日野コンテッサ1300のスタイリング (インテリア含め) &ボデー設計 及びプロト (コンテッサ900のシャシーベース) 製作は、コンテッサ900の設計完了直後の1960年夏、イタリアのミケロッティ社 (Michelotti Studio) に打診&交渉から始まりました。
それは第二次大戦後の日本の自動車産業衰退を復興すべく、フランスのルノー4CVのノックダウン生産&完全国産化を進め、その結果生まれたコンテッサ900、さらに進化させた初めての純国産であり、日本の経済発展を担うべき「輸出適格車」という十字架を背負う運命でした。
それはロマンと野心に満ちた壮大なプランだったのです。
日野自動車は、まず欧州進出のために、1964年のパリ・モーター (以後、パリサロン) 出展に挑みました。その大志は、最終的に残念ながら歓喜に満ちたの終楽章 (フィナーレ) のない物語 = 交響曲でありました。
第一楽章 - 希望 :第51回 パリサロン (1964年)
日野自動車はコンテッサ1300の国内販売を1964年9月1日 (昭和39年) に開始し、その2ヶ月後の11月2日、第11回東京モーターショーでミケロッティ氏デザインのトリネーゼデザイン (イタリア風デザイン) として技術の先進さと共に発表しました。
実はそれにかなり先行して、「輸出適格車」のコンテッサ1300は、フランスはパリで自動車専門のコンサルタントを起用し、欧州デビューを目論んでいました。その指揮を取られていたのが、当時の役員であった内田一郎さんでした。自ら名付けた「コンテッサ」、そして「輸出適格車」構想の生みの親でした。
コンテッサ1300、パリサロンと共に始まる!
その最初のイベントが1964年10月1~11日の世界でもっとも有名な第51回パリサロン (Saln de Paris - Paris Motor Show 1964、パリ・モーターショー、あるいは、パリショー) でした。この出展は、同月後半の東京モーターショーに先駆けたイベントだったのです。
その後、コンテッサ1300の出展は1966年まで継続し、様々なコンテッサ1300 (将来を担うスポーツカー:コンテッサ1300スプリント含め)を展示が進められました。
この伝統あるパリサロンは展示だけにとどまらず、事前に様々な試乗会やプレス&アナリスト・イベントがパッケージングされています。
日野自動車も忠実にそれに従い、二つの事前イベントを行いました。その一つがパリ郊外 Autodrome de Linas-Montlhery (wiki、モンレリーサーキット) での試乗会でした。
もう一つが所謂、業界の重鎮を招待したプレス&アナリスト向けカンファレンスでした。言わば、自動車文化の社交の場です。これは必要不可欠であり、欧州では常識であったのです。
モンレリーサーキットでの試乗会には、フランスの元F1ドライバーのモーリス・トランティニアン (Maurice Bienvenu Jean Paul Trintignant) さんもその一人でした。高速性能、操縦性能、加速性能など氏からも高い評価を得たと当時の文面があります。
パリサロンを前にしたモンレリーサーキットの試乗会での日野コンテッサ1300
モンレリーサーキット、モーリス・トランティニアン氏と日野自動車 松方社長
モンレリーサーキット、元F1ドライバー、モーリス・トランティニアン氏の走行
RR独特のベタ踏み全開加速時の特徴であるリアの沈み!
1964年9月25日:プレス&アナリスト・カンファレンス
プレス&アナリスト・カンファレンス、パリサロンの直前の9月25日 (金曜日) 、ブローニュの森の超高級レストラン「レ・プレ・カトラン (Restaurant gastronomique étoilé Le Pré Catelan à Paris) 」で午後6~9時に開催されました。
そこには、フランス自動車技術協会の会長、バレ氏をはじめ、パリを中心に欧州の自動車専門家が正確な数はまだ把握出来ませんが数十名招待されました。コンテッサ1300の先祖のルノー公団の関係者にも招待状は送られました。また、コンテッサは屋外に展示されました。
以下はレ・プレ・カトランでの当日の貴重なオリジナル・プログラムです。実はパリの古本屋で入手したものです (2000年当時) 。
いかにもフランス、パリの目線での日本を意識したイラスト!
ブローニュの森での日野コンテッサ 1300 (プレスキットより)
1964年10月1〜11日:第51回 パリサロン
さて日野自動車にとって初のパリサロン、第51回パリ・モーターショー、場所は、Parc des Expositions de Villepinte (パリ エクスポ ポルト ド ヴェルサイユ) 、2台のコンテッサ・セダンを展示をしました。会場は今も健在のようです。
日野自動車のブースは間取り図 (右下の赤矢印) で判明できます。画像の右手前でしょうか?
以下、左の画像は日野自動車のブースの状況、ブースの右手からの撮影と分析します (奥にLANCIAがあり) 。
右の画像は、日野自動車のブースにいらした当時のポンピドー (Georges Pompidou) フランス首相、松方社長とコンテッサを前に歓談。
当時の会場全体の雰囲気は、1964 Paris Motor Show PARC DES EXPOSITIONS, PARIS の画像で垣間見ことができます。
(1964年 パリサロン、会場レイアウト図)
10月2日、ショーに当時の (ポンピドーフランス首相) が来観。日野自動車のブースでコンテッサ1300を前に日野自動車、松方社長と歓談する (右画像)
地元紙、“LE JOURNAL DE L'HOMME DU XX SIECLE - 1964 Pari Show” 、1964年10月14付けで日野コンテッサ1300を報じていました。文面は、おそらく次のようなものです (by Google Translator) :
【検証 - 1964年】
2011年7月、ビジネス上のパリでのカンファレンスで出張の機会がありました。このブローニュの森の超高級レストラン「レ・プレ・カトラン」がどのようなものか、ただただ見てみたいと思いました。
パリのオペラ地区から地下鉄とバスを乗り継ぎ、ブローニュの森を歩き、目的の「レ・プレ・カトラン」は広大な敷地の中に静寂と共にありました。エントランスを抜け、係の方にお聞きするとここの設備はレストランとカンファレンス・センターがあり、おそらくコンテッサ1300セダンの発表はこのカンファレンス・センターで実施されたものと思います。
ブローニュの森の超高級レストラン「レ・プレ・カトラン」のエントランス
「レ・プレ・カトラン」の前にて、当時の日野自動車の意気込みのようなオーラを感じた!
ブローニュの森、パリ市の仮ナンバーの日野コンテッサ 1300 (プレスキット)
半世紀以上も前に、ここで発表のコンテッサ1300セダンが欧州を走る回ることを夢ではなく現実のものにしようとしていたのでしょうか?
日野の当時の事業責任者であった社長の松方 正信氏、コンテッサの名付け親でこのコンテッサ1300を自ら世界に売り歩けねばならない十字架を背負った内田 一郎氏 (素晴らしきカー・ガイ達) が熱弁をふるったかと思うと感慨深いものがありました。
画像の写真はその場のプレスキットの一部のパリ市の仮ナンバー「3047 WW75」をつけたコンテッサ1300セダンです。
その背景はもちろん「ブローニュの森」でした。この場所を特定しようと試みましたがそれは無理からぬものでした。
上述のレ・プレ・カトランでの当日のオリジナル・プログラム、内容的は日本からのプレミアカー、日野コンテッサ、フランスに到着、それを祝いましょう...なんて感じかと思います。文面、構成、そしてデザインはやはりフランス人の専門家を活用した結果であり、ジャパニーズを強調したシンプル且つインパクトある簡素な表現と見受けます。
このパリ、ブローニュの森の後、恒例の古本屋 (Librairie Automobile Spe Sarl、171 Rue de la Convention, 75015 Paris) に出向きました。ドアを開けると当方を記憶いただいているようで、すぐに半年前に入ったという日野の写真を持ち出してきました。
フランス語の手書きメモがある当時の日野工場と試乗用コンテッサ
それらの写真 (中央のコンテッサ1300を除く) は、ルノー4CVのノックダウン生産を開始した当時の日野の工場内部を個人が撮影したものです。
写真の裏にはフランス語の手書きメモがあり、撮影は1955年12月7日とあります。撮影の主を分析すれば、当時、ノックダウンのためにルノー本社から派遣され、長く日野に常駐した技術者、Aime Jardon氏となりました。
氏は、晩年、日野とルノーの関係についての数百ページに及ぶ論文 (Loïc LE MAUFF L’aventure de Renault au Japon dans les années Cinquante. Alain PLESSIS) に協力しております。
このペーパーは、日野小型車史を研究するものにとっては最高レベルの資料であります。日本人の創造性なども言及されており、「日本人は一度、教えれば、すぐに理解する、しかし、それを自ら創造したように勘違いする」と、本質をついたような記述が多く見られます。
パリには半世紀も前の日野コンテッサの痕跡が散らばっているようです。さて、この1964年秋のパリ進出、その後がどうなったのでしょうか? (続く)
参考&参照文献
第二楽章 - 展開:第52回 パリサロン (1965年)
2年目となる1965年のパリサロンに向けての出来事を整理してみましょう。
1964年のエッフェル塔を前にしたコンテッサ 1300セダンと共にルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Arc de Triomphe du Carrousel) の前のコンテッサ1300セダンです。この画像も1964年以来、当時のプレス向けに多用されました。
国内仕様のようにサイドの日野マークはなく、代わりにJM、すなわちミケロッティ・マークが付いている。また、フロントにサイドミラーはないのも実にスッキリしている!
画像の女性は先のエッフェル塔と異なりますが、コンテッサの個体は “3047 WW75” のパリ市の仮ナンバーを持つコンテッサ1300セダンであると分析します。
また、おそらく1965年には待望のクーペも到着したようで、雪景色ではあるものの、恒例のブルーニュの森での撮影があったようです。
さて、日野自動車の小型乗用車の師でもあるルノー 公団 (当時) の本拠地、フランス&パリで4CVから進化した純国産車であるコンテッサ1300を発表&販売すると言う壮大な夢はどうなるのでしょうか?
1965年、秋のパリサロンに向けての足跡
実は1964年のパリーショーでのデビューの際から、フランス人コンサルタントを起用した様々なアクションが見られます。その第一歩がフランスでの代理店設定だった様です。
左の方が日野自動車のフランス進出プロジェクトを担当した自動車業界コンサルタントのガルニエ (M. Garnier) 氏と分析。撮影場所はAutodrome de Linas-Montlhéry (オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリ) と呼ばれるサーキットの正面ゲート前に間違いない (Google マップ参照) 。
フロントドアには、”MADE IN JAPAN" が強調されている!右の方は、おそらく人相&服装からこの施設の担当者だろうか?他の場面でも必ず登場する人物である。
コンテッサ1300はやはりは走行シーンがベストで美しい!
そしてPR向けのメディア対策、フランス自動車雑誌のナンバー1のL’AUTOMOBILEの1965年5月号に有名ラリードライバー&ジャーナリストにより “HINO… une japonaise“ として、日野コンテッサ1300セダンは、OPE: REKORDやFIAT 124と肩を並べて大腿的に試乗レポートと共にユーザー目線での同じ評価基準によっての紹介記事となりました。
評価には、ロードホールディング良し、しかしブレーキングに不満、エンジン音が騒がしい、サスペンション が硬すぎる、ギアのシンクロが温まると障害あり…などが書かれています。自分の感覚とドンピシャです!(詳細はこちらを参照)
待望の販売チャネルについては、E. Dujardin SA社 (パリ12区、323. RUE DE CHARENTON) と契約できたようで、以下の様な広告も上記のL’AUTOMOBILE誌に掲載されるようになりました。日本の日の丸を背負って非常にシンプルかつクリアな表現だと思います。
オートドロム・ドゥ・リナ=モンレリでの白いセダン (7152 W 75) は、”MADE IN JAPAN" がドアに描かれている。”信頼の品質の日本車” みたいなものがM. Garnier氏の戦略だったのだろうか?
その後の日本車のマーケティング戦略の先駆者は日野自動車のコンテッサ1300だったのた!
1965年7月:日野コンテッサ1300クーペ 名誉大賞!
1965年7月10〜11日、フランス,ニースに近い紺碧の地中海に面したイアリア、アラッシオ (Alassio) の国際自動車エレガンスコンクールで、日野コンテッサ1300クーペは名誉大賞(Premio d'onore)、セダンは一位に輝きました。ミケロッティ氏のデザイン技術と日野のエンジン・シャシーなどの実装技術が欧州で評価された瞬間でした。
欧州進出への市場の注目を得るための重要なイベントであり、日本車として過去にも先にも例のない快挙となりました。
名誉大賞(Premio d'onore)の記念してコンテッサクーペのCMフィルムも制作された
1965年は、実車の販売に向けて大きな進展がなかったように見えます。その背景の一つには、フランスでのホモロゲーション、日本で言えば、運輸省の型式認定に相当する当局のHomologationが得られなかったと分析します。もう一つの問題は日本からどうクルマを送るのかの問題も根底にあったと考えます。しかし、これらの課題解決には、輸出の責務を一手に担う内田 一郎氏たちは日夜奔走していたのです。
1965年10月7日〜:第52回 パリサロン
そして1965年のハイライトはやはりここのテーマである第52回パリサロンです。何といっても前年の1964年含めも当時の日本のOEM各社は日野自動車以外 (1965年度はホンダが出展) 、この場には居なかったのですから!しかも、フラグシップというべきコンクールで名誉大賞を得た “コンテッサ1300クーペ” が出展できるようになったのです。
ここでも “MADE IN JAPAN” と銘打った日野コンテッサ1300クーペ。それはフランス人コンサルタントの戦略には間違いない!
上の画像のクーペに感じたことが、意外と小ぶりに見える、西洋人の大きな身体のせいだろうか?でも何か好ましく感じる!
このレイアウト図から診ると、日野自動車の出展ブースの位置 (画像の赤矢印) から、一つ上のクーペの画像の向こうにはGLAS (日野自動車のブースの左側) 、また上の画像から背後にはBMW社 (日野自動車のブースの上側) が正しく見える。
想像が膨らんで面白い。手元にある他の画像などの分析をすると、日野の右隣のSBARAは出展しなかったようで、そこにはコンテッサの白いセダンが鎮座しているように見える。分析が正しいかどうかはなんとも言えないが...
(1965年 パリサロン、会場レイアウト図)
第52回パリサロンの日野のブースには当時の大統領、シャルル・ド・ゴール氏 (18代、Charles de Gaulle) は日野の展示ブースを訪問、コンテッサ クーぺを見学された。
中央の大統領の右横には、日野自動車のコンサルタントのガルニエ (M. Garnier) 氏がおられる。大変、貴重な歴史の記録と考える。
日本のメディアでは、カーグラフィック誌が1965年12月号の特集=世界4大ショーのパリショーの中で、日野自動車について一コマ取り上げています。これは上記二つの画像を合わせて一致性があり貴重なものと思います。
ただ、記述の中に、『コンテッサも初めてパリ・サロンにデビューした。』とあり、これは完全な誤りであり、何時の時代もメディアはエビデンスもなくリサーチもなく物事を書き上げるのだと、実に残念なことであります。読み手が真実を見極める必要があるということです。幸いなことは画像は嘘をつかないということでしょう。
1965年のパリサロンについては、CG誌のほかに毎日グラフ 66新型乗用車特集 (1965年12月号) にがホンダ S600と共にリポートされています。
1965年、このように販売チャネルや価格設定もされたものの、フランスでは販売開始は至らなかった様です。それについては、1966年のテキストに記述しましょう。
【検証 - 1965年】
以上、紹介の各種、画像や雑誌、これら多くはパリの例のクルマ専門の古本屋で入手したものです。それも一回で集まったものでありません。
画像の白いコンテッサセダン (1009 W 75)、L’AUTOMOBILEの1965年5月号の試乗に使用された個体、この写真もこの古本屋で入手しました。
その裏には、なんと “L’AUTOMOBILE” も印 (参考までに、画像に貼付け) が!寸法などいろいろ表記があり、おそらく編集に使われたものと分析、そんなものが流れて来る、パリの古本屋であります!
冒頭画像のルーブル美術館近くカルーゼル凱旋門 (Google マップ参照) に、ビジネストリップの縁があり、ついでに自分の足で出向きました (下に参考画像) 。
このカルーゼル凱旋門の前でコンテッサ1300と当時の日野自動車の内田 一郎さん (素晴らしきカー・ガイ達) たちは欧州進出を目指していたのかと、勝手な妄想をし、感無量でいたことを昨日のように思い出します。
それはGoogleマップなどのバーチャルな世界では絶対に得られるものではありません。その後も機会あればこの地を訪問しています。自分にとって、幾つかある日野コンテッサ1300の聖地の一つとなっています。
参考&参照文献
第三楽章 - 断腸の念:第53回 パリサロン (1966年)
1966年に入り、兼ねてからの代理店、E. Dujardin SA社に加えて、周辺諸国での代理店設定、完成車輸出、各地のモーターショーへの出展、さらに走るイベントやエレガンスコンクールなど、壮大なプランも本格化してまいりました。これも1964年以来の足跡の結果を示すものであり、主なものをハイライトしてみましょう:
1966年、欧州進出の足跡 - 上半期
1月12〜2月3日:第15回ブリュッセル自動車ショー
1966年1月12〜2月3日:コンテッサ1300、ベルギーのブリュッセルにおいて、第15回ブリュッセル自動車ショー開催。コンテッサ1300セダンを2台、クーペを1台出品。この車はオランダの代理店のオートモービル・ファブリック社より出品。
1月16日:キプロス島(地中海東部)のハッピー・バァレー・ドライビングテストで優勝!
1966年1月16日:コンテッサ1300、地中海東部、キプロス島 (Cyprus) のハッピー・バァレー・ドライビングテストでコンテッサ1300総合優勝。ドライバーは現地代理店のトリミティコス社長 (現A.Tricomitis Ltdと推定) 。
2月:スイスのフィリピネティ社と代理店契約
1966年2月:コンテッサ1300、11月、スイスのフィリピネティ社と代理店契約を結びコンテッサ1300の輸出を計画していたが、この2月、ジュネーブ市の郊外のランシーに同社設立になる、日野オートモービル社が完成したのに併い、3月より本格的輸出を開始。
3月10〜20日:ジュネーブショー
1966年3月10〜20日:コンテッサ1300、スイスのジュネープ市で開催されたジュネーブショーに日野オートモービル社と共同で、屋内展示場にコンテッサ1300セダン、クーペ各1台、屋外に試乗車として同じくセダン、クーペ各1台を出品。(参考:当時のモノクロカラーカタログ - フランス語)
このカタログ (フライヤー) によれば、最高速度:160km/h、軽合金シリンダーヘッド、取り外し可能なウェットライナー、フィルター付き電動燃料ポンプ、スパークプラグ:Hitachi L 45 または Bosch W 175、または Champion N 5、ピレリ Cinturato 165 x 13 タイヤ、などなど日本の中では見られない記述がみられ、欧州顧客へのキメの細かい対応を垣間見ることができます。
4月13〜24日:バルセロナ・オートショー
1966年4月13〜24日:コンテッサ1300、バロセロナ・オートショーに昨年に引き続きスペイン代理店タバコス社を通じて、コンテッサ13003M、4M、クーペを出品。日本から唯一の参加となる。(参考:後の7月に作成されたスペイン語版カタログ)
まったく新しいコンテッサ 1300 クーペに乗り込みましょう! そして、あなたが求めていた感情、つまり真の自動車運転の喜びを感じるでしょう。 そこには、エレガンスと快適さを備えたグランツーリスモの振る舞いが特徴のあなたの個人的な車があり ます...そして体を快適にする比類のない一連のアメニティ
世界的に有名なイタリア人カー デザイナー、ジョヴァンニ ミケロッティによって完璧に実現されたコンテッサ 1300 クーペは、トリノ スタイリングの最新トレンドである「トリネーゼ」スタイリングを表しています。
(w/ Google Translator)
(右のテキストは出品されたクーペをショー後購入したアントニオ・ガルシア・グティエレック氏の謝意)
“私の一連の好ましい事情並びに熱心さと、私は今年の自動車ショーに展示されましたコンテッサ1300クーペを買い取る光栄にあるかりました。この、人がただただ羨むコンテッサの完璧さに全く満足しております。貴社がこの車両の製造にあたりまして払われた慎重さおよにび完全さに対し深く感謝します。”
4月27日 :オランダ、モービルファブリエク社のスローベン工場の起工式
1966年4月27日 :コンテッサ1300、ベネルックス諸国の代理店であるオランダ、オートモービルファブリエク社のスローベン工場の起工式が行われる。現在、同社には、毎月コンテッサ1300(完成車)100台他の輸出が行われている。
スローベン組み立て工場が完成すると同時に小型車のCKD組立が開始され、初年度、コンテッサ、レンジャー、THトラックあわせて500台以上の組立、販売が予定されていた。 (画像:組立工場礎石を前に、日野自動車の海外進出を一手に担ってきた日野自動車 常務 内田一郎 氏(右がら二人目)
7月16日:1966年国際自動車エレガンスコンクール (ベルギー、ノッケ市)
1966年7月16日:コンテッサ1300、ベルギーのフランドル地方のノッケ市 (Belgium. Knokke) で、1966年国際自動車エレガンスコンクールが行われ、プロフェショナル部門(メーカーまたはデーラー出品)でクーペ、プライベート部門(個人出品)でセダンがそれぞれ名誉大賞を受賞。
などなど、1966年の上半期はまさに計画通りの順調満帆のような日野自動車&コンテッサ1300の足跡でありました。また、最大の懸案事項、日本からのコストのかかる完成車輸出に変えて、欧州現地での生産に向けての大きな進展もありました。
ベネルックス市場向け、オランダ工場建設について
上述の1966年4月27日 のオランダ、オートモービルファブリエク社のスローベン工場については、現地、ゼーラント州の都市、フリシンゲン (Vlissingen) の公式HPの中のデジタルアーカイブに詳しく紹介されていました。当時の多くの画像と共に日野自動車の生きた足跡を知ることができます。
記述によると、前年度の1965年11月には土地の確保はできており、1966年4月27日に工場の礎石 (オランダ語:steenlegging) で記録されています。その場所は、フリシンゲン東 (Vlissingen-oost) とあり、市の郊外、港に隣接した工場団地あるいは倉庫街のようです。
以下に多くの画像から数枚でまとめました。所謂、CKD工場のようなもので、コンテッサについてはまずは完成車輸入の検査&現地対応だと分析します。
しかし、このデジタルアーカイブによれば、1966年末には工場は閉鎖されたとあります。上述の生産目標にほど遠い結果あるいは現実であったと理解します。これはこの時点で強い野心を持った欧州進出は断念せざるを得なかった結果と分析します。
日仏伊コラボレーション - 待望の真のスポーツカー!
ミケロッティ側の提案で誕生したコンテッサ900スプリントは、イタリアのアバルト (Abarth) が一版生産車を利用したにようにコンテッサ900のプラットフォームをベースにした軽量小型スポーツカーです。1962年10年、トリノショーで発表、ジュネーブショー、年明けてニューヨークショーに出品、そして1963年10月、第10回東京モーターショーで公開されました。
それは日本からコンテッサ900のエンジン、ミッション、シャシー部品をイタリアに送り、現地で生産し、欧州を中心に販売をする計画を発表 (1963年1月29日) 、その後、イタリアのトリノを中心にした製造先を訪問・模索していました。初期ロットは1,000台分、そして本格生産は1963年10月、第一期生産は、5,000台を予定と発表されました。
しかし、その計画は何らかの理由と中止なりました。1964年1月、日野自動車は計画中止を発表、その記者会見に於いて、常務で海外事業責任者であった内田一郎氏は、「新たなより魅力的なスポーツカーを...」と、計画を述べていました。
それこそが日野コンテッサ1300GTであり、発表直後の1964年2月、イタリア、トリノのミケロッティ社ならびにフランス、ディップのアルピーヌエンジニアリング社とデザイン、エンジン&シャシー開発、FRPボデーのプロト車とその走行試験含めて包括的な契約を結びました。言わば、日仏伊のコラボレーションプロジェクトが始まったのです。それがコンテッサスプリント1300GT (あるいは、コンテッサ1300スプリント) だったのです。
GR100ベースのスポーツカー用エンジン開発、アルピーヌエンジニアリングによる1号機はベンチテスト後、1964年秋頃に日野自動車にデリバリーされました。契約上、レーシングエンジンではないものの、日野自動車の技術部門はそのエンジンをGTP (レーシングプロト) エンジン流用の決定をしたようです。
ボデーおよびその形状は、ミケロッティ側でデザインされ、アルピーヌ側で制作されたフレーム (A110に酷似) に、ミケロッティ側でメタルの手鈑金で制作され、その形状を基にアルピーヌ側で治具であるFRP型が制作 (これも契約上の日野への納品項目) されたようです。
最終的にA110のように、日野コンテッサ1300クーペのシャシー部品を使用したアルピーヌ製となるTOHCエンジンを搭載した "コンテッサ1300スプリント" として、1966年の第53回 パリサロンに出展しました。もちろん、それまでに数々の試験走行を済ませていたのは当然のことです。以下の画像はその過程の一コマです:
時間を要したフランスでのホモロゲーション取得
1965年の種まきを経て、1966年は代理店設定や各地でのモーターショーなどプロモーションは順調に進んでいました。ただ、肝心のフランスでのホモローげション取得、すなわち型式認定は時間を要したようです。
型式認定については、前年度にフランスでの代理店契約をしたE. Dujardin SA社 (パリ12区、323. RUE DE CHARENTON) と共にすぐに進められたと分析します。
長年のリサーチの結果、収集したドキュメンテーション (日野自動車やE. Dujardin SA社の当時の資料) をもって時系列でトレースするとおおよそ次のような状況にあったと考えます。それはシートベルトの安全性であったのです:
まさにたかが「穴」、されど...のような話しであります。
シートベルトのアンカーボルトの穴とは、おそらくアンカーボルトをフロアパンに取り付ける部分です。は自分としても柔に思える内側の部分 (ドア側のそれは比較的強固なベースになっている) の設計であり、それを指したものと思います。フランス当局のテクニシャンは見過ごすことができなかったと推測します。さすがクルマの安全性に関する先進国であります。
結果的に日野自動車は、「穴一つ」に1年近くも費やされてしまったようです。日野自動車はこの安全性の証明におそらく、新たに試験装置を制作したと考えます。申請書にある試験プロセスを示す画像を参考までに示しました。
いずれにせよ、1966年4月半ばにホモロゲーション取得となった訳です。大きな前身であります。(19660412_Coupe_CERTIFICAT DE CONFORMITÉ、19660412_Sedan_CERTIFICAT DE CONFORMITÉ)
(謝辞:本項目の情報収集には、ルクセンブルク在住のBernard Fournolさんにお世話になりました。)
1966年10月6〜16日:パリ・サロン 展開と撤退
1964年、1965年、そしてこの年、1966年は日野自動車にとって3年目の第53回パリサロン、コンテッサ1300セダン (PD200) 、クーペ (PD400) のフランスでのホモロゲーションは取得しました。欧州での実に多くのイベントのフィナーレとなる1966年 パリサロンです。
HINO TODAY誌 - @パリ・サロン
日野自動車は毎年パリ・サロンに際して、社を紹介する国外向けの小冊子 (B4サイズ) を配布してきました。1964年は、見開きページに “Contessa 900 Sprint” が大判カラー、1965年は、HINO D'AUJOUTD' HUI (Hino Today) となり、表紙にコンテッサ1300の製造ラインの素晴らしいイラスト、見開きページには、“Contessa 1300 Stile Torinese” が大判カラーでフォーチャーされました。
1966年10月のパリ・サロンの「Hino Today」は、44頁かつB3サイズの大型冊子となり、日本の伝統&文化の紹介と共に全面がコンテッサ1300を中心にまとめたものです。フランス語版があったかどうかは不明ですが、パリ・サロンで配布されたものを入手したものは英文であります。しかし、パリ・サロンを示すスタンプがあるので英文だけだったと分析します。
以下にその内容:Contents (目次) を示します。
コンテッサ1300クーペの素晴らしいステアリングハンドルをフォーチャーしています。“Message from HINO MOTORS” として、一般にいう “CEO Message” のように、松方社長が日本のランドマークである皇居を前にして、コンテッサ1300のスアリングを握る姿、これ以上の設定はありません!当時の日野自動が如何に日野コンテッサ1300の輸出にフォーカスしていたのか解ろうというものです。
メッセージの内容については、以下に示します (w/ Google Translator):
豊かな暮らしのニーズに貢献する日野自動車
過去 20 年間の日本経済の成長について尋ねられた経済学者は、ほとんどの場合「素晴らしい」と答えます。 この経済の奇跡の功績の大部分は自動車産業に与えられるはずです。
この産業の一環として、日本の経済再生に日野自動車が果たした貢献は多大でした。 そして、私たちは事業の拡大と着実な後継者の導入を同時に行いながら貢献してきました。 最高品質の自動車。 輸送や建設の分野では、HINO の商標が付いた車両が世界中で親しまれており、日本の経済力の向上を促進しています。
日野自動車の輸出が拡大し、現在では 70 か国以上をカバーしていることは、日野自動車が純国産企業の地位を超え、現在では世界有数の自動車メーカーの 1 つとして位置づけられていることの紛れもない証拠です。
現代社会では工業化とモータリゼーションは密接に結びついています。 自動車業界の責任は広大かつ終わりがありません。 日野自動車は1910年の創業以来、自動車産業の要請に応え、技術の総力を結集して、人々の暮らしと豊かな社会に貢献する製品づくりに取り組んできました。
しかし、私たちの努力は、私たちの全体的な目的をご理解いただいた場合にのみ実を結びます。 このことをご理解いただくために、私たちは誇りを持ってパンフレット「HINO TODAY」を皆様にお届けしたいと考えています。
古代ギリシャ人は、「美術」と「テクノロジー」という用語を 1 つの単語に組み込みました。 "美術"。 真の美には優れた技術が組み込まれているというのがギリシャ人の信念でした。
1965年にイタリアで開催された国際オートモービル・エレガンス・コンテストにおいて、世界各国から選ばれた104台のエントリーの中から、日野コンテッサシリーズがグランプリと第1位を受賞したとき、私たちは、私たちが独自に解釈したクルマの真の美しさは、次のようなものであることに気づきました。 世界から高く評価されています。
イタリアのカーデザイナー、ミケロッティ氏が手掛けた「コンテッサ」シリーズがまさに「科学の傑作」と称されるグランプリは、日野自動車独自の卓越した技術と厳選された最高級パーツのおかげで実現した そして組立ラインの各製品には、優しく愛情を込めた配慮がたっぷりと注がれています。
世界の伝統ある自動車メーカーの一つである日野自動車が自信を持って送り出すコンテッサは、洗練された技術と洗練された美意識を理想的に融合させ、スタイリングと性能の両面で洗練されたクルマです。
CONTESSA シリーズは広く受け入れられており、当社の車載用製品は個性的で人気があると確信しています。 そしてこれは、優れた絵画を選ぶ際に、作品の表面を超えて、その内面の美しさを探求する芸術愛好家と同じくらい、独自の方法で選択的である世界中の日野オーナーの目の肥えた趣味のおかげであると私たちは考えています。
1966年 パリサロン、会場レイアウト図
本サイト独自のリサーチによれば、この年は、コンテッサ1300セダン、コンテッサ1300クーペ、そして日仏伊合作の新型車:コンテッサスプリント1300GTの3台の展示をしました。ただ、日野自動車はのこの年のパリサロンについて一切の報告をしていません (東京モーターショーについてはあり) 。よって、記録に残る情報も皆無に近く、会場の様子、雰囲気を知ることが大変難しいものです。
数少ない情報の中、以下に欧州メディアの情報をまとめてみましょう:
コレクターカード:第53回パリサロンでのコンテッサ1300セダン
第53回パリサロンでのコンテッサ1300セダン
記述には、1967年の自動車、コンテッサ1,300、排気量:1,251cc、燃費:7リットル/100キロ、最高速度: 145 km/h、ブレーキ: フロント、ディスク;リア、ドラム、エンジン:直列4気筒、4速ともシンクロ付き、2ドア (これらはクーペと混同しているようだ)
国: 日本。ヨーロッパでは珍しいイタリアデザインの日本車。
(BRUGUERA, S. A (スペイン、バルセロナ) 発行の自動車のコレクターカード、10数年前にスペインのeBayから購入、説明文の抄訳 - w/ Google Translator)
コンテッサ 1300 スプリント、地元誌記事抄訳 (w/ Google Translator)
日野自動車の展示に関するメディアの記事、ただし、メディア名については不明。
1966 年のパリ モーター ショーで、日野は、1962~64 年の 900 スプリントのシルエット (側面のエアインテークなし) を引き継ぎながら、ディエップのアルピーヌでショック処理を施したクーペを展示しました。1,286cc (72x79mm) エンジンにはダブル オーバーヘッドカムシャフトのシリンダー ヘッドが取り付けられていました。 Weber 40DCO キャブレターを搭載し、5,500 rpm で 90 bhp DIN を発揮します。 ブレーキは、4輪ディスクで提供されます。
新しいコンテッサ 1300 スプリント
(1966年のパリ サロンで展示)
パリ・サロン前後の当時の日野自動車を知る断片的な情報 (by Google Translator)
この文面をみると当時、日本国内でも噂のあったの日野プロトによるル・マン参戦を意味しているのでしょうか?これを読む限り、日野プロトではなく1300スプリントのようにも思えます。重要なことは、日野自動車のパリサロンなど欧州での勢いは、欧州メディアがこのように受け入れていたのです (以下に抄訳:by Google Transolator) :
ヘンリー・フォードは情報に敏感なのだろう。ル・マンで、サルト・サーキットの次の対戦相手は東京からやってくるだろうと言ったとき、彼が間違っていたのはただ一点。
当初、彼らの野心はもっと控えめなものであった。わかりやすく言えば、日野は(グランプリに参加しているからと誰もが思い浮かべるホンダではなく)、数ヶ月前にイタリアで最も控えめなクラスの試作車を秘密裏に用意していた。
ダブルオーバーヘッドカムシャフトの1300cmcエンジンを搭載し、アルプス越えのスペシャリストの一人が準備し、トリノで最も才能あるスタイリストの一人がボディを作ったという話しである。
日野は来年のル・マンに参加するのだろうか?それはわからない。
しかし、日本の新しい「爆弾」のテストは本格的に行われていると言われている。
AUTO UNUVERSUM 1967 (INTERNATIONAL AUTOMOBILE PARADE、ZURICH Switzerland)
スイスのInternational Automobile Parade誌、自動車年鑑のようなものと考えます。67年度版、すなわち1966年の情報が集約されていると推測します。内容を分析すると、おそらくその当時のパリ・サロン (あるいは周辺各国) などでの実績ある自動車メーカーの車両が掲載されているようです。事実、その通りで日野とホンダはあってトヨタや日産などは掲載されていません。やはり、歴史あるこのような年鑑に掲載されることが文化としてメーカーが受け入れられている証しと考えます。
掲載のコンテッサ1300セダン (PD200) やクーペ (PD400) 、これらの画像はここでしか見ることのできないものです。鮮やかな背景が映えています。特にコンテッサ1300クーペのソリッドな赤いカラーは秀逸だと、このカラーは標準色にはないと分析しますはどうでしょうか?また、薄いブルーの入ってない素通しのウインドウガラス (国内向けの安全ガラスではなくラミネートタイプ) も特徴的で、全体感が国内仕様と異なり軽快感が感じられます。
1967 World Automotive Yearbook
このYearbookでは、日野コンテッサ1300セダン&クーペと共に、“Hino Contessa 1300 Sprint” が登録されており、「1966年、パリでデビュー。80馬力エンジン、4輪ディスクブレーキ、プラスチック製ボディを採用した新型クーペのプロトタイプ」と紹介されています。
日野コンテッサ1300クーぺと同じ特徴だが異なる点として:
以上のように、欧州メディアを通して垣間見る日野自動車のコンテッサ1300の第53回パリサロンの展示についてはおおよそ知ることになります。今後もどのような小さな情報であろうと新たな “事実 = 真実” を目できること期待するものです。
日本のメディアでは、カーグラフィック誌がこのパリサロンについて、1966年12月号で取り上げています。しかし、CG誌の独断と偏見でしょうか、ホンダのS800は報道しても、日野自動車のコンテッサ1300については皆無であり、何にもなく端にも棒にもかからないようです。なぜでしょうか?
もちろん、コンテッサ 1300スプリントについても同様な結果であります。残念ながら、日本のメディアなんてそんなものなでしょう。
結果的に、日野コンテッサ1300に関する日野自動車の野心や壮大な計画について知らないのは我々日本人だけかもしれません。それはメディアの対応にも関連していると分析します。欧州のメディアに大いに感謝であります。
尚、CG誌 1966年12月号には前年度と同じリポーターにより、“第53回 パリ・サロン” が特集されています。残念ながら日野コンテッサはリポートされていません。しかし、隣のブースだったOSI社のAlfa Romeo Scalabooの後方に赤い日野コンテッサの後方をちらっと観ることができます。
コンテッサ1300、パリサロンと “共に” 終わる - 栄光と挫折が表裏一体だった!
日野コンテッサ1300は日野自動車工業として、大型商用車と共に世界にはばたくべく二本柱の一本となる筈でした。しかし、美しい伯爵夫人=コンテッサには日本経済発展のための企業再編成と言う時代の波が嫌おうなく押し寄せていました。
この第53回パリ・サロンの2年前、1964年10月1日、日野コンテッサ1300は日本の東京モーターショーに先駆けて、第51回パリ・サロンで欧州市場に登場しました。そして第53回パリ・サロンの最終日の前日の1966年10月15日、日本では周到に進められてきた日野コンテッサ1300の市場撤退が前提条件になっていた「トヨタ・日野自動車両社が業務提携」が明らかにされました。
それは誰の目に見てもパリサロンという表舞台に立っているコンテッサ1300の各モデルにはあまりにも非情とも言える現実ではないでしょうか?
考えてみれば、当時の日野自動車のビジョンと戦略の中心であった輸出適格車として日野コンテッサ1300は、1964年のパリ・サロンでデビュー (栄光) 、しかし、それからわずか2年後のパリサロンで運命の幕引きの舞台 (挫折) となってしまったのです。あまりにも酷であり、それは運命だったのでしょうか?
パリ・サロンで始まり、パリサロンで終わってしまった日野コンテッサ1300、この辺の背景や経緯については、本サイトの「コンテッサ物語、8. 終結:悲劇の伯爵夫人 - 美人薄命ごとく実に短命だった日野コンテッサ」に記述しております。
【検証 - 1966年】
日野コンテッサ1300のエンディングになった1966年、上記の主要なイベントを検証してみましょう:
ベネルックス市場向け、オランダ工場建設は始まったものの、オランダ、ゼーラント州の都市、フリシンゲン (Vlissingen) の公式HPの中のデジタルアーカイブによれば、1966年末には工場は閉鎖されたとあります。上述の生産目標にほど遠い結果あるいは現実であると理解します。
現在のフリシンゲン東 (Vlissingen-oost) については、Googleの画像でみることができ、デジタルアーカイブの画像との比較で、なるほど現在はGoogleの画像のようなかと当時を想像し、日野自動車がこの地での大いなる野望が断ち消えてしまったかと思うと、何か郷愁を感じざるを得ません。
この地では、1990年代ですが古本屋などで日野コンテッサ1300に関する資料 (パーツカタログなど) が結構出回っていたようです。おそらく工場閉鎖後、資料などが地元のあるべきところに流れて行ったのでしょう。歴史の発掘はできるというもので、日野自動車の野望は消えても、その地に文化の歴史として根付いたように人に手に渡り脈々と生き続けるのでしょう。歴史とはそのようなものでしょう。
1990年代、八重洲出版社のOld Timer誌に「日野の夢 - コンテッサに託して(全八回」を執筆する際に、日野自動車に当時のことを知る、あるいは検証するために担当者へのインタビューや資料の協力をいただきました。
その中で、記述の日仏伊コラボレーションのスポーツカー、日野コンテッサ1300スプリントについて、事実を知るべく追求しました。しかし、残念ながら日野自動車はその個体を存じているものの開発の経緯や担当者については全く知らないということでした。当時の役員 (技術部門) あるいはその関係者すべて、異口同音のような有様でした!具体的には、「語るものは何もない」ということで、自分にとってはあたかも事実である歴史をねじ伏せるように感じました。
2010年代のある時期、ルクセンブルクの知り合いからアルピーヌのヒストリアン (?) が、日野コンテッサ1300スプリントの記事を書きたいが、ついては日野自動車の関係者にインタビューしたいと問い合わせがありました。申し訳ありませんが、「それは無理、なぜならば、日野自動車は何も知らないと言うだろう」と、返事をしました。
時を経て、2001年、フランスで「Alpine des hommes, des voitures - Tome 1 (Jean-jacques MANCEL著) 」という書籍が出版されました。「アルピーヌと男たち (抄訳) 」というタイトル通り、Jean Rederel (ジャン・レデレ) さんを筆頭に、関係者すべて (おそらく) の業績が記録されていました。
重要なことは、登場人物の複数のみなさんが日野自動車のプロジェクトに携わったことが記録されていることです。すなわち、アルピーヌ車の関係者ではありますが、彼らの経験として誇りをもって日野自動車の仕事をしたということです。そこにはアルピーヌ社に滞在して共同で作業した日野自動車のみなさん (主にFRPボデー制作習得) も記録されております。歴史の記録として素晴らしいエビデンスであります。
ある時期に、日野自動車の広報を通じて、写真に登場する4名の方について、確認を打診しました。しかし、その返事は、「日野自動車としてこのような人たちは知らないし、そのような事実は知らない」と、にべもない回答の結末となりました。これには、何か不都合な真実があるのでしょうか?
ここに、Alpine des hommes, des voitures - Tome 1 出版と当時の関係者の努力に敬意を評して一コマを紹介します。画像の左は、「Alpine des hommes」、すなわち「アルピーヌと男たち」の一人であるのジャン・ピエール・リモンダン (Jean-Pierre Limondin) 氏、右は日野自動車のコンサルタント、M. ガルニエ (M. Garnier) 氏。(抄訳 w/ Google Translator)
訳註:日野自動車からジャン・レデレに依頼とあるが、この表現に抵抗を感じる。何故なら、実際は日野自動車とアルピーヌエンジアリングとの契約である。古今東西、メディア関係者は自らの筆で歴史を捻じ曲げることが好きなようである。あるいは、メディエータとして裏書を取らず、単にインプットした情報をデフォルメしてアウトプットしてるだけなのもしれない。残念だが...
上の画像の撮影場所は、ディエップの競馬場 (Hippodrome de Dieppe、Google Map) でしょう。アルピーヌ社のクルマたちが必ず画像に残されるディエップのランドマークの一つです。日野コンテッサ1300スプリントもその名誉を受けた訳です。現在では北側の通りを挟んでアルピーヌ社の工場 (新しいA110を生産) あり、その手前のロータリには、ジャン・レデレさんの有名な "Monument Jean Rédélé" が位置します。
以下の画像は、日野コンテッサ1300スプリントがディエップのランドマークの地で画像に収まっている地がどのような場所なのか自分の目で確かめるべく旅をした際の現代 (2010年当時) のディエップのその地の状況です:
この2010年のディエップの旅も実に感慨深いものでした。長年、日野コンテッサ1300スプリントと共にある背景のChateau Musee de Dieppe (シャトーミュゼドディエップ) や街の情景が気になっていました。当時の写真で脳裏にあるものの現地で自分の足で歩いて実物を見ることは何事に言い難い感情が盛り上がってきます。建物や周辺の緑も当時と同じようにすがたで佇んでいました。ブローニュの森での「レ・プレ・カトラン」とまったく同様であります。
何十年も前に日野コンテッサ1300スプリントはここに居たのかと、日野自動車の松方氏や内田氏もこの地にと、その当時、何を思いディエップに来られたのかと実に多くの、また複雑な思いが込み上げてきました。やはり、現地&現物に勝るものはありません。もちろん、宿泊は、もちろん、当時の多くの写真の背景に登場するMercure Dieppe La Présidence (ホテル メルキュール ディエップラ プレジデンス) でありました。
フランスでのホモロゲーション取得に際してのシートベルトのアンカーの穴の強度の問題解決の対応に時間が掛かりました。時系列で検証すると、フランス側当局は実験データを受理してから約2ヶ月でホモロゲーションを出しています。一方、日野自動車側ですが、1965年の前半については、正確に検証できませんが、後半については少なくとも9月から約6ヶ月の時間を要しています。
その要因は何でしょうか?技術側の対応力の問題でしょうか?しかし、そのようなデータは基本的にあるべきものではないか?あるいは、日本の運輸省の登録にはなかったのでしょうか?1965年9月にお墨付きを出しているのは、単に技術部門のペーパーワークだったのでしょうか?しかし、これにはフランス当局からに、推測するに「NO」であり、その後、現物の実験データを出すことになったようです。
1990年代のオールドタイマーでのインタビューのプロセスを通じて感じたことがあります。日野自動車の輸出部門の世界戦略について、第二次世界大戦の関東軍に例えたお話しがありました。「自分たち (技術部門の) のまったく知らないところで、コンテッサを世界中に勝手に販売してきて、後でいろいろと注文をつける...全く違う世界の人たちの行動..」と言ったらよいでしょうか、そのような記憶であります。これは、よく考えれば、技術側の現場が社のビジョンや戦略を理解・共有してなかった、あるいはしなかったということでしょう。
このような社内の空気感、いや実際のアクションが、「穴の強度の問題解決」に時間をかけてしまったと分析しています。それは、昨今の排ガス問題を思い起こす訳です。すなわち、アクションには「真実ある正しい行動があるのみ」がなかった半世紀前の問題に根っ子が繋がっていると感じます。
日野コンテッサ1300は日野自動車工業において大型商用車と共に世界にはばたくべく二本柱の一本となる筈でした。しかし、美しい伯爵夫人=日野コンテッサ1300は日本経済発展のための企業再編成と言う時代の波によってひっそりと世を去らざるを得ませんでした。
例のパリの自動車専門の古本屋で偶然、発見した第53回 パリサロンで配布された英文会社紹介冊子、「66/67 HIno Today」、あたかも考古物が如く「早く発掘してくれよ」と待っていたかのようです!当時の日野自動車のビジョンと戦略の中心であった輸出適格車として、日野コンテッサ1300への社の熱い思い・期待のすべてを語り、あるいは語り尽くしたのではと感じるものです。
冒頭の「Message from Hino Motors」に中の松方社長のメッセージの “豊かな暮らし”や「Art and Cars」の “優れた絵画を選ぶ際に、作品の表面を超えて、その内面の美しさを探求する芸術愛好家と同じくらい、...”にあるように、単なる量産工業製品を超えたみなさんの分身とも云える「製品=日野コンテッサ1300」への「愛 = Love」のようであります。
パリサロンを通じて3年もの月日を費やした欧州進出、トヨタとの提携話しが並行的に進んでいる中で松方社長はじめ関係者はどのような思いだったのか、これは当事者のみしか解らない、あるいは経営者の高いレベル (会社の存続や社員の生活など含めて) での断腸の念をもっても意思決定をせざるを得ない、これは第三者が想像してもしょうがないものであり、結果あるのみです。
ここまで三楽章でまとめた訳で、実際にオランダで生産したコンテッサ1300が欧州に羽ばたくという壮大な夢は、パリサロンのエンディングと共に消えてしまったのであります。つまり、栄光のフィナーレとなる第四楽章には至らなかったのです。その意味でも「悲劇のコンテッサ」であったのです。
参考&参照文献
終わり:総括
記録にはない記憶に残るネットのこの画像は、1965年パリサロンと称されるものの、その際のクーペの奥に位置するセダンと比べると周辺環境からみて整合性がとれない!
また標準仕様ではないルノー R8 ゴルディーニのようなルーフアンテナも一致性がない。確かなる検証が必要である。このセダンにも “MADE IN JAPAN” が誇らしげに掲げられている!
日野コンテッサ1300には、日本国内での情報やナレッジだけでは語れないヒストリーが多くあり、その一つが1964〜1966年のパリサロンです。
私たちは、壮大なビジョンと戦略をもって、その実現のために心血を注いだ注いだ関係者がおられたことを忘れてはなりません。また、残念ながら (自ら) 抹殺するような行為には大いなる抵抗を感ずるものです。「記憶を持たない民族には未来もない (陸 秋槎) 」のように、自らの過去の否定は、自らの将来がないことは歴史をみても明らかです。
日野コンテッサ1300の輸出や1300スプリントについて、オールドタイマー誌の取材活動のインタビューを通じて、記述にように歴史を否定するような知らぬ存ぜぬの態度が感じられました。これこそが問題であり、トヨタ自動車との業務提携などを通して、日野自動車として高いレベルのビジョン (日本を豊かにする) を追求することから、「牙を抜かれたライオン」の如く単に技術だけを求める日野自動車へと変化してしまったのかのようでした。
同インタビューの中の日野自動車の一連のガソリン小型車の計画を築いた岩崎氏の思い、「薫陶を受けた日野自動車の日本を豊かにすると言う小型乗用車製造という社会を変えるビジョン、しかし開発現場は徐々に技術中心へと変化」と憂いを語っていたことがオーバーラップする訳です。
後々、自慢のジーゼルエンジンに関する技術もコモンレール技術などに見られるように完全に欧州勢の後塵をあびることになったと考えます。それは何故でしょうか?ひいては昨今の排ガス不正など、実はその根っ子は企業文化の根幹に触れる根深いもののような気がしています。つまり、“葉っぱや花など陽のあたった部分に水、すなわち栄養を与えても生物は枯れるだけで、根っ子を腐させるこくなく如何に健康で正常に育てるか” ということと感じます。
以上ですが、日野コンテッサ1300の話しが企業倫理のようにもなってしまいました。日野コンテッサ1300の背景には、日本を豊かにする、そのためには世界に通用する乗用車を創る、それには強固な意志があったという当時の日野自動車の松方社長や役員であった内田一郎さんたちが何を思い、何をしたかの事実を1964〜1966年のパリサロンを通じて記述してみました。
松方/内田両氏の意志は残念ながら実現しませんでした。それはまさに断腸の思いであったことは間違いありません。また、当時の日野自動車に期待していた日野コンテッサ1300を販売をすすめたE. Dujardin SA社や各国の代理店の思いはどうたったのでしょうか?
これについては事実して現地で語られていることは、日野自動車はその事業継続をしっかりと支援したようです。つまり、トヨタ車をもって事業転換、これについては、ニュージーランドの生産・販売も同様で、「日野自動車の内田さんには大変感謝している」と今でも語り継がれています。
パリでの日野コンテッサ1300を辿る旅、最後は以下の画像です。フランスの代理店、パリ12区にあったE. Dujardin SA社 (323. RUE DE CHARENTON) 、そこを尋ねると、今はトヨタの看板がかかっておりました。この建物は当時からのものだそうです。おそらくE. Dujardin SA社は、日野車からトヨタ車に転換したことを想像できるものです。
このトヨタのガレージショップでは、残念ながら昔のことはわからないというでした (つなぎ姿の修理工?) 。しかし、オフィスに中には、画像中央のように「錦鯉」のパネルがありました。これは日野の時代からあったのだろうか...なんて、日野コンテッサ1300たちがここに佇んでいたのかなど、もろもろ思い巡らした次第です。文化の歴史とはこのようなもので、決して消えてしまうことはないと確信した瞬間でした。
(終わり)