Hino's Dream, Entrusting to Contessa
8. 終結:悲劇の伯爵夫人 - 美人薄命ごとく実に短命だった日野コンテッサ
悲劇の序章の如く起こった第4回日本グランプリでのサムライ事件。コンテッサ1300の運命をあたかも無言で語ったようなノンフィクション・ドラマだった。この直前の1967(昭和42)年の4月には日野自動車のコンテッサ1300の生産ラインから既にその姿は消えていた。世界にはばたくべく心血を注いで世に送り出したコンテッサ1300は、1964(昭和39)年の暑い夏の盛りに1号車がラインオフしてから、わずか2年と7カ月とその運命は美人薄命の如くあまりにも短命だった。
歴史の証人、無言のコンテッサ・クレイモデル群:
デザイン室の皆さんがこのために保管庫から出し、
奇麗にクリーナアップしてくれた。長い時を経ているがコンデションは素晴しい。
8.1 BC戦争と乗用車輸入自由化の狭間 - 弱小メーカーの悲哀
コンテッサ1300を1964(昭和39)年9月1日に発表と同時に販売を開始した日野自動車工業株式会社(以下、日野)はルノー4CVといった軽快なリヤエンジン・リヤドライブ車を国産化を進め、オリジナルモデルのコンテッサ900、ミケロッティ・デザインの1300へと独自の展開を図ってきた。
日野の常に技術に挑戦するクルマ造りの姿勢は戦前のガス電時代の星子イズム(第2回参照)をルーツにするもので、過剰品質とも評価されたコンテッサ1300はその結果でもあった。技術面を絶対的な自信はあるものの、その当時の小型乗用車戦国時代での販売力は確固たる伝統があった訳ではなかった。
ルノー4CVに始まった日野の乗用車販売の経験は全く白紙から日野ルノー販売(株)を組織した。家本潔(当時、専務取締役)が「ルノー販売は素人ばかりのだったんです。日野はルノーと大型車をかかえて、小さな組織で日産やトヨタに対抗して行かねばならなかった」と語るように必ずしも順調とは言えなかった。その後、ルノー専門の日野ルノー販売(株)と大型専門の日野ジーゼル販売(株)を統合し、日野自動車販売株式会社(以下、自販)を設立、販売面の強化を進めた。
トヨタ、日産に比べて販売面の弱体感はあったものの ”世界にはばたくコンテッサ1300” をバックボーンに日野の内部の勢いを背負って1964(昭和39)年9月、世に出したものの、おりしもその東京オリンピック後の大不況が序々に押し寄せ始めていたのであった。日野の大型/小型トラックやバスなどの商業車が売り上げ目標は達成出来ない中、コンテッサ1300は不況による需要の停滞をカバーすべく販売台数を延ばしたのだった。
このことは自販側の要望で1965(昭和40)年度の更に販売を延ばす施策が講じられることになる。宣伝活動は発表当時のBC戦争とまで言われたコロナ、ブルーバードなどのライバルたちと同様な設定であったファミリーカー的なものから、RRを全面に出したスポーティ感を強調し、ファミリーカーとしては補佐的なものにして行った。
結果的に大不況のさなかコンテッサ1300オーナードライバーの絶対的な評価を得て着実な売れ行きを示してのだ。特にクーペは高級オーナードライバーの好みを刺激し、独自のマーケットを形成して行ったのだ。
一方、コンテッサ1300は輸出適格車と社内で位置付けていたように独自の海外展開が積極的に進められた。宮古忠啓(当時、常任監査役)によるピートブロック起用の対米輸出計画が進める一方、輸出部門の長であった内田一郎(当時、常務取締役)を中心にヨーロッパ、オセアニア、発展途上国にと売り込みに世界をところ狭しと駆け回ったのだ。
”乗用車の自由化こそ輸出伸長のチャンス” とする内田はジュネーブショー、パリショーなど世界のショーにコンテッサ1300のセダンとクーペを連れ出し、積極的に代理店展開を進めてとともに、ニュージランドやオランダなど数か国でノックダウン生産を取り付けて行ったのだった。
当時の資料から代理店を通じての輸出先を整理してみると、グァテマラ、プエリトリコ、ハイチ、キュラサオ、ドミニカ、フランス、フィンランド、デンマーク、ノルウェー、ベルギー、ルクセンブルク、スイス、イギリス、オーストラリア、パナマ、イタリア、オランダ、スペイン、キプロス、ニカラガ、、カルメーン、パキスタン、ギリシャ、マカオと数え切れない。また、ノックダウン生産を進めた輸出先はセイロン、タイ、フィリピン、イスラエル、ニュージーランド、オランダなどが記録に残る。
代理店輸出は10台程度のサンプル的なものから数百台程度、ノックダウン生産については千台を超える程度と思われる。これについてはピート・ブロックとマーケティングの専門化を起用して用意周到進めた対米輸出計画プロジェクトと比較はすることは難しい。日野が既に関係をきずいていた既存のトラック輸出の代理店を利用していたことにも依るものだろう。いずれにせよコンテッサ1300がこのように多くの国に散って行ったことは興味深い。
1965(昭和40)年7月のアイデンテティの変更。発表当時のスタイリングと耐久性を重視したファミリーカー的なものが、ライバルたちに差を付けるべく方向転換すべくRRの個性を全面に押し出している。
新たなキャンペーン、「軽く踏む - グーンと飛びだします - リヤ・エンジンだからです 」。
しかし、時すでに遅しか、なぜなら、数ヶ月前にはトヨタ自動車との間で
「コンテッサの市場撤退」を前提に支援を仰ぐといえる提携交渉が進んでいたからだ。
8.2 エレガンスコンクール - 日本車初の国際的評価
ゲリラ的ともいえる積極的な輸出展開の中、1965(昭和40)年3月15日の英国のデーリーミラー紙はコンテッサ1300の英国輸出の可能性を次のように取り上げていた:
と、いかにも英国らしいクールな評価をしている。結果的に日野は先駆者的役割を果たし、その後、ホンダ、日産等がヨーロッパで成功することは歴史が物語る。
そんな中、コンテッサ1300の知名度を高めるためにヨーロッパの代理店協力のもとエレガントなトリネーゼ・デザインにふさわしく各地のエレガンスコンクルに評価を求めていったのだ。結果は次の通りだ。
これらコンクールの審査基準はクルマのエレガンス、安全性、居住性、品質などクルマに要求されるすべてのファクターが対象である。ライバルは当時のヨーロッパ車の名門、フェラーリ、ジャガー、ロータス、メセデス、アルファロメオ、BMWたちであったことは当然だ。日本からヨーロッパ進出を狙っていた多くの国産車たちの参加があったがいずれも賞を得てない。
このように単なる販売努力だけでなく、エレガンスコンクールという文化的イベントで評価を得ることで海外での受け入れが確実になってきた。
1965年7月10~11日、イタリアのアラシオでの第5回国際自動車エレガンスコンクール クーペ - 名誉大賞
同上、カタログ (輸出用) 、Coupe_NO.121_300_B5_DLより
8.3 意欲的だった次期モデル計画 - 少数モデル故に
クルマというものは4-5年先をみて次期モデルを造ることは常識である。コンテッサ1300も例外でない。ここではこのようなモデルたちを紹介する。
コンテッサ1300スプリント (国際的には、日野スプリント1300GT)
謎の多いクルマである。本シリーズ第3回のミケロッティとの出会いの中の ”消えた市販計画” のコンテッサ900ベースのスプリントではない。文中、当時の内田の「...より魅力的なものを1964年度中にまとめたい」と発言がある。これこそが 日野スプリント1300GTと呼ばれた謎のモデルである。
当時の残された資料と数少ない証言とデータからまとめると、日野コンテッサ発売以前の1964(昭和39)年のと初頭、フランスはノルマンデーにほど近いアルピーヌ・エンジニアリング及びイタリアのスタジオ・ミケロッティと内田たちを中心とした輸出部門で進めたもので、ヨーロッパ・ライトウエイト・スポーツを好んだ内田自身の大きな夢だったとも考える。
クルマそのもののスペックは今日でも非常に魅力的なものである。ヨーロピアンGTと言っても過言でなく、スタイリングはミケロッティのコンテッサ900を焼き直しだが、アルピーヌ製のボデーとシャシーである。シャシーデザインはアルピーヌの教則本通り、ラウンドチューブのバックボーンに可能な限りコンテッサの部品が流用するものだった。四輪独立懸架のそれはスイングアクスルを後輪に持たず、ウイシュボーンにリファインされた。四輪ディスクブレーキであったことも言うまでもない。グラスファイバー製の850kg軽量ボデーをアルピーヌ・チューンのコンテッサ1300のGR100改のツインカム・エンジン(本シリーズの第5回を参照)で180km/h以上に引っぱろうというものだった。いわば、コンテッサ・アルピーヌとも言ったほうが分かりやすそうなモデルである。
この日野スプリント1300GTの完成度やマーケティング戦略についての確かな記録は残ってない。ただ、事実としてヨーロッパの1967年度版の新型車モデルのカタログ誌に大々的に詳細が報じられていることと、日本で最初に市販モデルにアルファロメオの様にその高性能版リアルスポーツを”スプリント”と名付けたことを付け加えておこう。
コンテッサ1300マークII
コンテッサ1300発売開始からおよそ3年後の1967(昭和42)年の中頃に現行モデルの改良版として世に出される予定だった。いわばマイナーチェンジ版というものだろう。
1966(昭和41)年にはそれぞれのモデルについて試作車が完成していた。クーペ、スタンダード、S、3速デラックスがそれぞれ1台、4速デラックスの2台と計6台が製作され評価段階に入っていたのだ。
主な改良点は当時よく行われたバンパーをより高い位置に上げること、ダッシュ、インナーパネルやシートなどの内装のグレードアップ、安全基準対策や取り付け部品の簡素化だった。特にセダンの内装はミケロッティ自身が強く望んだものが入ったといわれる。
結果的にこのマークII計画は,トヨタとの業務提携発表後の1966(昭和41)年の晩秋に宙に浮いてしまった。 ”マークII” というネーミングも日本では日野がいち早く取り込んだが、実現には至らなかった。
コンテッサ1300クーペ S & SL
次は1966(昭和41)年の第13回モーターショーで参考出品されたコンテッサ1300クーペSというモデルである。その計画は早くもコンテッサ1300発表直後の1964(昭和39)年の秋に始まっていた。次期エンジンに関して、GR100のスケールアップ版やツインカム化、新たなな設計のエンジンなどが具体策として進行していた。
その産物がコンテッサ1300クーペの動力性能向上と販売拡張のためのイメージアップを狙いとしたGR100エンジンのツインカム版、YE27型エンジン(開発名称)搭載モデルがコンテッサ1300クーペSという訳だ。最高速度が155km/h、SS1/4マイルは18.5秒とGTへの仲間入りを目指したクルマだ。
フィーリングに関し、ライバルと見立てたプリンス2000GT-Bとの動力性能比較、ボデー、シャシーを検討するためにGR100を74mmにボアアップした1, 400ccエンジンで名神高速でのテストを進めて、YE27型エンジンの開発が進んで行った。
コンテッサ1300クーペSはエンジンのパワーアップとともにボデーやシャシーの強化が計られている。ボデーの剛性アップ、ブレーキの大型化、ホイールのインチアップとタイヤのロープロファイル化、ガソリンタンクの大型化などでが大きな改良点である。
尚、このYE27は本シリーズの第5回にある日野プロト用のYE28型エンジンのデチューンと一般に書かれているが、YE27はGR100をベースにした市販車向けツインカムである。設計者も異なり、共通部品もないので別ものである。YE28のデチューンではなく、GR100のツインカム化と言う方が正しい。
1966(昭和41)年の夏も近づいたころにはYE27の一次ベンチテストも順調に進み、モーターショーも近くなった秋口には目標値の80PSを得るに至った。YDと呼ばれたし試作車両は5台製造され、YE28を搭載し、各種の実験に供された。
モーターショウで好評だったコンテッサ1300クーペSはマニアから1967(昭和42)年に販売すべく期待されていた。しかし、トヨタのコロナやいすずのベレットに先駆けて日本で最初の高性能ツインカムGTになる筈だったこのコンテッサ1300クーペSもコンテッサ1300マークII同様にモータショー直後には宙に浮いてしまった。
さらにこのYE27エンジンを軽量ボデーのコンテッサ1300クーペ”L”に搭載し、5速ミッションのコンテッサ1300クーペ”SL”、スポーツ&ライトウェイトも現実的な計画にあったことを付け加えておく。
以上の試作モデルに加えて、現行GR100エンジンのパワーアップも着実に進められていたことは前回お話しの通りである。セダン用に65PS、クーペ用に75PSとそれぞれ10PSアップしたもで、吸排気マニフォールド、ポートとバルブ、カムシャフトなどの改善に依るものだ。このパワーアップ・バージョンはマークII計画より早い時期に販売される予定だった。
その他エンジンに関しては1967(昭和42)年の秋を目指して1,500cc版のYE30系列エンジンが試作の段階に入っていた。更にペーパー上であったが100PSオーバーの高回転型1,300ccのYE47エンジン、更に過激的とも言える155PSの1,600ccのYE57までプランしていたのだ。特にYE47は87mmX54.5mmの超ショートストローク型でレーシングバージョンで130PS/10,000rpm、デチューンした市販版は100PS/8,000rpmをターゲットに置いたのだ。これはアバルトの世界である。
コンテッサ1300は伯爵夫人というイメージから気品はあるものの走りに関し、ヤワなイメージがつきまとう。実は以外やその戦略は硬派だったのだ!これはファミリーカー・マーケットであるものの一線を引いた個性あるRR車で独自のマーケットを築くことであったのではないかと考える。
フランス、ディエップのアルピーヌ・エンジにリングで製作されたコンテッサ1300スプリントはパリ郊外の有名なオートドロム・ドゥ・リナ-モンレリ (Autodrome de Linas-Montlhéry) で試験が進められた。この後、1964年10月のパリサロンに出展、その後、契約通り、すなわち本格的なスポーツカーエンジンを搭載し、十分なる走行テストを完了し、1966年末に日本の日野工場に1964年2月に締結した契約通りに納入された。しかし、時既に遅し、このコンテッサ1300スプリントは陽の目を見ることがなくなり、対外的にも知らぬ存ぜぬとなってしまった。
日野工場に納入された日野コンテッサ1300スプリント。しかし、それは表舞台ではなく、工場の片隅の特殊な場所だった。それは火災事故にあった焼け焦げた日野プロトがこの場にあることら想像に固くない。日野自動車含め、一般にコンテッサ900ベースの900スプリントに比較してマッシブになった1300スプリントを低評価されることがある。しかし、およそ5年の時間を経たミケロッティ・デザインの進化を理解する必要がる。よくみればまったく異なるラインであることが理解できる。
8.4 決断の時 - 終焉に向けて
数々のコンテッサ改良や米国でのレース展開、コンクールでの評価を得ている中、技術陣や関係者のホットな意欲とは無関係に日本の自動車産業は大不況のさ中にあった。更に1965(昭和40)年の10月、乗用車自由化を迎えたのだ。この時期は日産はサニー、トヨタはカローラを展開する直前で、1300cc前後のマーケットはそれこそ戦国時代に突入の様相だった。
通産省側の「自動車業界は3グループ程度に集約するのが妥当」との指導があったものの、各メーカーはそれぞれ強気だったのだ。1965(昭和40)年の12月、社長の松方正信はこの問題に対して「日野はレーランド方式で行く」と記者会見で言明し、かねてからの噂のトヨタとの合併も否定した。
当時、英国のレイランド・グループが大量生産での大きな利潤を目指すことなく、ターゲットを絞った大型商用車と小型乗用車を安定生産・販売することで、業界の中で独自の基盤で安定経営を築いていた。常任監査役の責にあった宮古がこれを商品系列が酷似した日野に当てはめ、”レイランド方式”と称し、日野の経営の基本方針を立てるよう具申していたのだった。
宮古の考えた”レイランド方式”は極めて常識的なものであったが、問題は経営陣がそれを現実に遂行実行出来るカ、常に目標として明確なビジョンを持ちえるかという面にあった。また、日野マンはそれを遂行出来るだけの能力と受け入れを可能としていた。
レイランド方式をいう言葉を使って、松方はトヨタとの合併を否定したものの、トヨタとの提携ないし合併の問題はコンテッサ1300が発売される前の1963(昭和38)10月のころから、通産省の勧告で始まっていたのだった。その理由は日野は大型車、トヨタは小型車が中心で競合車種が少ないこと、また主要取引銀行がともに当時の三井銀行であるというのが理由だった。しかし、この話は急速に進んだ訳でなく、両者の首脳陣がより具体的な関係を築きはじめたのは1966(昭和41)年5月下旬であった。
10月に入り業務提携に関し、遂に決定がなされた。発表の前日の10月14日には経営陣から組合側への説明がなされ、翌15日にトヨタ・日野の業務提携が発表となった。
この経緯に関し、当時のメディア(日刊工)は次の様な解説している:
日野はコンテッサ1300の製造中止について明確なアナウンスはしてないが、この時点で事実上、方向性が出たものと推測する。そして、製造中止の噂は直後の1966(昭和41)年末には「コンテッサの部品発注が停止した」という形で流れはじめたのだった。
業務提携後の11月にはまず生産面の交流が開始され、部長以下多数の従業員が交代でトヨタ自工実習と称し東京駅を後に名古屋に向かった。トヨタでの作業は組立作業のラインのスピードなど作業形態から食事に至るまで映画”モダンタイムス”を思いおこしたと言われるほど、その合理性に関し大きなショックがあった。一方、日野工場ではトヨタのカンバン方式の導入やコンテッサ1300のラインをトヨタの委託生産となるパブリカバンと新生トヨタブリスカに切り替えるべく準備を進めて行った。
1967(昭和42)年3月末、コンテッサ1300は生産ラインをパブリカバンとトヨタブリスカに譲って日野工場のラインからひっそりと去ったのだった。そこには2年7カ月ほど前、首脳人や大勢の従業員からの厚いまなざしで見送られた華やかな光景はなかった。
終焉 - “Una Tragedia Della Contessa = 悲劇のコンテッサ”
従業員6,000人の企業存続は、夢はあっても採算の難しい小型乗用車とマーケットの異なる大型商用車の2足のワラジを履くことは難しいと判断したことだ。会社を生き残させるというロジカル面を納得し得るものの、コンテッサ1300に心血を注いだ関係者にとってはコンテッサを生き残らせられないというメンタル面の葛藤はあったと想像する。結果的に大型車を選択したことで今日までトップの座を築くことになる。
コンテッサ1300の製造中止について家本は「乗用車というのは販売能力をバランスしてないとといくらいい車を造ってもマイナスが増えるばかり。いずれ販売網の弱体から行きづまりは予測されたので打ち切りを前提にトヨタと接触した。それには断腸の思いがあった。何はともあれ、止めざるを得なかったことは事実であり、それが結果的に言えば正しかった思う」と当時の思いを語る。
日野の前身、ガス電時代の星子勇に始まった乗用車造りの夢は、それから30年余り後、ルノー4CVでの暗中模索の技術習得とコンテッサ900での寝食を割いての実践を経て、コンテッサ1300で開花する筈だった。しかし、戦後間の間もない時期の自動車産業復興のための海外からの技術習得政策も国の指導、乗用車輸入自由化をひかえての業界再編成政策も国の指導だったことはあまりにも皮肉であった。その意味でわずか2年7カ月で幕を閉じなければならなかったコンテッサ1300は、“Una Tragedia Della Contessa = 悲劇のコンテッサ” と言わざるを得ない。
日野の小型乗用車生産台数はルノー4CVの34,853台、コンテッサ900の47,299台、コンテッサ1300の55,027台と合計137,199台であった。その内、コンテッサ1300を中心に16,799台が海外へと散って行った。30年以上経た今日、その残存台数の正確な数は不明だが国内の登録台数は約400台余り(全モデル計)。いずれも根強いオーナーの日常の足、趣味のクルマへとして活躍している。
60年代に日野が果敢に世界に挑戦した貴重な歴史のフレームワークを切り落とすことないよう、生き証人として今後も走り回るよう願うものである。
【表-11:日野コンテッサ1300全車種主要諸元 (運輸省届出ベース)】
形式 | PD100(S) | 諸PD100(D) | PD100 (SD) | PD100 (LPG (S)) | PD100 (LPG (D)) | PD300 (S) | PD300 (D) | PD300 (SL) | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
通称名 | コンテッサ1300 (スタンダード) | コンテッサ1300 (デラックス) | コンテッサ1300S | コンテッサ1300 (LPGスタンダード) | コンテッサ1300 (LPGデラックス) | コンテッサ1300クーペ (スタンダード) | コンテッサ1300クーペ (デラックス) | コンテッサ1300L (スタンダード) | |
寸法 | 長さ (mm) | 4,090 | 4,150 | 4,150 | 4,090 | 4,150 | 4,090 | 4,150 | 4,150 |
幅 (mm) | 1,530 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
高さ (mm) | 1,395 | 同左 | 同左 | 1,385 | 1,395 | 1,340 | 同左 | 同左 | |
室内長 (mm) | 1,725 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 1,645 | 同左 | 同左 | |
室内幅 (mm) | 1,260 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
室内高 (mm) | 1,165 | 1,155 | 1,155 | 1,165 | 1,155 | 1,130 | 1,130 | 1,130 | |
ホイールベース (mm) | 2,280 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
トレッド前 (mm) | 1,235 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
トレッド後 (mm) | 1,220 | 同左 | 1,225 | 1,220 | 同左 | 1,225 | 同左 | 1,220 | |
車両重量 (kg) | 890 | 940 | 945 | 950 | 1,000 | 895 | 945 | 830 | |
乗車定員 (人) | 5 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 4 | 同左 | 同左 | |
性能 | 最高速度 (km/h) | 130 | 同左 | 140 | 125 | 125 | 145 | 同左 | 同左 |
登坂能力 (sin θ) | 0.365 / 0.392 | 同左 | 0.430 | 0.332 | 同左 | 0.430 | 同左 | 0.440 | |
最小回転半径 (m) | 4.6 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
制動停止距離 (m、50km/h) | 14 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
エンジン | シリンダー数 | 4 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 |
内径 (mm) | 71 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
行程 (mm) | 79 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
総排気量 (cc) | 1,251 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
圧縮比 | 8.5 | 同左 | 9.0 | 8.5 | 同左 | 9.0 | 同左 | 同左 | |
最高出力 (PS-rpm) | 55-5,000 | 同左 | 65-5,500 | 52-5,000 | 同左 | 65-5,500 | 同左 | 同左 | |
景大トルク (kgm-rpm) | 9.7-3,200 | 同左 | 10-3,800 | 9.3-2,600 | 同左 | 10-3,800 | 同左 | 同左 | |
変速機、その他 | 操作方法 | コラム/フロア | 同左 | フロア | コラム | 同左 | フロア | 同左 | 同左 |
変速機第1速 | 3.45/3.7 | 同左 | 3.70 | 3.45 | 同左 | 3.70 | 同左 | 同左 | |
変速機第2速 | 1.87/2.31 | 同左 | 2.12 | 1.87 | 同左 | 2.12 | 同左 | 同左 | |
変速機第3速 | 1.04.1.46 | 同左 | 1.46 | 1.04 | 同左 | 1.46 | 同左 | 同左 | |
変速機第4速 | ---/1.04 | 同左 | 0.97 | 1.04 | 同左 | 0.97 | 同左 | 同左 | |
後退 | 3.09 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
変速比 | 4.11 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
プレーキ 前輪 | デュオサーボ | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | ディスク | 同左 | 同左 | |
プレーキ 後輪 | デュオサーボ | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | リーディングトレーリング | 同左 | 同左 | |
タイヤサイズ | 5.60-13-4PR | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | |
リムサイズ | 4.5Jx13 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 | 同左 |