎を学ぶとともに、ハンマーの叩き出しからボディー製作の基礎を見につけた。このことは後々、車をどう造るかとということに関し、学問で学ぶ以上に役に立つことになる。
その後、ミケロッティは1年間でその経験と才能が認められと共に社長のアルフレッド・ピニヤーレの信頼を得、チーフ・デザイナー代理という要職を得た。そして、ファリーナ社のイタリヤ内外の裕福な顧客の要望に応じて数々のカスタム・カーのデザインを進めた。結果的にそれはトリノ市のみならず広くミケロッティの名前が知れわたることになった。
1949年、ミケロッティは独立し、ボデー・デザインに関しフリー・ランスで手がける”ステューディオ・テクニコ・カロッツェリア・ジョッバンニ・ミケロッティ”を設立すた。ミケロッティは自動車専門のボデー・デザインの最初のフリー・ランサーでもある。仕事はアルマーノ、ビニヤーレ、ギア、ベルトーネ、その他多くのデザインを手がけた。
当時までの代表的な作品として、アルピーヌ・ルノー、BMW700、BMW1500、アバルト850、アバルト1600、トライアンフ・スピットファイア、マセラティ5000など量産車を含め数限りない。デザインの特徴はスタイリッシュな細身の長身とでも言うべきか、低い車高でウエスト・ラインを下げ、そして細いピラーにある。
ミケロッティは他のカロッツェリアが進めた様な自動車及びそのボデーの生産を行うことを望まず、デザインないし、そのプロトタイプを製作することのみにとどまっている。それは、自分自身が納得した仕事をするためのもので、常に純粋にカー・デザインを高いレベルで行うことを守り続けた最後のデザイナーである。
多くのカー・デザイナーはミケロッティの動向/観察したといわれ、それは結果的に多くの影響を与えている。しかし、ミケロッティ自身はこのことを含め、自分の1500とも2000ともいわれるボデー・デザインの業績について多くを語ろうとせず、それは多くの自動車デザイナーの例にあらず非常に謙虚な姿勢であった。
当時の世界的ともいえるこのデザイナーが ”謙虚なトリノ人 - ミケロッティ” といわれた由縁がここにある。ミケロッティの選択とその起用に成功した日野は、コンテッサ900で得た純国産乗用車企画・開発・製造及び販売の経験をバックにコンテッサ1300の開発を進めることになる。時は1961年(昭和36年)4月であった。
謙虚なトリノ人 - ミケロッティさん、日野コンテッサ1300のデザインを前に!
3.2 コンテッサ1300企画 - 高性能乗用車&輸出適格車
1960年代、乗用車の一車種の開発におよそ4-5年程度かかるのが常識であり、コンテッサ1300もその例外ではなかった。コンテッサ900が発売する以前から、平行して時期モデルの検討が始まっていた。それは日野のお手本となったルノー4CVが5CVドフィン(845cc)、そしてR8(956cc及び1108cc)と発展した様に、国内外の流れに沿って車格向上という市場の要求を満たすことは自明の理であった。
日野の新型乗用車の最重点項目は、まず高速性能で、これは来るべき時代に備えることとコンテッサ900の輸出の経験からでもある。多くはタクシー需要として輸出された35馬力のコンテッサ900は、ヨーロッパ車に比べ非力であった。後にコンテッサ900Sの40馬力エンジンを強化し、顧客の要望に応えたのだった。高速性能は輸出適格車と必須事項だった。
次に貿易自由化に向かって、更なる品質の向上であり、これはトラブル・フリーを目指したものである。ルノー4CVで得た教訓でシャシーの強化・改良をしたコンテッサ900もエンジンの耐久性に関し、徹底的な改良をする用意があった。
今日でこそ、日本車は故障が無い、砂漠に行くなら日本車などと言われているが、コンテッサ1300開発当時のメーカーにとって車そのものの性能の向上並びに品質の改善は最大課題だったのだ。
このようなイメージを具現化したコンテッサ1300の基本設計は1961年(昭和36年)5月決定され、その内容は以下の様なものであった。
特に車幅に関しては、コンテッサ900よりは大きいものの当時の小型タクシーの料金制度(最低料金)にとらわれない1.5mを超えたものし、居住性を確保した。全高についてはスタイリング上と重心高を下げるために1.4m以下とした。これらはタクシー需要からイメージを格上げし、”格調高いファミリーカー”としてのマーケットを明確にしたことである。
そして、コンテッサ900で習得した技術、すなわちルノー4CV以来の合理的なリヤ・エンジン、4輪独立懸架など乗心地並びに操縦性の生かすことは当然のことである。しかし、それはボデー・デザインについてルノーからの脱皮をしたが中味についてはそうとはいえなかったコンテッサ900とは異なって、コンテッサ1300はオール・オリジナル&ニューを目指したものである。
当時、初代第二研究部部長として、これらの基本計画をまとめ上げた岩崎三郎は「日野の乗用車の設計部門は大型車と一緒であった。これを独立させて1962年(昭和35年)11月、コンテッサ1300の開発に向けて若手の有能なエンジン、シャシー、ボデーのエンジニア、及びインダストリアル・デザイナーを集めて小型車専門の第二研究部が出来た」と、語る様に乗用車に熱意を燃やした家本の陣頭指揮のもとに組織面の大幅な充実も図っている。
日野の夢、 ミケロッティの夢 - 日野コンテッサ1300
企画方針が決定した3カ月後の1961年(昭和35年)8月にはミケロッティのもとにコンテッサ1300のエンジンとシャシーの計画図がボデー・デザインのために送られ、日伊共同プロジェクトの始まりとなった。それは冒頭の山内に始まった様に日野のトリノ参りとなる。
「コンテッサ900のデザインは最終的に社内各方面からの多くに意見が取り込みすぎ、一貫性が無くなってしまった。このことが結果的に幸いし、コンテッサ1300では社内ではなく世界に通じるデザイナーに依頼が必要という上層部の結論を得た」と、岩崎が語る様に、ボデー・デザインに際しては、日野側からはデザイナーの自由な発想を妨げるとし、デザインの傾向などはミケロッティ側に一任することで以下の指示にとどめた。
当時、ミケロッティは「コンテッサ1300の様に、私のイメージがそのままメーカーに受け入れられることは本当に珍しいこと。それだけに、今度の仕事はやり甲斐のあるもの」と語る様に、通常、この種のものはメーカー側の意見が強く反映されるものである。
ミケロッティとの第一回の打ち合わせの内容を「日野からの委託の内容を話した後、ミケロッティ氏は素晴しく嬉しいと。と、言うのは今までアメリカのカスタム・ボデーなど相当な金額でやらしてもらったが、全く生きて行く生活のものであってあまり興味がなかった。この様な車(コンテッサ1300)を量産し、世の中の多くの人に使われることは一番願っていたこと。そして、リヤ・エンジンをやりたかった。それは自分が思っていたイメージとピッタリと一致する。と、ミケロッティ氏は言われ、私も聞いていて大変感激した」と、岩崎は懐かしく語る。
これは当時、例えば、日産自動車のブルーバードがピニンファリーナ・デザインで1億円以上といわれた時期に、ミケロッティのコンテッサ1300のボデー・デザインがプロトタイプ製作を含めて2400万円であったことからも日野のコンテッサ1300に対するミケロッティの姿勢と意欲を伺い知ることが出来る。
ミケロッティ側では数種のアイデア・デザインを1961年(昭和36年)11月に完成させた。これを日野側(自工及び自販)で十分検討の上、原案の決定のために岩崎と自販の幹部が翌12月にトリノに出向いた。そして、早くも年の明けたばかりの1962年(昭和37年)1月には実寸図の受領となった。
デザインの特徴はミケロッティが語るところのすぐれたプロポーション、重量配分、及び流体力学、具体的にはスピードが出せること、燃料消費率が少ないこと、乗り心地が良いこと、室内装飾が良いこと、生産が容易なことなどを目指したものであった。
例えば、Vカットのフロントのノーズからボンネットのつながり、ヘッド・ライトからサイドへの流れ、フロント・ウインドウ・シールドからルーフのエッジなどスムーズな流れで空気の渦流を避けるようにしている。
その後は研究部員が交代でトリノに長期滞在し、プロト・タイプ車作成の共同作業にあたった。当時のミケロッティのプロト・タイプ車完成まのでプロセスは通常、アイデア・スケッチ、原寸線図、木製モックアップ、手板金、組み立てと進めるがコンテッサ1300の場合には木製モックアップに平行して1/5石膏モデルを製作し、慎重をきしている。また、トリノ工科大学の協力を得て1/5モデルによる10Km/h単位での風同テストも行われている。
これらの一連の作業はミケロッティ側及び日野側双方、全く相互の共鳴に元に信頼をもって進められた。「大変な日本びいきで丁度良かった。奥さんも非常に日本的な奥さんで、日本人に非常に近い感じで。ミケロッティ氏自身も非常に情が厚い人だった」と、当時、長期滞在したコンテッサ900のデザインを完成させた高戸正徳(現、日野アトラデザイン取締役)とミケロッティとの共同作業当時の思い出を語る。
そして、1962年(昭和37年)6月には待望のプロトタイプが完成した。
日野コンテッサ1300の木型モデルを制作中のミケロッティさん。
3.3 ミケロッティの贈り物 - コンテッサ900スプリント
ミケロッティはコンテッサ1300の基本的なスタイリングを一段落させた1962年の6月、ほとばしるエネルギーを止めることが出来ない様な勢いで自ら一台のライト・ウエイト・スポーツの設計/製作を開始した。それはそれまでのアルピーノ・ルノーなどミケロッティの一連のデザインの特徴である低いウエスト・ラインや細く見せるピラーなどその異才を存分に表現したものであった。
それはミケロッティ自身の実力を表現するに打ってつけの素材が現われたからだ。低いウエスト・ラインが実現出来るリヤ・エンジン車のコンテッサ900(実態は中味の無い)がコンテッサ1300のデザインのために日野から送られていたのだ。
1961年末、岩崎がトリノを訪れた際、ミケロッティからコンテッサ1300の契約とは別に900ccのリヤ・エンジン・スポーツカーを自分の意思で作りたいとの提案がなされ、そのためのコンテッサ900のエンジンとシャシーの無償提供の可能性の打診があった。「社には事後承認をとる形でミケロッティ氏の意向をその場で受け入れた」と、岩崎は当時を思い出す。
その直後、第二研究部からコンテッサ1300のホワイト・ボデーの設計のためにミケロッティのもとに長期出張した藤島昭夫は「ある晩、ミケロッティとオールドパーを一本空けてしまった。次に日本のサントリーの角を空け初め、それを肴に日本のトランジター・ラジオとカメラの優れた技術の話題となった。そして、日本のエンジンも日野が優れている筈と。自分はそれでスポーツカーを造りたいとウイスキー片手に熱く語った。翌日、素面になって念のため確かめたら本気だった」と、付け加える。
日野側の要望、すなわちビジネス上の契約で進められたのが市販されたワン・サイズ大きなコンテッサ1300であり、「コンテッサ900のままでも素晴しい車が出来る」とその性能と構造に惚れ込んだミケロッティ自身の申し出で、コンテッサ1300とは別のラインで進められたのがコンテッサ900スプリントである。
当時はコンテッサ900クラスのサイズでアバルト、アルピーヌ、フィアット850クーペなど魅力的なライト・ウエイト・スポーツが多くあり大きな13001ベースでは無くともというのは的を得たものである。
ボデーは日野から送られた輸出用コンテッサ900のシャシー、フロアー・パンなどをベースに製作され、パワー・ユニット及びシャシーは美しいボデーにふさわしく、当時のボディー・メーカー、ナルディの協力によりチューン・アップされた。
スタイルはまず、空力的に優れたものであり、低いフロントとカット・テール、所謂コーダ・トロンカだ。また、安全性への配慮の必要性。典型的な例として、弾力性のあるフロント・ダッシュボード。そしてシンプルなスタイリングであること、これは後々、生産コストを下げることになる、等などである。
コーダ・トロンカとは空力の性能を向上させる手法でリヤのテールを垂直に切ることで、古くはアルファ・ロメオTZ、コブラ・デイトナ・クーペや日野サムライなどがある。最近では、先代までのホンダのCR-Xを例としてあげることが出来る。勿論、コンテッサ1300もこのコーダ・トロンカだ。
コンテッサ900スプリントはこのようにミケロッティ自身の全てのアイデアやエネルギーを感じることが出来る。その製作はほぼ4カ月という非常に短期間で完成している。
プロトタイプ車は1962年(昭和37年)の10月に完成させ、早くもその月の末のトリノ・ショーに持ち込んだのあった。それは「トリノのスタイリストは際立った空力処理をもってエレガントなラインの特徴的なスポーツカーを仕上げた。このクーペの流線形はエンジンを後ろに持つことで実現された。近い将来、このコンテッサ・スプリントはイタリアで量産化されるだろう」(スタイル・オート誌、No.1)と世界に報じられた。
丁度その時期、ミケロッティとコンッテサ1300の打ち合わせでトリノにいた岩崎はこのトリノ・ショーに内田一郎(当時、常務取締役輸出本部長)と共にコンテッサ900スプリントの評判を目にすることになる。「大変の評判でトリノ・ショーを圧倒した。当地の新聞でも第一面で取り上げられ、ミケロッティは大変ご機嫌だった。何度見ても美しかった」と岩崎は思い出を語る。
ミケロッティさんによる日野コンテッサ900 スプリントのオリジナルデザイン。
センターピラーの修正に注目!(1962年4月頃と推定)
3.4 消えた市販計画 - 新たな計画へと
コンテッサ900スプリントはその後、トリノ・ショーに続いて、1963年(昭和38年)3月はジュネーブ・オートショー、4月のニューヨーク・オートショーへと世界のメジャーな場でデビューしたのであった。
そして、その年の10月、遂にコンテッサ900スプリントの華麗な姿は第10回全日本自動車ショーで我々の前に表わした。この頃には内外に報道された”イタリアで生産、EC及び米国にて2300ドル程度で販売”と前評判と共に大きな話題となった。しかし、その後は一切、日野の社内から外に出ることなく今日に至っている。
本計画の日野側の蔭の企画、演出役でもあり、スポーツカー生産に夢をかけていた内田は、年明けて1964年(昭和39年)の初頭、「発表した当時は、各国でセンセーションをまきおこしたぐらい時代に応じたデザインで相当の需要が期待された。イタリアで企業化を計画したところ、イタリア国内の大メーカーの圧力をうけて、しばらく現地情勢をみた後、イタリアでの製造をみあわせた」と語っている。
一説によれば1963年10月から第一期生産として5000台の量産、また、トリノ・ショーでは予約注文が殺到とある。しかし、その事実確認を可能にするほど当時の情報が残存している状況ではない。現実的に考察してみれば、次の3つの点の考慮もすべきだろう。
1番目はプロト・タイプが完成して12カ月も満たない期間で5000台もの生産が出来る体制及び工場がイタリアにあったのだろうか? 2番目は日野側のシャシーやパワー・ユニットの生産体制とヨーロッパ及び米国に輸出した際の保守の体制が現実的なものであったのだろうか? 3番目は車そのものがプロト・タイプとして熟成度である。
特に3番目の熟成度についてはカロッツェリアという範囲の生産、すなわちハンド・メイドであれば可能と思われるが大量生産のためのプレス型などや更に量産車としての居住性やリヤ・エンジン固有の熱対策などを前提にすれば未だ多くの試行錯誤が必要と思われるものである。
「イタリアでの製造は延びてしまったが、その間に、発表した当時にくらべ、1000ccクラスの車の性能が非常に向上した。スポーツカーとして、より魅力的なものをあらためて計画中で、ぜひ今年中(1964年)にまとめてみたい」と内田は付け加えている。
この様にコンテッサ900スプリントはプロトタイプにとどまってしまったがミケロッティの作品としてコンテッサ1300のデザインがまず、出来上がりその後、完成されたということだ。また、後々それは、コンテッサ1300の最終デザインにも大きな影響を与えることになる。
「カー・デザイナーも芸術家と同様、その作品にピークがある。コンテッサ900スプリントはミケロッティに人生の中で絶頂期にあたる頃」とデザイナーの高戸が語るようにこのスプリントについては生涯の数多いデザインの中でミケロッティが自他ともに認める様に最高の作品と評価されている。
コンテッサ900スプリントの出来映えは当時、国内外に日野のコーポレート・アインデンティとしてポジティブなインパクトを大きく与え、日野の技術及びコンテッサのパブリシティ向上に大きく貢献したはずである。また、当時、総合自動車メーカーを目指す過程にあった日野の経営陣及び従業員達にも大きな希望と夢を与えたことには間違いない。
日野はコンテッサ1300開発ではそのボデー・デザインに関しミケロッティという最高のデザイナーを得た訳で、これは戦前のガス電時代に星子勇を得た様に、共に尊敬をし、謙虚さを以ってに一つの目的に向かうという点に共通点を感じざるを得ない。
ミケロッティ・日野共同作業によるコンテッサ1300のプロトタイプ完成の頃、日野側では新型エンジンなどコンテッサ900をベースに日夜研究・開発が進められていた。
1962年10年、トリノショーを前にしてメディア向け発表会:日野 - ミケロッティ:東と西がクーペで合作;
イタリーで製造、リアの水冷エンジンは日本から。価格は約2,300ドル。(当時の現地の自動車専門誌より)
1962年10月のトリノショーの成功を得て年明の1963年1月、
日野自動車は日本でもイタリアでの製造&販売計画をプレスリリース。
【表-3:コンテッサ900スプリント主要諸元】
部位 | 項目 | 諸元 |
---|---|---|
エンジン | 冷却 | 水冷 |
排気量 | 893cc | |
バルブ形式 | OHV | |
気筒数 | 直列4気筒 | |
位置 | リヤ | |
最高出力 (DIN) | 45hp (5,500rpm) | |
キャブレター | ウェーバー | |
トランスミッション | 形式 | フロア、4速 |
ブレーキ | フロント | ディスク |
リヤ | ドラム | |
性能 | 最高速度 | 140km/h |
最小回転半径 | 4,300mm | |
車体寸法等 | 全長 | 3,830mm |
全幅 | 1,470mm | |
全高 | 1,200mm | |
ホイールベース | 2,150mm | |
車両重量 | 650kg | |
装備など | フロントシート | バケットタイプ (前後とも本皮) |
ステアリングホイール | ナルディ | |
タコメーター | 機械式 (Veglia製) | |
全面安全パッド、ショック吸収機構 | 集中センターコンソール |