日本の常識は世界の非常識?
FIVA - クラッシックカーの電動化にメスを入れる! (2019年12月20日)
少し前の12月16日 (月) 、ロサンゼルス空港を降り立ってレンタカーを手にして近郊のホテルに向かう途中でした。梱包材料を購入するために立ち寄ったショップの駐車場で画像のような綺麗な米国仕様のMGBを発見しました。よく見ると何かが違う、ライセンスプレートに “LOVE EV” で判りました。EV化したクラシックカーでした。しかし綺麗に改造するものだとしげしげと眺めました。
その直後に書店で “CLASSIC & SPORTS CAR” に最新号を購入しました。そこにはなんと “FIVA pulls plug on conversions (現タイトル:What’s so bad about electric classics anyway?) ” 、”FIVAはコンバージョンのプラグを引きぬく (現タイトル:そもそもエレクトリッククラシックの何がそんなに悪いのでしょうか?) ” とでも理解、すなわちクラシックカーのEV改造を支持しないということです。もし改造したいならば必ず元に戻せる手段を取れとも書いてあります。
FIVA(FédérationInternationale desVéhiculesAnciens - 歴史的な車両の国際連盟)は、歴史的な車両の保存、保護、促進を専門とする組織として、所有者や規制当局に対して、歴史的な車両のパワートレインに代わる最新のEVコンポーネント (モーターとバッテリー) の使用を促進できないということです。
この意見は賛成であります。個人的には好きなクラシックカーをEVで乗りたいないう欲求はありますが。。。
(追記) 上記の議論の元になったのが、以下の議論であり、そこには、FIVAは、「歴史的車両の保存、保護、促進に特化した組織」であるものの、「すべての変更は個人の選択の問題である」とし、最終的に、「将来的に希望があれば、車両は元の状態に戻り、再び歴史的な車両になる可能性があります」と締めくくっています。また、FaceBookでもフォーラムがあるようです。
=> Classic electric conversions aren’t classics, says FIVA
(クラシックカーのEVコンバージョンは、クラシックカーに値しないとFIVAが明言)
2018年夏のラグナセカ - 日産レーシングの同窓会 (Reunion) (2018年9月1日)
1998年のラグナセカのブランドテーマ、 the Rolex Monterey Motorsports Reunion に日産の50年におよぶ米国での活動が認められフォチャーされたことを知りました。
日本車としてこのような場に選ばれたことクルマファンの一人として誠に嬉しいものです。
歴代の日産のレーシングカーが一堂に集結、このイベントでの歴史的なシーンを飾ったのは伝説の#46 (ジョン モートンさん) のBREの510 (当時のプロモーション映像:Against All Odds: BRE Datsun's Epic 1971 Season) を中心にIMSA GTP、その他オール日産レーシングと実に豪華な演出です。
凄いことはそれら多くの個体が今でも当時の雰囲気を変えることなく、内部は進化を続けいまだサーキットで多くの個人オーナーの手で健在であることです。
そして重要なポイントが画像にあるよう510 (米国日産所有、完全動態保存) の傍らにはピート ブロックさんがおられることです。(画像、左からJohn Morton, Peter Brock, そしてSteve Mille 各氏)
このような場がある日産車ならびにオーナーは羨ましい限りです。記事のどこかに日本車として米国にチャレンジした最初のクルマとか、でもそれは大いなる誤解であり、実際はそれ以前に日野コンテッサ900やコンテッサクーペが活躍していたのです。理解されてないのは、日野と日産の企業パワーや文化の差と思うものです。まさに日野コンテッサは切り取られた歴史であります。
Hemmings Dailyより - トリノ憲章 (2017年12月18日)
毎日配信されるHemmings Dailyの12月18日 (月) に上の画像とともに ”FIVA: “Mint” condition restorations equivalent to customization, should be rejected” 、すなわち、カスタマイズに相当する “ミントコンディション” のレストアは拒否されるべき、とタイトルされてまます。
画像 (FIVA提供) は何年か前に話題を呼んだ1961年のAlfa Romeo Giulietta SZ Coda Tronca prototype です。日本のメディアでも紹介されたと記憶すます。
この記事の趣旨はタイトルのように、歴史的な重要な個体が、コンクールデレガンスというもので失われており、迷惑、見苦しい、そして年齢の痕跡を消してしまう莫大な努力がなされ、結果的に歴史的なものが骨の髄まで失われていると、まことも現代の風潮を手厳しく一刀両断にしています。クルマ文化をどう考えるかの基本的なものです。
これは当サイトオーナーも日頃感じていることで、日本の旧車界でも歴史的なものを無視して、単に新品部品、メッキ、板金塗装で着飾った、すなわち整形美容&厚化粧をした個体を善とすることに抵抗を感じております (ご参考:素顔の伯爵夫人、JCCA New Year Meeting 2009) 。まさにそこには自動車文化を無視したような、あるいはみてくれだけで再販価値を高めるだけのような行為にもみえます。
この記事の原点になったのが “Charter of Turin Handbook (トリノ憲章) ” のようです。日本の旧車界をリードしている皆さん、および旧車&自動車メディアの皆さんは、FIVA: “Mint” condition restorations equivalent to customization, should be rejected をお読みになり、さらに “Charter-of-Turin-2017” を熟読し、目先のことだけではなく、高いレベルで日本の旧車をどうすべきかを考えることを推めるものです。
日野コンテッサ vs. ルノー4 - 運命の分かれ道 (2012年3月9日)
1961年は日野自動車のルノー4CVの発展形の日野コンテッサ900が発売され、2011年は50周年の記念となる節目でした。我が日野コンテッサばかりに目は行き過ぎてましたが、実は、本家のルノー4 (Renault 4 - English, French) も同様に、ルノー4CVの後継として、1961年に発売されておりました。
何故、ここで取り上げたか?それはタイトルにもあるように、「運命の分かれ道」みたいなものを感じざるを得ないからです。コンテッサ900は、日野自動車として、戦後 (第二次世界大戦) の外資による技術導入の国策の一環として、フランス、ルノー公団のRenult 4CVのノックダウン、そして100%国産化を進めた結果として誕生しました。
コンテッサ900の結末は、5万台弱の生産、3年余りの生産とあまりにも短命でした。一方、早くも将来を見据えて、RRからFFへと技術革新を進めたルノー4は、1992年まで、何んと30年も、しかも生産台数は800万台と、世界至るところで大衆車として愛用され、今でもその多くは人々の生活の足となっているようです。結果として、線香花火のような日野コンッテッサと比べると、大いに運命が違うものだと感じる訳です。
それは企業文化、戦略の明らかな違いと分析します。重要な継続性とか、今で言う、サステナビリティに対する戦略と考えます。また、背景となる伝統というものがある訳ですが、それは自ら創る (自創) 、発信するのが当然であり、借りモノ (例えば、日本の自動車工業の外資による技術導入) であっても尊敬すべき明らかな姿勢がある筈で、それらをおろそかにすれば衰退への道をたどると言うのが歴史の教えと思います。
その良い例は、現代のルノー社はルノ-4の50周年に際し、世界に人々に愛されたこのルノー4のためにReneult 4 Ever Design Competitionと言うデザイン・コンペ・イベントを開催しました (renault4ever の画像検索結果) 。それは、ただ旧いモノの懐古趣味的なものではなく、将来に向けたクルマの方向性をも盛り込んだ、正にクルマ文化、あるいはエンジンとかを開発する技術だとか単にクルマのみではない「人の文化」、社会・ソサエティを否応にも感じさせるものです。
コンテッサ900の後継は、日野コンテッサ1300となり、その戦略は、奇しくも「輸出適格車」と位置付けられました。プロモーションとしてのルノー社のお膝元でのパリショーなど出展、欧州各地でのローカルなコンクール参加はあったものの、戦略としての輸出は数千台にとどまり、これまたコンテッサ900同様に5万台の販売、3年弱でトヨタ自動車の資本参加と相成り、日野コンテッサは自らの生命を絶ったのです。コンテッサ900が発売された1961年の時点で、もうすでに、戦略&文化を基に「運命」の「分かれ道」があったと感じ、分析します。
さて、ルノー4の50周年、幾つかあった関連イベントを以下に幾つか気に入ったものを紹介して置きましょう:
ルノー4のオリジナルのコンセプトを戦略に次世代のクルマを創造するというコンテストのようです。
世界から数百人のエントリーを得て、ファイナルのトップ3の皆さんが紹介されてます。
審査員も多彩で、特に女性が活躍しています。その一人に英国在住の日本女性もおられることは朗報です (Mai Ikuzawaさん) 。
2011年のモンテカルロ・ヒストリックラリーは、ルノー社のRenult Classicとして、
歴代のレーシング&ラリー・ドライバーを起用して、3台のルノー4のエントリー。
旧いビデオなどで登場するような皆さんが楽しそうにルノー4を操縦してるのイイなと釘付けになります。
OEMの品格:Audi Forum Tokyo (アウディジャパン) - NSU TTS Grouppe 2 (2008年8月8日)
アウディジャパンが社の表参道(渋谷)のブランドショールーム、Audi Forum Tokyo で歴史的なNSU TTS Gruppe 2の報道を新聞で知りました。中々時間がとれず、遂に意を決して伺ってみました。
日野コンテッサの親類のように親しみを感じるNSU Prinzは実車を見る機会が中々ありません。今回のような純粋な現役競技車両ともなるとなおさらです。当時のカーグラのレポート程度の記憶となります。さて会場に入り、しばし釘付けになり、見入っておりました。あまりみも詳細に見入っていたせいでしょうか、一人の男性が声をかけてきました。その方は広報のマネージャさんでした。こちらの興味を伝えたり、日野の話をしますと、俄然話が弾みました。そしてNSU TTSの周辺の安全用のロープを外し、写真も撮り易いよう、粋なお取り計らいまでいただき、存分写真を撮って下さいとまでのお言葉でした。
色々、お話をお聞きし、すごいと思ったことは、Audi社はこのような歴史的な旧車に対して、個人所有(この展示車も同様)であれ、手厚い保護・支援をしているようです。クルマをちゃんとした文化そして芸術として捉え、育んでおられるとのことです。その為の予算も確保されるとのことです。おそらくAudi車の売上と販売台数などを見れば、日本のメーカーに比べれば小さいものと推測します。しかし、今は無きブランドであっても自分たちが世に出したクルマは歴史としてちゃんと足跡を見えるようにしている訳です。おそらく欧州車のメーカーは他社も同様と感じております。羨ましい限りで、これこそが誇りある品格 (まさに社格) と思うものです。
ぜひ、日本のメーカーも世界に怒濤のごとく販売した記録は残しているものの、クルマ自体の文化そして歴史ということについては全くもって寂しい限りです。一日でも早く、文化に自らの資金で金を掛けるようになって欲しいと願うものです。
末尾は、文化として扱われている幸せな展示車の画像です。
以下は広報のマネージャさんに敬意を評して、現場にあったデータを基に参考までに整理して車両データを記します:
Audi Forum Tokyo - 特別展示車両:NSU TTS Gruppe 2
NSU車は1873年Christian Schmidt & Heinrich Stollによって編機のメーカーとして設立された。1880年現在のAudi Neckersulm工場の場所にNeckersulmer Stickmachinefarik(NSU)としてその工場を構えた。
1901年始めてのオートバイを生産開始、1905年4輪車の製造を開始し、1932年第一次世界大戦後はオートバイの専業メーカーとなった。
1946年戦後の復興によりオートバイの製造を再開し、レースにて数多くの勝利を勝ち取った。1956年再び自動車の製造を開始し、数多くのモデルを生み出した。その中ではロータリーエンジンを搭載したヴァンケルスパイダー、Ro80等があげられる。NSUhしゃは969年Auto Unionと合併しAudi NSU Union AGとして再出発を果たした。
展示車のNSU TTS Grouppe2は1961年にデビューしNSU Prinz4(600cc)を基にし、1964年NSU Prinz1000に発展、1967-71年スポーツモデルとしてNSU TTSが開発され、数多くのルーリングカーレース、ジムカーナ、ヒルクライムに活躍した。
デンバーのスピットファイアのシニア夫妻に学ぶ - 米国コロラド州、デンバー山中の出来事 (2001年7月23日)
2001年、勉強のために技術系のビジネススクールみたいなものに自分自身に投資をしました。6月から毎月の最終の週に一週間、都合3回、米国コロラド州デンバー (Denver) に授業と認定試験を受けるために通っていました(片道ドアツードアで20時間近くある)。
7月の末、一日だけ余裕があり、レンタカーでドライブに出かけました。御存じのようにデンバーは1,000m以上の高地で、有森選手などマラソンのトレーニングのメッカでもありました。デンバーの市内からさらに山岳地(国立公園)に行くと、素晴らしいワインディングロードがあります。しかも2000m以上の高地であり、クルマから降りて歩くと息切れ状態にもなります。
そのドライブの最中に鮮やかなブルーの老夫婦カップルのミケロッティデザインのスピットファイヤーと遭遇しました。ノロノロと走っていたので追いこしてしまったが、後ろ姿を見たいと思い、後ろにまわったが、相変わらず、路肩にちょっと停止したりのノロノロでありました。再度、追い越し、クルマ止めのあるところで停車、山を下って来るのを眺めていたら、向こうからも停車し話しかけてきました。
イイクルマだ、ミケロッティだの、好きなクルマだのと他愛のない会話の後、何でユックリ走るの?への返答には思いもよらいないものでした。何と、『我々はコロラド・ハイマウンティン・クラシックカー・クラブのメンバー (Google Images - colorado high mountain classic car club) で、休みの日にはこの素晴らしい場所で道路に落とされたゴミを拾っているのだ』と、説明されました。スピットファイヤーの奥方の助手席の足下には空き缶などのゴミのヤマを見せていただき、驚かされました!
クルマの楽しみ方にはこんな方法があるのかとともに、自分の愛するクルマを使って、ボランティアと言った考えなど、清いと言うのか、クルマ文化が進んでいると言うのか、(日本のように群れでない) 個人レベルでもこんなことをやっているのだと感心させられ、そこを別れました。近い将来の自分達が歳をとったらこうありたいものと感じました。本ページに敬意をもってスナップ写真を添付させていただきました。