Hino's Dream, Entrusting to Contessa
1. 社運を賭けたコンテッサ1300、日本経済発展のための企業再編成とともに
日野コンテッサは日野自動車工業において大型商用車と共に世界にはばたくべく二本柱の一本となる筈だった。それは日本が経済大国に突入する前だった。しかし、美しい伯爵夫人=コンテッサは日本経済発展のための企業再編成と言う時代の波によってひっそりと世を去らなければならなかった。
東京オリンピックの会場(代々木)を前にして:日本国民の第二次世界大戦の復興のシンボルであった東京オリンピック(1964.10)を目の前にしたコンテッサ1300のデビューはそれを積極的に活用したプロモーションの戦略だった。
1.1 東京オリンピックと共に - 本格的海外進出への門出
第二次世界大戦の終了から20年余り、日本は全国民あげてハングリー精神と言うべきものか欧米に追いつけ追い越せの上昇志向の時代であった。他国に類をみない勤勉さで働き高度経済成長時代の幕開けとなったのだ。1960年(昭和35年)発足の池田内閣のもとに推進された所得倍増計画も順調に進み、三種の神器の普及後、新たな3C(カー、クーラー、カラーテレビ)と言う流行語が巷をめぐり回った。
そしてオリンピック景気とともに高速道路網の整備も進み、モータリゼーションの波も一般庶民にも夢ではないところまで近づいてきた。そんな時代、コンテッサ1300は戦後の復興のシンボルでもあった東京オリンピックが開催される1964年(昭和39年)の秋の第11回東京モーターショーで世に出た。
労働力はあるが資源の乏しい日本は、最近でこそ将来に向けて、コンピュータ・ソフトウエアに代表される知的産業なるものが政府レベルで言われているが、これは別に新しい現象ではない。日本は第二次世界大戦後、近代工業の代表格であった航空機産業を無くしたことはご存じの通りである。
この様な状況に於いて、近代工業の一つの自動車工業の育成は、日本にとって豊富な労働力を使い且つ高度な加工工業を発展させるために必要不可欠なものであった。具体性をもって言い替えれば、安い原材料を諸外国から輸入し、より付加価値の高い車を輸出しようというものであった。この産業構造は、市場環境は変わるものの現在に至っても同じである。
日野自動車工業は1960年(昭和35年)、ルノー4CVの国産化で技術蓄積した結果として、日野自動車オリジナルとも言うべき小型リヤエンジン乗用車、コンテッサ900を世に出した。
そして1964年(昭和39年)に発表された次期モデル、コンテッサ1300はコンテッサ=伯爵夫人にふさわしくイタリアの若きデザイナー、ミケロッティ氏による完成されたスタイリング、そして日野自動車の技術陣が心血をそそいたメカニカル面は更に高度なものになっていた。それは少量生産メーカーから世界に向けて自らの製品を普及させようと言う日野自動車の壮大な心意気を具現化したものであった。
1964年(昭和39年)の初め、コンテッサ900からコンテッサ1300への移行を前にし、当時の取締役社長松方正信は年頭の辞で “本年は海外に本格的進出を成し遂げるべき年” と位置付け従業員に以下の点を述べている。
等など、更に目標達成のための課題として、品質の画期的向上、原価低減および海外市場に適合する新製品の開発をあげ、希望の年を迎えんと決意を述べた。
因に1962年度(昭和37年)のコンテッサ900時代の日野自動車における乗用車の輸出台数はおよそ700台であった。この数字はトヨタの2500台、日産の11000台に比較し少量と言わざるをえない。しかし、プリンスの700台、東洋工業の400台は似たような量でもあった。この時点で日産はほぼ七割のシェアを誇っていたのであった。日野自動車はほぼ4%強と国内販売シェアの数字に近いものであった。すなわち、生産量(=販売量)を増やすことは勿論、輸出比率を増やすことは全体の生産量を増大させるもので企業規模拡大のための生命線であったのだ。
真新しい東京代々木の東京オリンピック会場にて、当時の日本のランドマークであった。マーケティングは、『正に新発売、コンテッサ1300、格調高いトリネーゼ・スタイル、長時間のハイウェイ走行にもビクともしない本格派』
1.2 大量に売れた麦藁帽子!? - 猛暑の中での量産開始
量産体制の準備に忙しい1964年(昭和39年)6月、日野自動車の期待の新型乗用車、コンテッサ1300の日本国内での十分なるテストを終え、オーストラリアでのテストが開始された。これは日本で得ることの出来ない道路状況や気候条件での長時間高速テストなど進めると共に、宣伝広告用の写真撮影なども行い、8月末に完了した。勿論、このテストは輸出面での効果を期待してのことでもあった。
その時期、生産・販売開始にあたって当時の荒川常務は従業員に望むこととして以下のように語っている。
暑い夏のさなか、日野工場で始まった量産は最初から順調かと言えば、マイナーな問題は発生したようだ。例えば、生産ラインに沿って車は造られるものの取り付け部品が一部予定通り出来ないとか、量産初期にありがちな点だった。そのためにその年の夏は日野工場で麦藁帽子が大量に売れたとのことである。暑い夏の太陽が照る炎天下の中、全ての従業員たちはラインから屋外に出た車を完成させるべく懸命に仕上げたのだ。麦藁帽子はそのためのものだった。
荒川常務の言葉は7000人の全社員が開発に費やした数年間の努力をより結束するに十分のものであり、且つ、ニュー・コンテッサ1300を日本のユーザーに、更に世界のユーザーに普及させるべく従業員一人一人の意気を高揚させんばかりのものであった。
初の自社技術での新しい日野コンテッサ1300がラインを流れる。極初期の装備状況がうかがえる一枚の画像である。
1.3 発表会:トリノ発 明日のクルマ
1964年(昭和39年)の9月15日の市販を前にし、9月1日(火)、2日(水)、東京品川プリンスホテルに於いてイタリアから来日したミケロッティ氏も同席し、発表会が開催された。続いて、9月4日(金)、5日(土)には大阪の大閣園にて、そして全国各地へと進められ、好評を博した。の同時に9月1日の全国紙に大々的に以下の広告が打たれた。
《コンテッサ1300》誕生!格調高いトリネーゼ・スタイル 長時間のハイウエイ走行にもビクともしない本格派》
デザインを担当したジョバンニ・ミケロッティ氏の『夢が実現しました。日野自動車に協力して、私がデザインしたコンテッサ1300が日本中の皆さんに親しんでいただける.....光栄です。』と言うコメントも付け加えられていた。
発表会などで当時の取締役社長、松方正信は以下の点について語った。
最大課題である輸出については、
生産面や設備投資については、
日野コンテッサ1300発表会、政界、財界、金融界、学会等の著名人、販売店各社を含む多くの関係者を招待、華々しくデビューした (品川プリンスホテル、1964年9月1&2日)
1.4 自由化を前にした東京モーターショー
1964年度(昭和39年)の第11回モーターショーは東京オリンピック開催のため、例年よりは早い時期の9月26日(土)より東京晴海の貿易センターで開催された。国際的に見てもその規模は世界的なものになり、東京オリンピックの開催直前と言うこともあり、一日早い9月25日(金)の報道関係招待日には外国人記者も大挙押し寄せた。
乗用車館には過去最大の156台の展示が各社からあった。日野自動車は旧型となったコンテッサ900の1台を含む8台の国内向けモデルを華々しく以下のように展示した。
ターンテーブル展示 (ボデーカラー)
フロア展示
ここでコンテッサ1300のボデーカラーに関し触れておこう。日野自動車は当時、国産車としては珍しかったメタリック・カラーやツートン・カラーを多用した。メタリック・カラーだけでも7種類(ストーングレー、ワインレッド、ミスティブルー、モスグリーン、バイキングブルー、ミンクゴールド、クラレッドレッド)の中から選択出来たのである。
因にノン・メタリックはブラック、オパールクリーム、マーブルグレー、ベネチャンレッド、スモークブラウン、ダブグレー、シェルホワイト、オランドブルー、ネイビーブルー、セイジグリーン、マリーナブルー、アイシーホワイトなどの数多くのバリエーションがあった。特にメタリック・カラーに関しては、専用の塗装ラインを用意していた。当時の技術ではメタリック・カラーはまだ難しかったのではないかと想像出来る。
ボデーのカラーリングのセンスと選択の広さを購入者に与えた新しい試みは当時として評価出来るもである。しかし、日本だけの現象であるが結果的に後々、 “白の伯爵夫人” と言うイメージが何故か定着したようで、特にクーペにはアイシーホワイトが巷を数多く走り回っていた。
自由化を前にし、日本のメーカー各社は自社の製品に絶対の自信をもってこのモーターショーに挑んだのであり、日野自動車も例外ではなかった。しかし、新しい車を製造すると言うことはそれなりの設備投資が必要だと言うことだ。
この時代、現代の製造技術と違って多品種少量生産、すなわち部品の共通化によるバリエーションなどは到底望むべくものではなかった。単一車種に相当大きな生産量が求められる時代であったのだ。
コンテッサ1300発表時期の1964年(昭和39年)1〜9月における実質的な1モデルあたりの平均生産量はトヨタ及び日産の4500台/月に比較して日野自動車はおよそ1600台/月であった。当時、月産5000台と2000台のメーカーのコスト差は8%と言われていた。これは言い替えれば、5000台のメーカーが売り上げ利益率が8%としたら、2000台のメーカーを利益がゼロと言うことになる。勿論、これには販売価格などを考慮を必要とするが。
この辺の問題は当時の企業のスタミナとも言うべきのを見ると明白に理解できる。1963年度(昭和38年度)の下期における売上高利益率はトヨタ自動車の14.2%に対し、日野自動車は7.6%、総資本利益率は20.8%に対し、5.4%、利益余剰金対総資本比率も18.8%に対し7.6%、さらに自己資本比率は50%に対し、25%であった。
トヨタ自動車は抜群に良い数字であったが日産自動車も同様な数字であった。また、いすゞ自動車やプリンス自動車については、ほぼ日野自動車と同じ様な数字であったことを付け加えておこう。(『プレジデント』1965年1月号)
これはトヨタ及び日産自動車は日野やプリンス自動車の倍以上のスタミナを持っていた訳である。ここに当時の車を開発・造る・売ると言った企業の体力を数字でかいま見ることが出来るのである。
いずれにせよ、当時、トヨタ・日産が市場を独占する体制が出来ていた中での日野自動車の社運を賭けた本格的な海外進出及び1シフト2000台が見込める小型車専用の羽村工場への設備投資を前提としたコンテッサ1300の発表であった。
コンテッサ1300は取締役社長松方正信以下、開発担当者、製造担当者、全ての人々から厚いまなざしに包まれながら世に出て行ったのであった。
これらの関係者は当時のホンダ技研、古くは米国のタッカー自動車の様な少量生産メーカーにおける独自性を持ったチャレンジ精神や起業家精神と言う面では共通するものはあったものの、車造りと言う面では非常に異なった面を持っていたのではないだろうか?
日野自動車はデザインを担当したミケロッティに代表されるように世の中に広く受け入れられる優れた自動車(=工業製品)を造ることであった。日野の技術陣もそれは全く同様であった。エンジンやシャシーの設計からみても革新的なものを狙ったものではなかった。コンテッサ1300はあくまで高いレベルでの世界市場向けの乗用車を狙ったものであっのだ。
自由化を前にした第11回モーターショー、コンテッサは8台展示された。日本が最も勢いがあった時代。 (1964年10月)