Hino's Dream, Entrusting to Contessa
7. サムライの切り取られた歴史、第4回日本グランプリ (1967年5月)
第4回日本グランプリも押し迫った1967年(昭和42年)4月末、コンテッサ1300クーペのGR100エンジンを搭載した流麗な空力ボデーのサムライプロトはピート・ブロックとともにロサンジェルスから日本にやって来た。しかし、グランプリレースでは8万余の観衆の待つ中、富士スピードウエイのトラックを1mも走ることなく去ってしまった。
富士スピードウエイでの数日後の日本グランプリに出走するために
ロサンゼルス空港でパンナムのカーゴ便に積み込まれる日野サムライプロト。
7.1 ピートの夢実行作戦 - 日野をパートナーに
ピーター・ブロック(以下、ピート)はニューヨークタイムスの記者であった父、第一次世界大戦時代のリバティ飛行機エンジンの設計・製作者だった祖父のもと、1938年(昭和13年)ニューヨークに生まれた。クルマを愛したピートはロサンジェルスはパサデナの自動車デザイナーの天才を多く生みだしたアートセンターカレッジを経て、1957年(昭和32年)に弱冠19才にしてデトロイトのGMのスタイリング部門でコルベットのプロジェクトに関わった。
しかし、GMという巨大組織での仕事を好まなかったこと、またピートの考えにあった小さなクルマ、小さなエンジンの高性能車というコンセプトが当時のGMで理解することは難しく、ピートは愛車のクーパー・クライマックスと共に再びロサンジェルスに舞い戻ったのだ。ハリウッドの外車サービス会社を経て1959年(昭和34年)にキャロル・シェルビーのプロジェクトに従業員第一号として参画する。レーシング・ドライバースクールのインストラクターで活躍した一方、フェラーリ打倒策のより空力特性に勝ったコブラ・デイトナクーペをデザインしたことはあまりにも有名な事実だ。
コブラ・デイトナクーペの成功はキャロル・シェルビーとフォード社の結び付きを一層強くし、皮肉にもピートが好んだアイボール(以心伝心の様なもの)での作業が進められなくなって行った。すなわち何から何まで細かな図面がないとクルマが出来ないという状態になって行ったのだ。ピートは鋭意デザインしたフォードエンジンを搭載したデトマソのレーサーや次期デイトナのタイプ65コブラ(スーパーコブラ)プロジェクトが宙に浮くに至って、ロサンジェルス空港近くの自宅のガラージに自身のBRE(ブロックレーシングエンタープラズ)を興したのだった。
その後、シェルビーと縁の切れたデトマソの完成にギアとプロジェクトを進め、そのグループ9の5リッター・レーサーは1965年(昭和40年)の秋のトリノーショーでピート・ブロックデザインのギア・デトマソとして専門家の間で大きな話題となった。ボデーの後部にピートが言うところの可変の”リングエアフォイル”を持ち、ボデー自体にダウンフォースを働かせようというものであった。いわゆる現代で言うウイングである。ピートは最初、コブラ・デイトナクーペに試みるもののシェルビーでは実現しなかったものである。
ピートはこのデトマソを50台生産されることを期待し、自身で米国の代理店とレーシングチームを持つことを計画したが実現に至らなかった。丁度このデトマソをイタリアで製作していた時期に日野から一通の電報を受け取ったことは前号の通りである。
この様な背景で1965年(昭和40年)9月の日野のオファー、特にレース委員長でもあった宮古 忠啓(当時、日野自工常任監査役)の熱意あるコンテッサ1300の対米輸出構想を聞き、具対策を長時間議論するに至ってピートは自身の夢がオーバーラップしたのではないかと考える。
ピートは「3つの目的が私としてあった。第一に日野の全米のデーラーの権利をもつこと。第二に次期モデルのコンテッサをデザインすること、これはミケロッティよりも優れたものを作る自信があったこと。第三に自分のレーシングチームを持つこと。これはパーフェクトドリームであった」と当時の記憶を鮮明に語る。
パーフェクトドリームを実現するために自ら行動を起こしたのがコンテッサ1300クーペのエンジンを搭載したプロトタイプ・レーサーだった。これはピート自身の能力を試すものでもあり、自身の夢に一歩も二歩も近づけてくれた宮古を初めとする日野への感謝の気持ちでもあった。ピートはこのプロトタイプ・レーサーにサムライと銘々、日野に披露すべく進めていたのだった。
ロス空港近郊のCuver CityのTroutman & Barnesの工房でのサムライのボデー制作が進められた。
制作は当時のアルミボデーの第一人者、Emil Diedt、氏はおそらく80歳、これが最後の作品となった。
7.2 シークレット・プロジェクト - 米国発カロッツェリア
コンテッサ1300クーペにより米国でのレース参戦を進めたピートプロックプロジェクトは対米輸出政策、品質改良などを前提に日野社内で重要な位置を占めて行った。しかし、ピートのプトロタイプ・レーサーに関しては全く誰にも知らされることなく進んでいた。ピート自身もシークレット・プロジェクトと名付けていた。
そのプロトタイプ・レーサーの実態は1966年(昭和41年)4月、まず宮古に知らされた。イメージメーキングモデルと称し、その前衛的とも言えるボデースタイリングだったせいか「宮古さんから返事はツーアドバンス(あまりに未来的すぎる)ですぐに売れるものでないと、しかし何らかのバックアップをすることを約束してくれた」と当時のサムライプロトに対する印象をピートは語る。
その後、5月に入りBREに長期出張中の鈴木 孝(現日野自工副社長)に初めて、1/5クレイモデルをピートから見せられることになった。この時サムライと名付けられたことも明らかにされる。鈴木は当時の報告書の中で「新鮮なアイデアに満ちた美しい姿態に驚嘆の声を禁ずることが出来なった」と、その印象を語っている。そして鈴木を通じ、サムライプロト独特の複雑な3次元曲面を持つフロントウインドウガラスの製作を日野に打診されることになる。
サムライプロトは日野に対するコンテッサ1300のGR100エンジンを搭載したプロトタイプレーサーのプレゼンテーションであるとともに、当時の自動車業界のイタリアン・カロッツエリア一辺倒に対するアメリカン・デザインの挑戦でもあった。
空力ボデーのサムライプロトの際立った特徴とは次の様なものであった:
リング・エアフォイルはギア・デトマソで具現化したものをさらに発展させたものだ。エアーフローについてはコブラ・デイトナクーペの反省やクルマ全体での空力特性のインプルーブを狙ったものだ。ラジエータのエアー排出はフロンドウインドウガラスの下部で行うものでサムライプロトで初めて試されたものだ。前面投影面積は最も高速性能に影響するもので1300ccの小さなパワーで220km/h以上を可能にする秘密はこの小ささにある。
尚、1/5クレイモデル完成の時点ではラジエータのエアー排出に関して未だ試行錯誤があったようだ。写真でも分かるように右半分がコンベンショナルなもので作られている。結果的にリスクはあるもののウインドウガラス面への排出を行った訳だがこれは富士スピートウエイに持ちむまでその効果を試すことが出来なかった。
1/5クレイモデルをベースにバック(合板で作る実寸大の骨組みの型でアルミボデーの典型的な型の作成方法)が作成され、ルグラン社製のスペースフレームと共にBREからほど近いカルバーシティのT-Bショップに持ち込まれた。T-Bショップとはディック・トルーマン(T)とトム・バーンズ(B)の両氏のガラージで50-60年代、一連のスカロボ・シリーズ、ポーパー(ポルシュ・クーパー)、シャパラル1、マスタングI など世界的なプロトタイプを作り上げた最高のアルミボディのスペシャリストであった。またルグラン社は当時、米国で最もポピュラーなスペースフレームの量産メーカーであった。この様にロサンジェルス近辺の非常に恵まれた環境の下、ピートはサムライプロトのために最高のスペシャリストたちを選択したのである。
T-Bショップではスペースフレームの改造が行われ、1/5クレイモデルとバックから徐々にボデーの製作が進み、9月末の時点で大まかな外観が明確になってきた。特徴的なドアのヒンジなど、デティールについてはその後煮つめられた。また、エンジンに関してはコンテッサ1300用のGR100と純レーシングエンジンYE28(日野プロトに搭載)を搭載すべく寸法のチェックなども進めている。
おりしもその直後の1966年(昭和41年)10月14日のトヨタと日野の業務提携はいずれ日野のレーシング活動が休止に向かうことを意味していた。前々号記述の9月のレース委員会で前向きに検討された1967年日本GPを目指したニューJ494(日野プロト)の開発は宙に浮き、130馬力オーバーが期待されたYE28Bエンジンも開発エンジニアの執念で1台を完成するに止まってしまった。
この時期、ピートプロックプロジェクトはコンテッサ1300クーペのレースでの活躍が物語るように宮古が当初狙った通りのものになりつつあった。コンテッサ1300クーペの販売デーラーの問い合わせが米国各地から寄せられて来たのだった。すなわち、コンテッサ1300クーペはピートの企画書通りに米国で小型クーペ市場を占有できるのではないかと、またダッツンのロードスター(SPL311)の好敵手となるだろうさえ信ずるに値するものだった。
これら好材料からトヨタ側でも業務提携を機にレース活動でピートの起用を積極的に進めたグループがあった。ピートは宮古と相談の上、結果的にトヨタ側へ1967/8年度のトヨタ2000GT、RTX、カローラ、プロトの開発など含めたプロポーザルを出すに至った。ここではコンテッサ1300クーペのレース活動が67年半ばに日野と契約が切れた後もトヨタが引き継ぐこと、それは受け入れる市場があることをピートは強調したのだった。しかし、サムライプロトに関してはトヨタからオファーがあったもののピートにとって日野のピートプロックプロジェクトの契約外でもあるし、ピート個人の日野に対するものであることを貫いたのだった。この時点でピートはトヨタ2000GTのレース活動やプロト開発など部分的な仮契約という形でトヨタと進んで行ったのだ。
1967年5月3日の日本GPを前に4月末にロスからパンナムのカーゴで羽田飛行場に到着。
早速、空港内の東急ホテルでプレスミーティングが開催された。
この時点でフェンダー上の左右のセブリングミラーは付いてなかった。
7.3 第4回日本GPに向けて - 執念の来日・参戦
この様な複雑な状況を経ている間に日本GP(JAF主催)も押し迫ったきたのである。そんな中、日野というスポンサーを失ったサムライプロトは宮古を初めとする旧知の佳き友人=日野の技術者たちの協力によって準備が進められたのだ。チーム監督にはピートが友人でもあった当時のMGM映画「グランプリ」の監督、ジョン・フランケンハイマーに交渉しグランプリに出演した「侍」三船 敏郎が起用されたのだった。1967年(昭和42年)の4月、JAFの発表した参加者リストのチームサムライは車名のヒノサムライ、ドライバーのピート・ブロック、監督は三船 敏郎とその派手の陣容が示すようにメディアを賑わすことになる。
そんな中、コンテッサ用GR100エンジンのパワーアップのノウハウが盛り込められたG型エンジンを搭載したトヨタブリスカ(日野ブリスカ小型1tトラックの改良型)が業務提携の成果として内示発表した4月26日(水)に、偶然にもピートとサムライプロトは羽田飛行場に到着したのだった。ただちに羽田東急ホテルで記者会見が行なわれた。本来ならば日野の首脳陣と共に行われるものだが、チームサムライ一行の4人だけでサムライプロトを報道関係者に公開する。
実はこの時点でサムライプロトはロサンジェルスに於いて十分は走行テストするに至ってない。それこそ前日に全体が組み上がり、BREのガラージの周りをテスト走行したのみでロサンジェルス空港に向かいパンナムの貨物フライトに収めたのである。しかし、羽田でのピートたちの意気込みに感じてか各紙は次の様に報道した。
来日早々話題にことかかなったが、スペアパーツが消えるというオマケまでついた。パーツは運送会社のミスで翌4月27日(木)に無事、サムライプロトの日本でのガラージとなった日野の工場に届けられ、日野の友人たちにより最終整備が進められた。ピートはドライバーズシートに座り、左右のサイドミラーを実戦的なポジションに固定し、富士スピードウエイに向けてエキゾーストパイプが作られた。翌、4月28日(金)の夕方、一行はロバート・ダンハム(以下ボブ)の寮友サムライコンテッサと共に富士スピードウエイに乗り込んだ。
そこでのサムライプロトは「ここでも人気の焦点。どれほどの質問を浴び、何百枚の写真をとられたことか。サムライの前にすべての他車の影は薄れた」と宮古は当時のアルバムに記す。そして4月30日(日)に事実上、サーキットでのシェイクダウンを開始する。
まずは最大のリスクを持ったラジエータのエア排出、これは予想通りオーケー、オーバーヒートは無し。そのまま、速度を増し3周目だろうか、富士の30度バンクを通過した後だった。油圧低下やらオイル漏れを起こしたのだった。ここはサムライチームにとって今までにない過酷な30度バンクを持ったトラックである。レースではこの様なことが日常茶飯事であるが。しかし、この日悪いことにボブの駆るサムライコンテッサも足だしとなってしまった。
翌、5月1日(月)は急遽、サムライプロト専用の部品を代えるために対策用のオイルポンプとコンテッサ用のオイルパンが日野の友人たちにより持ち込まれ、ボブのコンテのエンジン交換と共に一行は慌ただしい一日となった。だが正規の対策にはより多くの時間が必要であった。これはあくまで明日に控えた車検と予選に対するものであった。
5月2日(火)、チーム・サムライの監督の三船 敏郎は世田谷の自宅を愛車ジャガーで朝9時に出て、ピートたちが待つ富士スピードウエイに向かう。車検を前にした午後1時に到着。そして、現場で監督としての役目を果たすことになる。昼の1時半過ぎにサムライプロトは三船監督をはじめ、ピートがドライバーズシートにボブ、ジェフ、そしてジョーイらが慎重に手押しで車検ラインに向かった。
一連の検査が過ぎ、国際スポーツ法典J項で定められたロードクリアランスを検査する縦横80cm、高さ10cmの木箱を半ば通過した時である。周囲の静けさの中、ドンとボデー下部を打つた音。オイルパンが当たったのだ。そして「ロードクリアランス不足で失格です」と技術委員長の冷たい声が響いたのだった。有名なサムライ事件の勃発である。
予選開始は午後2時からである。オイルパンが一時的なものであることに関し、三船監督は技術委員会と激論を交したのだ。その間に予選は終わってしまい、JAF側は「”失格”の車両はレース出場を認めない」という結論を記者団に発表をしたのだ。しかし、この車検ではトヨタ自販がスポンサーになっていたといわれるローラT-70が回転半径が規定を満たないで失格を宣言されたまま予選になぜか出てしまったいう事実やロードクリアンス不足でメカニックが車体を持ち上げて車検を通過させてしまったクルマとか、これらサムライチームのみならず現場に居合わせた多くが目撃をしていた。これらは例外処置だったのか?午後6時の記者会見ではこの問いに対して競技長からは明快な回答がなされなかったのだ。
車検場の建屋を出て、有名な "サムライ事件" は勃発した!
ピートは厳しい顔でJAF検査員の説明を受ける。それを見つめる三船敏郎。
7.4 悲劇の序奏 - オーガナイザーとの確執
予選はのがしたものの決勝30分前まで再車検の権利がエントラントに認められている。サムライチーム側は問題のオイルパンを改修することを条件に「ルールはルール」と首を縦に降らないJAF側にねばり強い交渉を打って出た。この間、賞金なしの出場なら認めるとか様々な紆余曲折もJAF側にあった。夜も10時を回る頃、競技長を中心に緊急組織委員会を開かれ、その結果ピートを呼び出し次の様な中間結論を言い渡したのだ。それは安全性の保証、競技執行委員の支持、参加者の支持、そして審査委員会の承認の4点が得られれば競技長に一任するというものだった。すなわち、出走可能を期待させるニアンスであった。
丁度その時間、日野の工場から例の友人たちの手でGR100エンジンをパワーアップしたニューブリスカのG型エンジンが届けられた。実はこのG型エンジンのパワーアップや品質向上にピートも大きく貢献していた。ピートは油圧低下でダメージを受けたエンジンとG型エンジンの部品を合わせて新たに組み直すことを決意。この時、すでに午前1時を回っていた。そして、組み上がった時、すでに太陽が上がり初めていた。
5月3日(水)の日本GPの当日、サムライチームは全員徹夜明けの赤い目のまま改修整ったサムライプロトとともにJAF側からの返事を待っていた。しかし、何の連絡もない。午前10時すぎになり、JAF側から最終結論として4点の全てが満たされないことで一方的に失格が言い渡されたのだ。そんな中、前日車検失格のローラなどは再車検が行われ出場の権利を得ていったのだ。これが全ての結末だった。ピートがコンテッサエンジンを使用し、自身のコンセプトを具現化すべく1年に及ぶ努力はこの時点で全て消え去ったのだ。陰ながらここ1週間、寝ずの整備をした宮古と日野の友人たちも同様だった。
さて、この事態はサムライプロトが来日した以上にメディアを賑わすことになる。当時の模様を伝える見出しは次の様だった:
これらメディアはサムライチームが如何にJAF側と奮戦したか克明にリポートしたのである。そして、ピートは当時のオートスポーツ誌に特別寄稿として ”国際レースはまだ開けない!” と銘打って、日本のレースの国際的発展を願い、ピートが感じた第4回日本GPでの組織のカベ、責任者不在、規則と不公平などについて公に問い正したのである。
ここで本件に関し筆者はここ1年、主にピート側に立った調査だが次の様な考察をしたい。まず、当初、日本側のトヨタがピートを積極的に利用したいとの意向があったものの米国トヨタ側の一部にキャロル・シェルビーを起用したいとの動きがあった。これが良くも悪くピートの運命を左右した。その結果、個人を中心とした一部のグループがピートや日野が知る由もないところでサムライ買い取りを企て金銭的なトラブルが発生した。これに加えその他の要素も加わりピートが日本GPにサムライを持ち込むことを好まれなかった。にも関わらずサムライプロトは日本GPに現われた。その延長線上に日本GPの結果があり、ピートをすでに失っていたシェルビー側も起死奪回として積極的にそのグループに接近し、ピートのトヨタ2000GTレースプログラムはシェルビーに移してしまったのだ。
今となっては当時の事実関係を知ること難しい。しかし、事実としてピートはトヨタとのプロト開発計画は契約通りに完成・納入し、その後、日産と契約を進めた。そこでのダッツンはシェルビーのトヨタ2000GTをレースフィールドから消し去ったことは米国で有名な話であることを付け加えて置こう。
ピートは「当時、サムライプロトに関しトヨタの豊田章一郎さんとその関係者達はよくしてくれた。そして日野の皆さんは全ておいてパーフェクト、特に宮古さんは生涯のベストパートナー」と語り、宮古は「何としてもコンテッサ1300クーペだけは残したかった。ピートの活躍とともにフィアレディを超えるマーケットの展開を感じていた。そのためにも米国に移り住んでもよいと考えていた」と当時を述懐する。
今日サムライプロトそのものは伝説的に語り継がれているがピートたちの心血を注いだ努力はその事実が歴史から消え去っている。これをスキップしてはコンテッサの歴史の大切な部分を切り取ってしまうと筆者は感じざるを得ない。1966年(昭和41年)10月の日野とトヨタとの業務提携発表からこの第4回日本GPまでの間、約半年、秋のモーターショウに於ける日野の展示モデルからして一般ユーザーは大いなる期待を持ったのではないだろうか?これは宮古をはじめ日野の関係者も同様だったと想像する。しかし、巷にコンテッサ1300の製造中止の噂が流れ始めた頃、悲劇の序奏の如くこのサムライ事件が発生した。
FISCOでは出走できなかった。しかし、日野本社で宮古忠啓 (レース委員長) の計らいで手厚いもてなしを受けた。
この約2年後、宮古の個人的努力&仲介でピートは日産東京本社の米国のレースプログラムの契約を手にした。
米国でのDatsun 510 & Fiarladyのレジェンドを創ったルーツはここにあったのだ!
【表-10:サムライプロト主要諸元】
項目 | 部位 | 内容 |
---|---|---|
エンジン | GR100型日野コンテッサ用グループ2仕様 | |
ボア | 72.2mm | |
ストローク | 79. 0mm | |
総排気量 | 1,293cc | |
最高出力 | 約110bph/6,800rpm | |
キャブレター | ミクニソレックス40PHH | |
カムシャフト | Engel製 | |
エキゾースト | BRE製 | |
イグニッションシステム | マロリー製 | |
シャシー | ルグラン製スペースフレーム改 (1インチ、3/4インチマイルドスチール) | |
トランスアクスル | ヒューランド製 Mark-IV (5速) | |
クラッチ | ポルシェ・カレラ用 | |
ブレーキ | エアハート製キャリパー&ディスク (9インチ) | |
サスペンション | 不等長アーム、アジャスタブルアンチロールバー | |
ホイール (フロント) | ルグラン製 (13x8インチ) | |
ホイール (リヤ) | ルグラン製 (13x10インチ) | |
タイヤ (フロント) | ファイアストーン・スーパースポーツインディ (5.00/9.00-13) | |
タイヤ (リヤ) | ファイアストーン・スーパースポーツインディ (6.00/10.00-13) | |
ボディ | ||
製作 | T -Bショップ製 | |
ボディ材質 | アルミニウム | |
ウインドガラス | 旭硝子製 (ラミネートタイプ) | |
ディメンション | ||
全長 | 404.4cm | |
全幅 | 162.0cm | |
全高 | 95. 5cm | |
ホイールベース | 267. 7cm | |
トレッド (フロント) | 130. 0cm | |
トレッド (リヤ) | 132.5cm | |
重量 | 530kg | |
そのほか | ||
フューエルタンク容量 | 80L (2個合計) | |
乗車定員 | 2人 |